聞き間違い | 07


一人きりの事務室に、こよみのデスクに置かれたパソコンの、タイピング音だけが響く。
補助監督も教員たちも、今日は外出の仕事の者が多い。とはいえ、今のこよみにできる仕事は、事務室内にしかなかった。
電話番をしながら、雑務を中心に片付けつつ、壁にかかった時計を見上げる。時刻はもうすぐ正午になろうとしていた。

「……暇は平和の証拠、だといいんだけど……」

こよみの独り言に答える声はない。
平和を象徴するのはむしろ、呪術師や補助監督の業務がない日のことを差すのだろう。
それはつまり、事務室や校内に彼らがいるということであったり、オフであったり。生憎、静かな高専というのは、外に任務があるということだ。
呪霊祓除、要注意区域の見回り、現地調査、等々。
どれもこれも、呪いに対して耐性があり、祓える者、最低でも戦闘訓練を受けており自分の身くらいは守れる者でないと割り当てられない役割である。
わかってはいたことだが、こよみは呪いが見える程度の能力しかない。高専で学び身に着けた技術は、せいぜい結界術を自らの意思で行える程度で、祓う域にまで達することはなかった。
高専に籍があった者は、過去に遡ってそういうデータが残っており、管理もされているはずである。こよみが業務で外に出られる日はきっと遠い未来だろう。
嬉しいような、嬉しくないような。
そもそも、呪いが見えるだけで対処方法を知らぬ非術師は、世間に少なからず存在する。
少なくともこよみはそれよりはマシなレベルだ。万年人手不足の補助監督に採用された事実は変わらないのだから、案外、すぐに外での任務が割り当てられる可能性もある、かもしれない。

どうか、強い呪霊の発生や、呪詛師の出現がありませんように。
なんの解決にもならないことはわかっていても、願わずにはいられなかった。



* * *



月初の仕事にようやく区切りがつき、伊地知とこよみの目の下のクマが徐々にマシになってきた頃。
相変わらずあまり人気のない高専内を、こよみは一人でうろうろと彷徨っていた。
電話で応対する、高専内の整備・管理業者は多種多様。自販機の中身の補充、産廃業者、寮のリネン類の交換業者など。
ようやく、各業者名と業務内容、担当者の名前が一致するようになってきたこよみは、そういった業者がいつ・高専のどこに現れるのか知る必要があった。
自販機の場所くらいは知っているものの、たった一年と三か月しか滞在していなかった寮の出入り業者用の搬入口は、たとえ見たことがあったとしても自信を持って「ここです」と言える状態ではない。
やっと固定電話への電話番号の登録も終わったので、こよみはデスクに根っこが張る前にと、高専内の地図を出力して立ち上がった。

「わ、グラウンド。懐かしいなぁ」

高専の東京校に初めて来た時、こよみが感じたのは“学校らしくない学校だなぁ”だった。
校内に無数とそびえ立つ寺社仏閣はそのほとんどが虚像。日々配置を変えるせいで、当時こよみは何度も迷子になってしまった。
だが、配置を変える理由は寺社仏閣に備わる扉を隠すためだ。校門、校舎や寮の場所は変わらない。
おおよその人間は寺社仏閣に用事がないし、こよみも例外ではない。単なる風景としてそれらを流し見しながら、目的地である寮を目指していた。

「……あ。誰かいる」

こよみがグラウンドに視線を向けると、そこには複数の学生がいた。
その影は四つ。こよみは内心でわっと感動していた。補助監督として初めて見かけた後輩、というよりは生徒だ。
せっかくなので声を掛けたいが、こよみは特に彼らに用事がない。彼らも同様に、こよみに用事はない。
それに、どうやら生徒たちは鍛錬の真っ最中である。大きな得物を持った女子生徒が、白い制服を着た男子生徒に稽古をつけている。こよみの目にはそのように映った。
その傍らの二つの人影は、声援を送っているのか野次を飛ばしているのかはわからないが、声を掛けているようだ。
入れ替わりの激しい補助監督のために、彼らの貴重な時間を取らせて、邪魔をするのは申し訳ない。
こよみは声を掛けるのは諦め、その場を後にしようとしたのだが。

「…………パンダだ……」

声に出したつもりはなかったが、無意識のうちに、しっかり音声になっていた。
こよみの視線を射止めたのは、ジャージ姿の小柄な男子生徒の隣に座っている、大きなパンダだ。

(あれ?でも、パンダって確か……)

記憶の糸を辿ったこよみは、ひとつの可能性に行きつき、思考を一転させ、再度グラウンドに足を向けた。
こよみがトン、トンと階段を一段ずつ降りる音に、パンダの横に座っていた男子生徒が気付いて、迷いなくこよみに顔を向けた。
目が合った。勘が良い子だとこよみは察する。きっと、等級の高い優秀な呪術師なのだろう。

「こんぶ」
「うん?どうした、棘」

……こんぶ?棘?
こよみは首を傾げながら、彼らに近づいていった。

「突然ごめんね。わたし、今月から補助監督として高専に来た鬼怒川こよみっていいます」
「しゃけ」
「……しゃけ……?」

しゃけとは鮭だろうか。こよみは反応に困り、首を僅かに傾げる。
その後ろからパンダが口を開いた。

「新しい補助監督か。よろしくお願いします、だと」
「あ、ああ、しゃけって、そういう意味なんだ。よろしくね、えっと」
「そういう意味だけじゃないけどな。こいつは狗巻棘。俺はパンダ。よろしく頼む」

「ん?誰だろう、真希さん」
「あぁ?……学生じゃねえな」

稽古中の二人もこよみの存在に気付くと、「一旦休憩挟むか」と言いながら動きを止め、三人に近付いてきた。
こよみが改めて自己紹介のために振り返った背後で、パンダが大きな手を顎のあたりに持っていきながら呟いた。

「って、こよみ?なんか懐かしい響きだ」
「! やっぱりそうだよね、わたし、会ったことあると思う」
「なんだ?パンダなんて動物園に行けばいるだろ」

長身の女子生徒がからからと笑いながら言った。
こよみはその台詞に緊張を解され、笑顔を向けた。

「はじめまして。わたし、鬼怒川こよみです。新人補助監督です」
「僕は乙骨憂太です。よろしくお願いします」
「……禪院真希」
「乙骨くん、真希ちゃん。よろしくね。それから狗巻くんに、パンダくんだね」

こよみが順番に彼らの顔を確認し、にこりと笑う。
真希はぐるりと身体ごと律儀に向き合うこよみの、ふわりと揺れる三つ編みを見つめていた。
真希の不愛想な声音にも、禪院という有名な名字にも一切関与せず、フラットに対するこよみの姿勢は、どこか真希には新鮮に映った。
擦れている自分を自覚せざるを得ないが、そこにこよみは関係ない。

「おまえ、……いや、なんでもねえ。よろしく」
「うん、ありがとう、よろしくね。あ、真希ちゃんって呼んでよかった?」
「ああ。そっちのがいい」
「そう。それならよかった」

「あ。思い出した。こよみって何年か前に高専にいたよな」

和やかな会話に割って入ったのはパンダの声だ。
こよみはぱっと目を輝かせて振り返る。

「そう!パンダくん、半分くらいのサイズだったと思う!」
「何年前だ?」
「高専にいたのは七年前だよ」
「そうか。三つ編みでわかったよ、変わってないな〜」
「パンダくんもね!」
「ま、パンダだからな」

ぬいぐるみなのに、表情豊かで人当たりが良い。
こよみはちらりと、乙骨と狗巻を見た。ほのぼのと二人で言葉を交わしている。

「今日の寮のご飯何かなぁ、狗巻くん」
「高菜」
「高菜なの?」

こよみは、試しに口を挟んでみた。
愛想良く笑って応対する二人は、気分を害した様子は見せない。
だが、急に飛び出した“高菜”の意味まではわからず、こよみは笑顔のまま動きを止める。
狗巻はこよみを見ると、首を横に振りながら言葉を続けた。

「おかか」
「……おかかなの……?」
「あ、えーと。狗巻くんは呪言師なので、話せる言葉が限られているんです。今は、洋食がいいなって」

高菜だのおかかだので、洋食なのか。乙骨の言葉に、へえ、とこよみは頷いて見せた。
それよりも、おにぎりの種類のようなキーワードだけで完璧に会話をこなす三人には舌を巻く。

「みんなは一年生?」
「しゃけ」
「あ、もしかしてしゃけって“うん”?」
「しゃけしゃけ!」
「そっか。みんな優しいね。仲良くしてね」
「しゃけ」
「いいよって?嬉しいな」

「仲良くなってるとこ悪いけど、棘、そろそろ任務だろ。私らももう行かねーと」

真希が得物を袋に収納しながら、狗巻に声を掛けた。
聞けば、これから真希はパンダと共に任務。狗巻は単独で任務に赴くそうだ。
乙骨は五条と共に出張で、これから彼に会うために職員室に向かうらしい。

「鬼怒川さんはいつもはどこにいるんですか?職員室?」
「わたしは事務室にいるよ」
「じゃあ、これから戻りますか?」
「ううん、今から寮なの」

そうですか、と乙骨が少々残念そうに眉尻を下ろす。
「せっかくだし一緒にと思ったんですけど」と言葉を続ける乙骨に、こよみは心がぐらりとする心地だった。間違いなくいい子だ。

「ありがとう。ふふ、五条さんがよく生徒可愛いって言ってるけど、よくわかったよ」
「そうなんですか?」
「悟がそんな殊勝なこと言うかよ」
「おかか」
「うーん。片思いだねぇ」

まぁ、先生なんてそんなものか、と思いもする。
こよみは学生時代に、大好きな同期を一人喪った。学生だからといって身の保証はないことは、よくわかっているつもりだ。

「みんな、行ってらっしゃい。気を付けてね!」

別れ際、こよみは全員に笑顔を向け、そう声を掛けた。
こよみの過去など彼らは知らない。知らなくて良い。生徒には、自分の身のことを第一に、無事に戻ってきてほしい。
呪術師の本分は、非術師の平穏な日常を守り抜くこと。こよみの思いは、呪術師の本分とは合致しないのかもしれない。
それでも、願わずにはいられない。

「…………高専で待つだけっていうのも、結構、しんどいのかも」

笑顔で手を振り返してくれる生徒四人の背中が見えなくなるまで、こよみはその場で見送りながら、ぽつりと呟いた。
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