前方から歩いてくる七海さんの姿に気付いたわたしは、思わず廊下を引き返して階段の影に隠れてしまった。
 徐々に近付いてくる足音は間違いなくわたしの立つこの場所を目指している。わたしは袋小路に迷い込んだ子兎のような心地でいたが、意を決して廊下に足を踏み出した。

「あっ、お疲れ様です! 七海さん!」
「お疲れ様です。休日だったんですね」

 せめてもの抵抗とばかりに、わたしは廊下の反対側の壁際を陣取り、白々しく驚いた表情を作りながら、七海さんに挨拶をした。
 明らかに挙動の怪しいわたしに、七海さんは僅かに眉間に皺を寄せる。いつもなら子犬のように彼に懐き近寄っていくわたしの不遜な態度に、七海さんが違和感を抱くのは当然だ。「そうなんです、では失礼します」と早口に答え顔を進行方向に向けようとするわたしに、七海さんはふと独り言のような声量で言葉を漏らした。

「化粧……?」

 次の瞬間、ぴたりと動きを止めたわたしに、「……していますか?」と七海さんは声を付け足す。
 わたしは電池切れのロボットのように停止したままだ。急にどちらを向いたら良いのかわからなくなったのは、相手が七海さんだからだ。他の人ならどうにかやり過ごせたと断言できる。
 わたしは取り繕った笑顔を貼り付け、きちんとスムーズな挙動で七海さんの方を向いた。つまるところ、前向きに現状と向き合ったのだった。

「あ、はは……! ……怪しい動きをしてすみません……」
「やっぱりさっき階段に走ったのは、私から逃げたんですね」
「し、失礼しました! えっ、えっと、その……見られるのはちょっと……って思って……」

 ごにょごにょと言葉を濁すわたしの視線は徐々に下がってゆき、七海さんのローファーの爪先で止まった。
 七海さんは何か考えているのか、なかなか言葉を発しなかったが、やがてわたしの頭上に低い声が落ちる。

「初任給が出る日、同期の方と一緒に街に出かけると、以前言っていましたね。楽しかったですか?」

 私はおずおずと顔を上げる。七海さんは眉間に皺がない穏やかな無表情を浮かべて、わたしの両目を見ていた。わたしはこくりと頷いた後、はいと答えた。よかったですね、と七海さんの声が続く。

「洋服を買って、美味しいものを食べて、……ちょっとした、ヘアメイクを。一緒にやりたいって、その同期が」
「そうですか」
「わ、わたし。人生初だったんです、お化粧」

 手の中で、ブランドロゴ入りの小さな紙袋が僅かにひしゃげる。
 キラキラと輝くラメ入りのアイシャドウも、大人びた口紅も、わたしの心を躍らせた。女の子同士ではしゃぐ時間が尊いものだと、ずっと心を開ける友人がいなかったわたしは、今日初めて知った。
 とはいえ、明日以降はまた学生としての生活が待っているので、このキラキラたちはしばらくお休みだ。
 高専の人、それも男性に見られるなんて絶対避けたいと考えていた。浮ついているとか、恥ずかしいとか。要らぬ感情を向けられるのも抱くのも、どちらも嫌だった。
 ……だが、七海さんに嘘をつくのは、もっと耐えられないと直感して、わたしは結局、全部白状していた。

「そうですか。その口紅、似合っていると思います」

 え、と無意識に声が漏れる。
 わたしが七海さんの顔をきちんと見るより先に、「では、また」と言い残して七海さんは歩き去った。
 去り際、ほんのり赤い気がした彼の頬は、わたしが選んだ口紅の色に少し似ていた。
≪back
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -