死の手触り




 若い頃は音楽家になりたかったという船医はぐるぐるとカールした奇妙な髪の毛の束を揺らし、痩せた小さな腕に針を刺す行為を謝罪するかのように優しく子守唄を歌いながら手早く薬液を注入し、脱脂綿からアルコールの匂いをさせる暇もなく夜着の袖を引き下げた。

「子供ってのはすぐ熱を出すもんだ。心配しなくてもすぐ下がる」
「そうか」
「おいおいおい駄目だぜ?こいつはあんたが預かってんだ。生憎怪我人が一杯でここに置かれても困る。異変がないか、見ててやんな。言っただろ?子供ってのは直ぐ熱を出す。だから体調も変わりやすい。何かあったら連れて来な。そうじゃなけりゃ、明日にゃ歩けるくらい回復すらぁ」

 子供ってのは、そういうもんだ。しつこく繰り返した船医は、葉巻がなければ今にも舌打ちしそうな苦々しい表情の大男に小さな子供を氷嚢ごと押し付け、連なる怪我人のベッドの列に戻っていった。
 クロコダイルが黒鯨で主船であるモビー・ディックを一月あまり離れてようやく戻ってきたその時には、船内は野戦病院と化していた。中規模な海賊船団と衝突中に運悪く、航行中だった海軍が参入した乱戦に次ぐ乱戦だったとクロコダイルはとっくに終わってしまった祭りの後の甲板で報告を受け、順調過ぎた帰路の退屈さを思って眉間の皺を深めた。
 そして、この腕の中に居る子供だ。
 白ひげに帰還の報告をしないわけにはいかず、クロコダイルは開け放たれたままの巨大な船長室に足を踏み入れた瞬間、三日月型の髭の下でにやりと笑った白ひげと目が合った。

(何が駄賃だ、クソジジイ)

 右腕に抱えた熱の塊を、心底忌々しく思う。 
 薄汚れて痩せた子供は白ひげに背を押され、クロコダイルと目を合わすこともせずにクロコダイルの歩幅で二歩の位置に立った。当然意味のわからぬ船長命令にクロコダイルは戦闘に参加できなかった苛立ちのままに拒否を申し立てたが、白ひげはどうしても折れなかった。
 白ひげは慈善者ではない。敵船にどこぞの島から連れ去られた女や子どもが乗っていたとしても、今まで一度たりともこの船に乗せたことは無かったはずだ。
 一度決めたことを覆す男ではない。でなければクロコダイルは今この船に乗っている所以もなかった。
 ゆっくりと不満を押し込めて新しい葉巻に火をつけて見せる程度には白ひげに不快を表し、子供に顎でついてこいと示して船長室を出れば、子供はクロコダイルの後に素直に従った。だが身長二メートルを超える男と子供の歩みの差は歴然で、子どもが小走りになってもクロコダイルとの距離は開く一方だった。とっとと隊員の誰かに押し付けようと考えていたクロコダイルは仕方なく足を止めた。首根っこでも掴んで運んだほうがマシだとそう思ったからだ。
 とん、と柔らかい衝撃がクロコダイルのぶ厚いロングコート越しに足に伝わる。
 止まると思っていた子供はそのまま真っ直ぐにクロコダイルにぶつかり、反動で真後ろに倒れこんだ。床の上で鈍い音を立てて子どもの頭が跳ね、ピクリとも動かなくなる。
 不本意といえども船長からの預かりものだ。これで子どもが死ぬような事があれば、言い訳も立たない。長い脚を折り、子供の息を確かめようとしたその瞬間。
「――――!?」
 子どもの首から上が一気に燃え上がった。馬鹿な話だが事実で、そしてクロコダイル自身がその能力を見た多くのものが目を疑う身体を持っている故に理解は早かった。
 能力者か。
 温度のない青い炎に包まれていた子どもの顔が徐々に現れ、小さな口がヒュウと息を吸い込むのを見た。初めてまともに見た子どもの顔は死人のような土気色で、このまま放置すれば死ぬだろう事くらいはクロコダイルにも分かった。首と頭の骨も確認してみても異常はないが、体温は異様に高い。何の能力かはわからないが、効力を発揮するのは外傷のみらしい。そしてこの熱が突如出たのでなければ、子供は意識を保つのもやっとの状態でクロコダイルに従っていたという事になる。
 クロコダイルは、首根っこを掴むかわりに右手で背中を抱きかかえてコートの中に小さい体を隠すと、音もなく船医たちの戦場へと飛び始めた。







 いつもは日が落ちても騒がしい船上は、傷病者が多く出ているせいか波の音が聞こえるほどに静まり返っていた。机に向かってペンを動かしていたクロコダイルの背中で、氷嚢の落下する水音と毛布がこすれ合う小さな音がした。子どもが目を覚ましたのだろうとわかったが、手を止める気はない。生活の全てに手がかかるような年齢には見えなかったし、視界に入る場所に水差しも置いてある。回復したければ自分で飲めばいいし、それぐらいの意欲がなければ死ねばいい。それは自分の責任ではないとクロコダイルはこれまで生きてきた価値観においてそう考えている。
 どんっ、と重い落下音が響く。流石に確認しないわけにも行かず首を巡らせると、案の定子供はクロコダイルの体格に合わせた足の高いベッドから床へと転落していた。土気色だった顔はマシになっていたが青白さの上に赤味がかかり、熱が下がっていないことは明白だ。
 クロコダイルが目に入っていないのか、子供は床に這ったまま部屋を見まわし、真っ直ぐに扉へと向かった。立ち上がろうとして膝を付き、よろよろと何度もこけては起き上がり、まるで何かから逃げるような必死さでドアノブに縋った。高い位置にあるノブが中々回せず、空回りする金属がガシャガシャと焦った音を立てる。

「おい」
「――――!!」

 背中からかけられた声にようやくクロコダイルの存在に気がついたのだろう子供の肩が跳ねたが、決して振り向いて確認しようとはせずに子供は躍起になってドアノブにしがみついて体重をかける。ようやく開いた扉からそとに転がり出て走ろうとしたのだろうが縺れる足は枷のように子供を床に引きずり下ろす。クロコダイルが数歩も歩めば簡単に手が届く位置で、必死に逃げ道を探す子供は従順にクロコダイルの後ろに付いてきた人間と同じ者とは思えなかった。熱に浮かされ、まともな思考ではないのだろう。いや、こちらのほうがまさに本音からの行動だろうと思われた。
 ようやく壁に縋って立ち上がった子供は、波の音が聞こえる方角へと進む。廊下を抜け、甲板に現れた子供に驚いた船員たちに来るなと手で制し、クロコダイルはゆっくりと子供の後ろを歩いた。
 熱と恐怖にうかされた小さな顔が、夜空を仰ぐ。僅かな星を目にしたのかどうかはわからない。そのまま子供の体が数時間前のようにゆっくりと青く燃え上がり、その形を変えてゆく。
 鳥。青く燃える、炎の鳥だった。
 動物系であるとは予想外ではあった。だが、今まで多くの国を旅したクロコダイルにも見たことがない鳥、そして目にしたあの能力。白ひげがなぜ敵船からこの子供を拾ったのか、わかるような気がした。
 軽い筈の翼を何度も不器用に羽ばたかせ、僅かに飛び上がっては甲板に落下し、また羽ばたこうとする。それは親鳥に飛び方を教わる前の雛のような不器用さで、子どもがそれまでに一度も飛行能力を使ったことが無いことを意味していた。高さを保てず船縁にぶつかり、鳥は無様に背中から
落下した。それ以上向こうは、夜の海だ。飛べない鳥が海に向かう。その理由は、唯ひとつ。
 あと一歩で海へ――飛び、落ちる位置で、雛鳥の首をクロコダイルはいとも容易く掴み上げた。苦しさに雛鳥はもがき、獣化を保てずに子供の姿になって首を支えるクロコダイルの右手を掴もうとするが、触れるたびに形を無くす手は縋る場所すら無い。
 子供が意識を失いそうになる直前、クロコダイルは手を離した。尻から甲板に落下した子供が苦しげに咳き込み、肩で呼吸をする。

「死にたいか」

 悪魔の宣告のように、低いクロコダイルの声は子供の頭上に降りかかる。血走った眼球に涙を浮かべ、子供は初めてクロコダイルを見上げた。

「死にたく、ない」

 搾り出すような嗄れた声で、子供は叫んだ。蚊の鳴くような音でも、それは叫びであった。

「死にたくない、でも……死なない、と、ずっと……痛いよい、苦しい、のは」

 もう、いやだ。
 涙も零さずに青い瞳がクロコダイルを睨みつけた。彼を、その後ろを、世界の全ては子供に優しくあるはずがないと思っている瞳だ。迫るクロコダイルの手から逃れる術もない子供は、熱に浮かされた身体を守るようにぎゅっと膝を抱える。その姿は、まるで卵の中に浮かぶ無力な雛鳥に似ていた。

「明日になれば、死んでいい」

 クロコダイルの腕に閉じ込められた子供は熱い息を辛うじて吐き出して小さな顔を上げた。

「……あし、た?」
「明日だ。夜が明けたら、死のうが生きようが好きにしろ」

 腕の中のからだが、重みを増した。子供はもう、耳の下にあるクロコダイルの心臓の音しか聞こえていない。けれどもその顔は、安心しきったように微笑んでいた。


 

 
2011/01/10

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