一人きりの事務室、時刻は定時を超えて一時間。スマホでお気に入りの音楽を流しながら、わたしは残業に勤しんでいた。
 公費が投入されているわたしたちの仕事には、自治体や各省庁への厳格な報告義務が存在し、それには当然締切がセットだ。
 今日、外はしとしとと弱い雨が降っていた。数センチ開けた窓から湿った風が流れ込み、濡れたコンクリートのにおいが柔らかく鼻腔をくすぐる。憂鬱な残業に反し、穏やかな時間だと思った。
 梅雨は人々の五月病の鬱憤が積み上がり、それなりに大きな呪霊となって顕現する季節だ。呪術師は皆一様に呪霊祓除の任務で忙しく、朝礼に参加する人数も、この数日はぐんと減っていた。同伴する補助監督も同様だ。だが、それに伴って事務作業が減るなんてことはないばかりか、むしろ報告書が増えていく。自動的に、概ね待機役であるわたしの作業量も増えた。
 メール送信完了の画面を見届けると、わたしは細く息を吐き出し、両腕をぐっと上に伸ばした。これでひと段落。そろそろ切り上げようかと壁の時計を見るために振り返ったのと同じタイミングで、音を立てて事務室の引き戸が開いた。七海さんだった。目が合って、わたしはぎゃあと驚嘆の声を上げてその場に立ち上がった。
 次の瞬間、スマホのプレイリストが懐かしい曲を流し始めたので、わたしは慌ててスマホを引っ掴んで停止ボタンをタップした。

「……お疲れ様です…………」
「お疲れ様です。事務も遅くまで大変ですね」
「こちらの台詞ですよ、……おかえりなさい、今日もご無事でよかったです」

 お見苦しいところを全部見られてしまったが、七海さんが気にしている様子がなかったので、わたしも気にせず流すことにした。
 七海さんの立つ事務室の入口は暗く、中に入ってきた彼の顔を見上げてようやく、その髪や肩に雨滴を見つけた。

「濡れちゃってます。待ってくださいね、今何か拭くものを」

 あぁ、と七海さんが自身の肩を見つめて言う。
 新年の挨拶で頂いた新品のタオルがまだあったはずだと、わたしは引き出しを探る。七海さんは黙ったままだ。

「あ……あった。七海さん、どうぞ。余ってるし、使った後は、持ち帰って捨ててしまっても大丈夫です」

 白い安物のタオルの包装を剥がしながら、七海さんの正面に歩み寄った。
 彼はありがとうございますと述べながらタオルを受け取り、水滴の浮かんだジャケットの肩や袖にタオルを這わせていく。
 わたしはにこりと一つ笑んで、コーヒー淹れますねと告げ彼に背を向けようとした。待ってくださいと声が掛かる。
 彼の顔を見上げようとしたのと、彼がわたしの腕を掴んで引き寄せ、その広い腕の中に閉じ込めたのは同時だった。

「…………なっ、なにか……あったんですか……?」

 わたしの頭上で七海さんが「ええ」と小さな声で答えた。
 わたしの頭頂部に七海さんの髪から雨粒が滴り落ち、彼はすみませんと口にした。少しだけ湿ったシャツが頬に密着して冷たいが、七海さんの腕の中はひどく熱いと感じる。長い指が髪を撫でる感触に、肩が震えた。
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