「名前、」
彼の骨張った手が私の頬を撫でる。見上げれば細められた彼の瞳。彼の意図を悟った私は、両手でそっと彼の眼鏡を外し近くのテーブルに置いた。
私達を隔てていたレンズが消え去り、バイオレットの瞳と搗ち合う。その綺麗な瞳に吸い込まれるような、そんな錯覚に陥っていると徐々に彼の顔が近付いきて。
「鳳さ…」
「目、閉じろ」
彼の言う通りにすれば、重なる唇。最初は優しく触れるだけだったそれは、気付けば呼吸をも喰らう激しいものになっていった。酸素を求め口を開いても、許さないと言わんばかりに舌を絡め取られ口を塞がれる。
私が漸く酸素を取り込めるようになった時には、彼に支えて貰わなければ一人で立つこともままならなくなっていた。
「全く、いつまで経っても上達しないな。せめて息継ぎくらい出来るようになったらどうだ?」
「……ごめんなさい」
「冗談だ。お前のそういうところ、嫌いじゃない」
再び彼の顔が近付いて来たため、彼に倣い目を閉じる。と、同時に軽快な音楽が部屋に響き渡った。
この曲を設定しているのは一人しかいない。そのことを知っている彼は、電話に出るようにと目で促した。元より、私も出るつもりだったため躊躇いなく通話ボタンを押す。
“やぁ、レディ。今大丈夫かい?”
鼓膜を震わす甘く低い声。
心地好い声に目を細めると、後ろから抱きすくめられ腰に手を回される。私は彼の腕に手を添えながら、電話口の向こうの彼と会話を続けた。
“えぇ、勿論大丈夫ですわ。でも、神宮寺さんこそお忙しいんじゃ…?”
“これから料理番組の収録なんだけどね、まだ少し時間があるから大丈夫だよ”
“もしかして、四ノ宮さんと出てる番組ですか?先週のデザート、独創的でとても素敵でした”
“観てくれてるんだね、レディ。嬉しいよ”
“――婚約者ですもの、当然ですわ”
暫し雑談を楽しんでいると、収録の時間が来たようでまた連絡するよと通話が切れる。
スマホの画面を眺めていると、私を抱きすくめたままの彼は声を上げて笑い出した。
「まさか電話口の向こうの婚約者が、他の男と一緒に居るとは思わないだろうな」
「…どうでしょうか。神宮寺さんは聡い方ですから、もしかしたら気付いてるかもしれません」
「だとしたら、困るのはお前じゃないのか」
「お互い様ですから。それに――」
こういうの、お好きでしょう?
そう問えば、彼の口角が目に見えて上がった。全く気付かれていない関係よりも、気付かれているかもしれない関係の方が、きっと。
「イイねぇ…実にイイ。最高にゾクゾクするぞ」
「……えぇ、私もです」
愉しそうに笑う彼に、私も嬉しくなって自然と顔が綻ぶ。
私達って、実は似た者同士かもしれませんね。
ブラックロマンス
(あとは、一緒に)(堕ちるとこまで堕ちていくだけ)