自宅方面へ向かうバスを待っている時、わたしの目の前に一台の黒い車が停まった。
 音を立てて開いた後部座席の窓から顔を出したのは、黒い帽子を被った呪術師の男性だった。気安げに、笑顔で手を振られるものの、わたしは突然のことに驚きながら小さく頭を下げることしかできない。彼の顔は覚えているが、名前が思い出せなかった。

「こんちは! 授業終わったんすか?」

 彼の言葉に、わたしは「あ、ええ、はい」と返事をしながらこくこくと頷いて見せる。
 続いて助手席の窓も開き、運転席の補助監督の女性が、シートに手を付きながらわたしの顔を見上げた。そして後部座席を見遣りながら、少々困った様子で眉尻を下げた。

「猪野さん! バスが来たら邪魔になるでしょ、そうなったら先生も困りますよ。停めてって騒ぐから停まったのに、もう」
「すんません! けど挨拶してーなって思って」

 悪気なく明るく言う声に、再度心臓が音を立てる。そうだ、猪野さんだ。

 以前、わたしの英語の授業中に急に任務が入った生徒たちは、同行する補助監督に連れられてそのまま去ってしまい、残されたわたしは教室で一人ぼっちになってしまった。
 今ではよくある事だと動じないでいられるが、当時は非常勤講師かつ試用期間のような状況で、大層動揺してしまった。
 彼らがいつ戻るのか、わたしは黙って帰っても良いのか、誰も教えてくれなかった。
 とぼとぼと肩を落としながら教室を後にするわたしに「どうしたんすか?」と声をかけてくれたのが猪野さんだった。

「あ、もしかして任務で授業中断?」
「そ……そうです」
「ありますよねー。っつーか、よくあるんすよ。先生のせいじゃないんで、気にしない方がいっすよ」

 俺が学生の時は、急に任務入るとテンション上がりましたけどね!と彼は笑顔で続けた。
 頭の天辺から爪先まで黒一色だが、その笑顔は太陽のように明るい。わたしが呆気にとられていると、彼は同じ表情のまま首を傾ける。

「まずは挨拶っすね! 俺、猪野琢真です。そっちは?」
「あ……わたしは『窓』の人間で……英語の非常勤講師として来ました」
「そっすか! つーか違うでしょ、自己紹介っつったら名前でしょ!」

 間違いを指摘しながらも、彼は全く責めるような素振りを見せず、わたしは珍しく――初対面の、しかも男性に対して――怖いだとか、自己嫌悪だとか、そういった類の気持ちを抱かなかった。
 実はその時も彼は任務に向かう途中で、補助監督に追い立てられて去っていった。その後、職員室に向かう道すがら、彼の笑顔を何度も思い出しては、せっかく教えてもらった名前を、緊張できちんと聞き取れなかったことを、何度も後悔した。

「んじゃ、俺らは任務行ってきます! またね、先生!」

 後部座席の窓を閉めながら言う猪野さんに、わたしは慌てて頑張ってくださいと告げた。彼は「うっす!」と言って笑った。
 生徒たちの呼ぶ『先生』とは、全く違う響きでわたしの中にいつまでも残るその声。
 わたしに名前を聞いたのは彼だし、わたしはきちんと彼に伝えたはずだ……そんな風に、わたしの方が彼の名前を忘れていたことなど棚上げで、密かにむくれた。
 臍を曲げる理由なんて一つしかない。それにわたしが気付くのは、もう少しだけ後の話だ。
≪back
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -