REUNION2




 クロコダイルという男は、変わっている。変わっているという表現が正しいのかマルコにはわからないが、とにかくマルコがこれまで出会ったことがないタイプの大人だった。
 出会ったことがないといえば、マルコを文字通り拾い上げた白ひげも、何かと世話をしてくれるサッチもこの船の上の人間は皆変わっているのだが、クロコダイルは一等変わっているとそう思う。

「口がきけるなら返事しろ。分からなきゃ聞け。覚えられなきゃ書け」

 マルコが「マルコ」という名になって一番最初にまともに彼の声を聞いたのは、そんな内容だった。話しかけること、その場から動くこと、食べる事休むこと、そして拒否する事。その全てに許可を得る事は必要のない事だと言われ、マルコは戸惑った。今までしてはいけなかったことの全てが不要だと言われたのだ。
 クロコダイルの机の上に積み上げられたのは、マルコのための日用品で、ペンと紙、数枚のタオル、流石に誰のお下がりを貰うわけもいかなかった服は、同乗する小柄なナースの古いシャツや丈の短いズボン等が集められていた。それらは全てマルコのものだと、先程まで居たサッチは言った。自分の物、という感覚は酷く薄く曖昧で、これを使う事、クロコダイルに話しかける等ということは、所謂勇気の必要な事だった。クロコダイルはサッチのように、マルコと話すときに目線を合わせるなどという事は絶対にしない。痩せて、クロコダイルの膝までしか背のないマルコが殴られでもしたら。 マルコの能力は、再生はするが痛みが無くなることはない。痛いのはもう嫌だった。この船に乗ってからはまだそうなったことはないが、不安が無くなったわけでは決して無い。
 逡巡するマルコに、クロコダイルは磨かれた黒い靴先でコツリと床板を叩いた。はっとして見上げれば、鋭い金色の目がじっとマルコを見下ろしていた。彼の目が金色だということも、マルコはこの時初めて認識した。
クロコダイルの機嫌を既に損ねたのなら、もう残るはひとつしか道はなかった。少なくともマルコは、そう考えた。

「……はなしかけて、いいの」

 汚れたシャツの裾を握り締め、緊張で掠れた声で、マルコは問うた。振動で、喉元に垂れて固まっていたソースがぱらりと剥がれ落ちた感触があった。
 朝にサッチに連れて行かれた食堂で、マルコは出されたものを「言われた通りに」食べた。この船に乗る前からろくに食べさせて貰えず、昨日も丸一日何も口にしていない。食べ物の匂いを嗅いだ途端、マルコは耐えられないほどの飢餓感を感じた。椅子に乗りあげて半身を丸め、奪われぬように皿を抱えて手を突っ込んだ。ミルクの匂いのするスープは少し熱くて、でも冷めるのを待っていたら次にいつ食べられるのか分からない。口にスープの中で溶けた肉や野菜を詰め込みながら左手でパンを握り、体の下に隠した。すぐに飲み込めないパンは確保だけして後で食べるのだ。カットされたチーズはシャツの中に投げ入れ、小さくて丸くて甘い、名前もしらない果物をちぎり取っては口に詰め、果皮から弾ける雫が飛び散っても気にする様子は全く無い。皿の上の物がなくなり、子供には多すぎただろう量を腹に収めてもベトベトにした手を舐めているマルコはパンを離そうとしなかった。食べるのに夢中だったマルコは、ようやくサッチが困ったようにテーブルに肘を付き、マルコを見ていたことに気がついた。自分が何かいけないことをしたと思ったのか、パンを戻そうとしたマルコにサッチは「それも食っていい」と言った。

「躾はどうすんの、クロコダイル」

 大きな影がマルコを覆い、いつのまにかクロコダイルがマルコの後ろに立っていた。サッチの口から出た躾という不穏な響きに、パンを抱えたままのマルコは動けずにいる。
 サッチが席を立ち、手招かれたクロコダイルがマルコの座る席の端に移動して、話し声は聞こえなくなった。マルコを見ていた食堂にいた男達が、食べ終えて出ていく時に何故かマルコの前に残った果物や、手の付いていないクラッカーを置いて行く。「昔思い出して辛ぇ」「よかったな坊主」と中には涙ぐんでいる男もいた。
 戻ってきたサッチに、オヤジに会いに行くので食べないならパンは置いていけと言われたので、手形の着いたパンはテーブルの上に戻された。昼飯も晩飯も、お前の分はちゃんとあるからとも言われた。
 腹が満ち、思考が巡る。男達は、食べ物をくれた。だから、サッチの云うことは嘘ではない気がした。そうだといいと思う。
 クロコダイルのコートの後を着いて、昨日のように白ひげの元に向かう途中、彼は一度だけ振り返った。



「わからねぇ事を理解しないままでいるのは阿呆のする事だ。一度言ったことは覚えろ」

 鋭い眼光がマルコを射抜いたが、手も足も、罵倒の言葉も何も降っては来ない。それどころか、今まで何も聞かなかった事をクロコダイルは咎めている。指先が白くなるほどシャツを握り締め、マルコは息を吸い込んだ。

「おれが、話しても、殴られない?」
「ああ」

 短く、クロコダイルが頷いた。それは俄に信じがたく、けれどもマルコにはどうしても必要な確認だった。海の上で、幼い子供が一人、どこへ行くことも出来ない閉塞的な世界で、とてもとても大事なことだった。

「お腹が空いたら、ご飯がもらえるのかよい」
「飯は日に四度だ。時間に遅れなきゃ食える」

 マルコがシャツにいれたままだったチーズが、ころりと腹の上を転がった。こんな小さな欠片でも、隠し持っていなければ不安で仕方がなかったのだ。

「おれの、仕事は?」
「なに?」
「仕事、しないと……また、痛いの、する?」

 要領を得ないマルコの問い方に、クロコダイルは大方を理解した。小刻みに震える小さな手の甲から目を逸らし、クロコダイルは荷物の中から服とタオルを掴んだ。

「新しい仕事をやる」

 息を飲んだマルコの眼前に、古びた、けれども清潔な布地が突き出されていた。

「おれは小汚い格好をした奴は気に入らん。外にいる連中に場所を聞いて体を洗って来い。あとはサッチか別の奴に聞け、雑用ならいくらでもある」

 タオルを握りしめ、部屋から出て行けと扉を指されてマルコは一歩後ずさり、それからくるりと後ろを向いて大きなドアノブに手をかけた。マルコは覚えていないが、昨日必死で開こうとした扉だ。

「マルコ」

 ピタリと足を止め、マルコはクロコダイルを振り返った。マルコ、と呼ばれた。それだけなのに、恐怖とは違うざわりとした何かがマルコの胸の中をざわめかせた。

「飛べるようになれ」

 ――ゆっくりと、ぜんまい仕掛けの人形のようにマルコは頷いた。そして、勢い良く明けた扉から転がるように走り出た。
 マルコは、走れる。すれ違う男達はすぐに浴室を教えてくれて、マルコを邪魔しようという者は誰もいない。今直ぐ飛んで行ったとしても、誰も咎めない。
 体は、羽のように軽かった。





2011/02/06




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