「ねぇ、ちょっと!」

聞き覚えのある声に、綺羅はイヤホンを片耳だけ外して、それまでテーブルに向かっていた視線を上にあげた。
声のする方を見れば、二人の女子が、速足で歩きながら何かを言い合っている。言い合いというか、片方が一方的に喋っているという感じだ。

「ちょっと待ってってば!」
「なに」
「なんで今日のレッスン、もう終わりにするわけ? 私、まだ全然納得できてない!」
「…もう4時間もぶっ通しでやったでしょ。今日のところはいいよ」
「良くない!」

叩きつけるように叫んだのは、綺羅と同じ事務所にアイドルとして所属する、名前だ。
そんな光景に、心の中でまたか、と呟く。
名前とそのパートナーの少女は、時折こうやって揉めている。原因は大抵、歌の練習に費やす時間についてだ。どうしても練習がしたい名前と、それを良しとしないパートナーの意見が食い違う。

「名前、ちょっと練習しすぎ」
「えっ?」
「言われたでしょ、この前。何事もやりすぎは毒だって」
「そうだけど、でも私は…」
「でも、じゃないから」

淡々と名前の言葉を遮った少女は、鍵がついたキーホルダーをちゃらりと指で弄ぶ。
名前がいつも練習のために籠っている、レコーディングルームの扉の鍵だ。あれがないと、歌のレッスンは難しい。

「とにかく今日は終わり。続きは明日。歌の練習はもうダメだよ、名前」
「ちょっと待ってよ! ねぇ、話を…」

そう言い募る名前を、ちらりと横目で窺ったパートナーの少女は、それでも結局何も言わず、歩き去ってしまった。
その場に残される、名前。と自分。
呆然とパートナーの後姿を見送った名前は、突然頭をぐしゃぐしゃに掻き回したかと思うと、隣の椅子を乱暴に引く。

「あぁもう!」

まるでアイドルらしからぬ挙動で勢いよく椅子に座った彼女は、がばっとテーブルに突っ伏した。まるで綺羅のことなんか、気にしない様子だ。
テーブルで新曲の作詞の作業をしていた綺羅は、名前に話しかけるべきかどうか迷って――だが掛ける言葉は見つからず、結局視線は手元の紙切れへと戻る。
携帯オーディオには、先日渡されたばかりの新曲が入っていて、これをリピートしながらの作業。集中しようと、外していた片耳のイヤホンを着けようと手に取った時だった。

「…そういえば、デビューおめでと」

テーブルに突っ伏したまま、顔だけこちらに動かして、名前が言う。
眉間に皺を寄せたまま、ぶっきらぼうに呟く名前は、どこからどう見ても綺羅達のデビューを祝福しているようには見えなかった。
単に、面白くないと思っているのだろう。彼女達はまだ、正式なデビューをしていないから、焦っているのかもしれない。特に名前は、綺羅達のグループをライバル視しているような節がある。

「それ、新曲? ちょっと貸して」

言うが早いか名前は、綺羅が持っていたイヤホンの一方をぱっと奪った。
それを耳に着けて、携帯オーディオの端末を勝手に操作して、曲を頭から流し始めた。何度となく聞いたイントロが、左耳から聞こえてくる。

右隣を見れば、右耳にイヤホンを着けたまま、目を閉じて曲に集中する名前。このままでいいものか、少しだけ戸惑う。
二人で体を寄せて、右と左のイヤホンをそれぞれ使って一緒に音楽を聴いている、この体勢。事務所内の建物とはいえ、一応お互いにアイドルだ。
普段はその辺りのイメージにうるさい名前は、全くその気がないナギのスキンシップすら嫌がるのだが。

レッスンが思うようにできないストレスで、そこまで気が回っていないのか。
指摘をしようか迷ったが、別に実害もないので、わざわざ言う必要もないだろうか、と思い立つ。

そうこうしている間に、曲が終わった。静かになったイヤホンを耳に着けたまま、綺羅は視線を横に滑らせる。
名前が何を言うつもりなのか、少し気になった。

がたん、と。
椅子を床に倒す勢いで、名前が席を立った。
彼女は何も言わない。ただ強い瞳で前だけを見つめていて、そのうち、す、と小さく息を吸う。
何が始まるのか、と考えるよりも早く、名前の喉が、震えた。

歌。

聞き覚えのある歌詞に、メロディ。
デビューのために作っている新曲ではない。それよりもずっと前、彼女が学生だった頃に作ったものだ。
翼、風、空。そんな言葉が散りばめられたこの曲を初めて聞いたあの時。紛れもなくこの曲は、彼女自身だと、思った。

あの頃に比べれば、格段に技術は向上している。
ついさっき、パートナーに練習禁止を言い渡されていたことを忘れる程に、聞き入ってしまうほど。
1コーラス分を歌いきった名前は、天井を見つめて、一つ息を吐いた。椅子に座ったまま、その様子を見上げていた綺羅に、彼女の表情は見えない。

「私だって。もっとちゃんと練習できたら、きっと…綺羅くん達に追いつけるのに」

悔しそうに、悲しそうに、ぽつりと呟いた言葉は、今の彼女の本音だろう。

名前の作り出す音楽には、力がある。力というか、魅力、というか。
心の底から"音楽"を楽しんでいるような、そんな曲を作って、そんな風に歌う。
どこまでも青く広がる空に放たれた、鳥のように。
今の曲を初めて聞いた時、そんなビジョンが、頭の中に流れ込んできた。
素直に。もっと聴きたいと思った。名前の音楽に、触れたいと――そう思った、のに。

「名前」

ぐっと、二人の距離が縮まった。さっきの、イヤホンの時よりも、もっとずっと。
綺羅が立ち上がって、名前の腕を掴んで、ぐっと引き寄せたからだ。
そのまま、額にかかる前髪をくしゃりと掻きあげて、そこに唇を寄せる。
突然のことに怒る余裕もなく、ただ驚いているだけの名前に、綺羅はただ、言う。

「そうじゃない」
「え?」
「名前に必要なのは、そういうことじゃない」
「なに、が、?」

今の彼女に、あの頃の"鳥"の面影は、どこにもない。
ただ将来が不安で怖くて仕方がなくて、そんな気持ちを紛らわそうとレッスンに没頭する。あの頃の、音楽を自由に愛して、楽しんでいた面影は、どこにも。

必要なのは、努力じゃない。技術、でもない。
大空へ飛び立って、何よりも高く遠く、どこまでも自由に、羽ばたいてほしい。それこそ、綺羅の手すら届かないところまで。
彼女に望むことなんてただ、それだけなのに。
自分で作った枷に囚われたまま、誰よりも綺麗な羽を自ら毟り続ける少女の、なんと愚かなこと。


翔けるの背を追って


20130824

(夢主ちゃんに、どこまでも自由に音楽を愛してほしいと願う綺羅くんと、アイドルとしてどこまでも大きく遠くなっていく綺羅くん達に焦る夢主ちゃんのお話)

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -