「七海さん遅いっすね〜」

 間延びしたその声に、わたしはそうですねと言葉を返す。
 表情に疲労の滲むサラリーマンや、オフィスカジュアル姿の女性が、イタリアンバルの窓の外を通り過ぎていくのを、わたしは落ち着かない心持で眺めていた。
 緊張の原因は、正面の椅子に座って頬杖をついている猪野さんの存在のせいだ。

 高専の最寄り駅から五つ離れたとある駅は、わたしの第二の職場だ。
 わたしは呪術高専の英語教師として一年生から三年生までを受け持ちつつ、夜はこの駅の改札口から歩いて三分の場所にある学習塾で、高校生の生徒を相手に英語を教えるアルバイトをしている。
 任務後の猪野さんと偶然この駅で鉢合わせたのは三十分前のこと。

「これから七海さんと近くで飯食うんすけど、先生もどうっすか?」

 奇遇ですね!と弾んだ声で声を掛けてくれた彼は、そのまま流れるようにわたしを食事に誘った。
 七海さんとは一度だけ高専で会ったことがあるし、猪野さんがいるなら話題も尽きることはないだろうと、わたしは二つ返事で了承した。

「ここ、おしゃれですよね。いつも横を通るけど、初めて来ました」
「そうなの? 俺も初めてなんすけど、ネットの口コミが良さそうなんで」

 そう言って、彼は自分のスマホの画面をわたしの方へ向けた。グルメサイトの評判は上々で、特に鴨肉のローストが人気らしい。訪れた人たちがこぞって同じプレートの写真をアップしていた。
 向けられていた画面の上部に、メッセージを受信したという通知が現れ、猪野さんは手を引っ込めて再度スマホに視線を落とす。

「七海さん、あと三十分くらい掛かりそうだから先に食べててくれって」
「そうですか。何か頼みます?」
「そっすねえ」

 わたしたちはメニューを見ながら相談して、トマトとモッツァレラチーズのカプレーゼと各々の飲み物を注文した。
 程なくして運ばれてきたカプレーゼを向かい合ってつつきながら、この日のお互いの仕事の事を話し、空の食器が下げられた頃には七海さんが予告した時間を少し過ぎていた。七海さん遅いっすね。この言葉が猪野さんの口から出たのは、そんなタイミングだった。

「ねえ。先生はなんで先生になったの?」

 カシオレをごくんと嚥下しながら、わたしは猪野さんの不意の質問に目をまるくした。
 英語が好きで、先生になるのが夢だったからと答えると、猪野さんはへえ、と反応して頷く。

「教育実習とか行った?」
「行きましたよ。母校に」
「へー! ねえ、アレ訊かれた? 先生、彼氏はいますかーって」
「謎に定番ですよね。訊かれました」
「なんて答えたの?」

 わたしは猪野さんの背後にかかっていたボードの『本日のおすすめメニュー』という字をぼんやりと見つめながら、うーんと唸って記憶の糸を手繰った。

「確か、いますって答えました。でね、その後は絶対にどんな人か訊かれるから、台本を決めておくんです」
「どういうことっすか?」
「それ以上ツッコまれにくい人物像を予め考えておくんですよ。サークルの先輩で真面目な人、とか」
「じゃ、本当はいなかったんすか、彼氏」
「はい。残念ながら」

 へえ、と猪野さんは言った。
 不思議な沈黙がその場に落ちて、わたしはなんとなくカクテルグラスを手に取る。コースターにビールのジョッキを置いた猪野さんが、わたしの目を見た。

「先生、今は、彼氏はいますか?」

 いつになく真面目な表情の彼と視線がぶつかり、わたしはグラスを両手で持ったまま固まった。
 二年前の教育実習でわたしに同じ質問をした男の子は、質問の答えなどどうでも良いように、からかうようにふざけた声音だった。
 それがテンプレだとわたしは知っていたから、かわし方しか考えていなかった。
 だが今、猪野さんがした同じ質問への最適解はなんだろうか。それを知らないから、どうして良いのかわからない。

「……、いません……」

 どきどきと心臓が高鳴る。猪野さんはわたしの正面で、緊張の糸が解けたようにふわりと笑って、そうすか、と答えた。
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