カトレア | 25


プルルル……と電話の呼び出し音が鳴り、こよみはゆっくりと、スマートフォンのスピーカーを耳に近づける。
電話の発信先は、『五条悟』だ。


こよみのスマホの電話帳には、高専関係者の名前は複数登録されていた。
最後に再会したのは伊地知。その前は、呪詛師騒動後に食事をした七海だ。
伊地知の電話番号は、波月の墓参りをした日に聞き出した。
七海と最後に通話したのは、約五か月前の、食事の約束をした時だ。
だが食事の後、こよみは七海に電話をすることはできなかった。
原因は、ひとえにこよみの勇気が足りなかったから。
食事の礼を伝えることすらできない程、こよみは逃げ腰になってしまったのだ。

高専で働きたいという思いを伝える一歩目。その窓口はどこか。
こよみは迷った末に、七海や高専事務室の番号を避け、五条の電話番号を選んだ。
こよみの中に残っている五条の顔やその言動は、小学生の頃に雪風神社で出会った姿のままだ。
日本人離れした端正な顔つきと、サングラスの隙間から時折のぞく、どこまでも続く冬の澄んだ空気に浮かぶ空のような、青い瞳。
常に周囲に親切に接する夏油傑の隣で、一見すると自由奔放で軽薄な印象を受ける。
だが、「呪術師はしんどい仕事だ」とはっきり言い切り、夏油の主張に対立する形でも自らの考えを述べた姿は、こよみの胸を静かに打った。
故郷の土地しか知らないほんの十一、二歳の小娘に真剣に向き合ってくれたのは、夏油も同じだ。
だが五条は、幼い頃から誰よりも深く『周囲と違う自分』を徹底的に自覚して生きてきたのではないか。

こよみが高専に入学した後、夏油と顔を合わせたことは一度もない。
ひょっとしたら亡くなってしまったのではないか――その可能性を感じ取った当時のこよみは、誰にも彼の安否や現状を確認できなかった。
夏油は強い。それを疑ったことはない。
だが、高専に入学してからというもの、実力に関係なく呪術師の負傷や生き死にを聞くことが増えた。
当時のこよみは、誰かの大切な人の生死を、軽率に尋ねることができなかった。



* * *



在学時のある冬の日、高専のグラウンドで七海に呪術の稽古を付けてもらっている最中、ふらっと五条が現れたことがある。

「おーい七海。ちょっといいー……って、ん?一年生?」

こよみにとっては故郷で出会った時以来の、約四年ぶりの再会だった。
サングラス越しにこよみの姿を見据えながら、五条は七海の眼前で立ち止まった。

「えーっと……初めまして?」
「あ、あのっ、わたし、鬼怒川です。鬼怒川こよみです、雪風神社の……」
「鬼怒川……あ、待って。……え、マジで高専入ったの?」

知り合いですか、と七海が尋ねる。五条とこよみは、中間に立つ七海の顔を同時に見た。

「うん。僕が一年の時、この子の故郷で任務があってさ」
「はい。とてもお世話になりました。あの時はありがとうございました」
「そう?むしろ僕らがおばちゃんにお世話になった気がする。おばちゃん元気?」
「祖母のことですよね?はい、元気ですよ」

和やかに会話をする二人を交互に見つめながら、七海は五条の顔を見上げる。

「で、何か用ですか、五条さん」
「ああ、そうだった。ごめん鬼怒川ちゃん、五分くらい七海貸して」
「あ、はい、それはもう……」
「ちょうど終えるところだったので、このまま解散しましょう。いいですか、鬼怒川さん」
「はい。ありがとうございました」
「五分でいいっつってんのに」
「大丈夫です。七海さん、ありがとうございました。五条さん、お話できて嬉しかったです」
「あーうん。じゃあまたね。えっと、うん。こよみ」
「えっ?」

五条は何かしっくりきたように、不意にこよみを下の名前で呼んだ。
こよみが驚きに声を漏らすと、五条は七海の肩をがっしりと掴み背を向けつつ、愛想よく笑いながら再度こよみを振り返った。

「お近づきのしるし。深い意味ないから。ねー、七海」
「それ、私に言う必要ありますか?私のことは名字呼びでしょう」
「あ、七海も下の名前が良かった?」
「やめてください、気色悪いので」
「辛辣〜」

けらけらと笑う五条と、眉間に皺を寄せる七海。
こよみは大男二人の背中を見つめて、「ありがとうございました」と声を掛けた。

隣に夏油のいない五条。
一人きりではない七海。
初めて見る組み合わせが、こよみの目にはどこか新鮮に映った。



* * *



『はーい。もしもし』

十コールほど呼び出し音が響いたのち、明るい声がスピーカーからこよみの耳に届く。
こよみはどきりと心臓が跳ねるのを感じながら、背筋を正した。

「あっ……あの、お忙しいところ申し訳ありません、少しお時間よろしいでしょうか」
『こよみでしょ?久しぶりだね。そんなかしこまらないでよ』
「え、あ、はい……お久しぶりです、五条さん。あの、お元気でしたか」

五条が呪術界の大物中の大物で、スーパーエリートなのは誰もが知るところだ。
呪術界と距離を置いていたこよみにとって、五条が自身に対してどんな応対をするのか、全く想像ができなかった。
それ故に、かしこまるのは当然だった。

『元気元気。こよみは?今は地元にいるの?』
「元気です。いえ、東京で働いています」
『えーっ、そうなの?たまに高専顔出せばいいじゃん』
「むっ、無理ですよ、知り合いなんて五条さんくらいしかいないのに……って、そうじゃなくて」
『ああうん、本題は何?電話でいい話?』
「はい。あの……わたし、補助監督として高専で働きたいです」

こよみの決意の一言に、五条は数秒の逡巡ののち、落ち着いた声音で「どうして?」と尋ねた。

こよみの語り口は、自らの逃げ道を塞ぐと同時に、誰にもその責任を押し付けぬ様、熟考し組み立てられたものだった。
それでもこよみの声音は僅かに震える。
否定されても仕方がない。
五条は、こよみが高専を中途退学したことも、在学中の適性のなさも知っているはずだからだ。

だが、こよみが必死に積み上げた決意も思いも、その全てを語り尽す前に、五条はすんなりとこよみの思いを受け入れた。
こよみは肩透かしを食らったかのような心地で、「本当にいいんですか?」と何度も確認を繰り返した。

『いいって言ってるでしょ〜。こよみが何度も考えた結果なんだから』
「……わたしは、呪術師を辞めました。今更戻っても、足を引っ張る結果になるかもしれないのに」
『呪術師になれなかった自分に、補助監督の資質があるかどうかわからない、みたいな話?』
「はい」
『僕は、こよみなら大丈夫だと思うよ。きみは、自分に向いていないことをわざわざ選ばない。それに、人生一度きりなんだから、やりたいことをやろうよ』
「…………」
『否定してほしいなら考えるけどさ。こよみは、ちゃんと本気でしょ?僕に連絡してきたのは、本気だからでしょ?』
「……五条さんは優しくて、最強だから。五条さんのお墨付きをもらって、他の誰にも否定されないようにしたいって思ったんです」
『姑息でいいねえ。僕、そういうの好きだよ。未来を選ぶ権利があるこよみが、地獄を選び取ろうとしてる。そりゃ、背中を押したくもなるさ』
「…………」
『七海や伊地知だったら、止めるかもしれないけどね。僕は止めない。逆に、こよみは本当にそれでいいの?』

こよみはスマホを握りしめたまま頷く。「はい。いいです」

『じゃあ決まり』

五条の声も、楽しげに弾んでいた。
約一か月後に高専に来い、そこで入職の手続きをする――トントン拍子に話は進み、電話は切れた。

「…………」

通話終了のボタンをタップし、こよみは大きく溜め息をついた。
そして、ふと考え至る。こよみには未来を選ぶ権利があると、五条は言った。

――五条さんは、選ぶことができない。

一度は呪術師を辞める選択をした七海。
呪術師でなく、補助監督の道を志した伊地知。
呪術に関わる人間として有能な二人ですら、自分で選ぶことができたというのに。
五条悟には、“現代最強の呪術師”という生き方以外の選択肢がない。

道に迷い、悩むということは、選択肢があるということだ。事実、こよみは選んだ。
五条は投げ出すことができないのだ。呪術師の頂点に立つ彼は自由奔放に、どんな願いも思いのまま。全ては彼の手の中。だが、初めからそうだったわけではない。
彼がいなくなったらどうなるだろう。
もしも五条悟が、呪詛師の思想に同調したら?
こよみは今、自分がとんでもない人物に許可を請い、そして存在を認めてもらったことに気付く。

『呪術師も補助監督も、人手が足りていなくてね』

先の五条の言葉が、脳内で再生される。
だがおそらく、五条が求めていることの本質は、そういうレベルのものではないのだろう。
五条は強い。腕っぷしや呪術師としての実力だけではない、その心も誰よりも高みに在る。

(支えたい、五条さんのような優しい人を。最強でも、強くても、迷わないはずがない。わたしはやっぱり、呪術師の力になりたい)

こよみの鼻の奥がツンと痛くなる。まぶたの奥に熱が満ちる。
踏み出そうとしているのは、五条が言うように地獄なのだろう。わざわざ選ばなくても良い、茨の道。
それでもこよみは、そこに行きたいと願う。大切な人々の心を、誰よりも近くで見つめ、支え、共に生きたい。

「とりあえず、……退職届を書かなくちゃ」

決意だけでは何も変わらず、組織を動かすのは“手続き”である。
手を動かし、日々を懸命に消費していかなくてはならない。いつまでも感傷に浸っていては駄目だ。

「明日、小野くんにも報告しなきゃ。あとはなるようになる」

涙の滲むまぶたを袖で拭ってから、こよみはその場に立ち上がった。
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