「高専にもこんなに桜の木があったんですね!」

 ひらひらと舞い散るピンク色の花弁に、わたしは興奮の声を上げる。伊地知さんが蛇口をひねり、バケツの底に水流が叩き付けられる音が耳に届いて、わたしはようやく我に返った。慌てて彼の後ろに控える。

「今年は開花が早かったですからね……助かりましたね」
「確かに、四月に入ってからだと洗車どころじゃなさそうです」

 三月下旬の快晴のある日。昨日まで数日続いた桜を散らす雨の中、高専に戻ってきた専用車が軒並み桜の花弁を引っ被り、これでは次の任務に出られない……というわけで、伊地知さんとわたしとで、洗車をすることになった。
 朽ちかけて茶色に変色し、丸まった桜の花弁がワイパーの下からごそっと現れた。風情も何もない。

「これ、拭いちゃえばいいですか?」

 わたしの問いかけに、伊地知さんが車の陰からお願いしますと答えた。
 わたしがバケツの水に古いタオルを放り込んだと同時に、ふわりと桜の花弁が水面に浮かんだ。不意打ちにわぁ、と声が漏れる。やはり風情はないが、可笑しくて頬が緩んだ。

「春ですねぇ」

汚れたタオルを洗った水に桜の花弁が浮かぶ数分後の光景を想像するとなんだか忍びなく、わたしは花弁を指で掬いあげてその場に立ち上がった。吹き抜けた風に散っていく桜に混じって、わたしの指先から飛び立つひとひら。視線で追っていると、風下に立っている人影に気付いた。

「あっ! 七海さん! お疲れ様です」
「……何してるんですか? 洗車?」

 はい、と答えて笑むわたしに、七海さんはそれはご苦労様ですと言葉を掛けてくれた。車の反対側から伊地知さんも挨拶の声を掛け七海さんが応える隙に、さぁ仕事だとわたしは一人意気込む。
 タオルの水を絞ろうと屈む寸前で、ふと七海さんがわたしを呼んだ。わたしは疑問符を浮かべながら顔を上げる。

「ついていますよ、花びら」

 動かないで、と言葉を続けて、七海さんがわたしの髪に手を伸ばす。
 あっという間に取り去られた桜の花弁は、七海さんの指先からひらりと舞い落ちた。

「は、あっ、ありがとうございます……!」

 七海さんは何事もなかったかのようにいいえ、と答えた。いっそ清々しい程の無表情、通常運転。わたしはたったそれだけのことで心臓がバクバクだというのに。あぁ、これが惚れた弱み。
 そんな子どもみたいな気持ちを持て余しながら、ふとわたしは気付いてしまった。遥か高い位置、七海さんの前髪にも花弁が一片、鳥が羽根を休めるかのように留まっている。

「あ、あの、あの七海さん。七海さんの髪にも花びらが」

 七海さんが目を丸くしてわたしを振り返る。一瞬動きを止めた彼は、どこですかとわたしに尋ねた。右の耳のあたりと答えるも、彼の右手はキャッチには至らず空振り。
 数秒の逡巡の後、七海さんはわたしの前に片膝を着いてしゃがんだ。

「とっていただけますか?」

 至極真面目な視線がわたしのそれと交わり、わたしはぎしりと固まった。温かい春風が吹き抜ける中、急に夏になったかのようにぐんぐんと上昇する自身の体温を感じる。
 そんな様子を黙って見つめていた伊地知さんが、春ですねぇと独り言ちるのが聞こえた。
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