夜の虹 2





 駅前にある塾を出る時間は、丁度仕事が終わって一杯引っ掛けたサラリーマンや勤め人たちの帰宅とかち合っていつでも混み合っている。暖房で温まった体に夜風は容赦なく吹きつけて芯まで冷えてしまいそうだった。エースはマフラーをきつく巻き直し、重い肩掛け鞄のせいだけではない猫背で近道であるタクシー乗り場を横切ろうとした。

「エース」
「……?」

 聞き覚えのない声にエースは周囲を見回した。真っすぐ前を見ていなかったせいで、タクシー待ちの列に並んでいた人物に気がつかなかったらしい。

「エース、塾の帰りかい」
「…マルコ!?いつ帰って来たんだ、ひっでぇ声!」
「上海で風邪貰っちまったらしいんだよい。あぁお前受験生だろい、治ったら行くからサッチにも帰ったことだけ伝えてくれ…おい、風邪だって言ってるだろい」

 後部ドアの開かれたタクシーに乗り込んだマルコを押しこむようにして同乗してくるエースを追い出そうとするが、エースはちゃっかりとドアを閉めて行き先を告げた。困惑する運転手にマルコは仕方なくそれでいいと告げる。

「どうせマルコん家、寒いし布団は湿気ってるし風邪薬も食べ物もねぇだろ。そのまま帰したらおれがサッチに叱られる。飯食ったらおれは自分の部屋に引っ込むから、マルコは温かくして寝てすぐ直せよ」

 ずずと鼻を啜ってマルコは諦めたように頷いた。サッチに叱られるのは二人にとって一番避けたい事なのだ。

 マルコは世界中を回って仕事をしている。ライターだったり服のバイヤーをしてみたり、二年前までは絵にはまって抽象画のような油絵やデジタルアート、広告のポップ等も描いていたらしい。そして今はカメラを担いであちこちにフラフラと出かけていて、今回の帰国も実に半年ぶりだった。飽きっぽくて仕事が長続きしないんだよい、と本人はろくでなしのような発言をしているが、それでどうにか食べて行けている上にマルコを相談窓口に色々な仕事に就いている友人知人から電話がなにかとかかって来る所を見れば、仕事は出来る男らしい。
 仕事は出来るらしいが、その他の生活は破壊的に駄目なのだ。
 何かに没頭すると寝食をすっぽりと忘れ、限界まで作業をしては倒れる。当時美容学校に通っていた十代のサッチが、隣の部屋の作業音がうるさすぎると苦情を言いに鍵も掛かっていなかったアパートのドアを開かなければ、このご時世に栄養失調と低体温という理由で命を落としていたかもしれないという逸話を聞いたエースをは心底呆れたものだ。
 サッチの怒る姿は、それはそれは恐いのだ。しかも普段は大抵の事は笑って寛容に許してくれるサッチとのギャップがありすぎて、本当にサッチ本人だろうかと疑いたくなる程に。エースも一度だけサッチを怒らせたことがあったが、あれはもう体験したいものではない。静かに音もなく、心臓に細く長い針を沈められたように体中が冷たくなる錯覚を起こし、実際子供だったエースは本気でチビリそうになった。

「……サッチは、元気かい」
「風邪ひとつひいてねぇよ。あと、ベイさんがたまに来てるよ。マルコの馬鹿はまだ帰ってこないのかって」
「あー……メールの返事、すっかり忘れてたよい」
「怒ってたぜ?そりゃもうサッチくらいに」

 ニット帽を目の下まで下げ、マルコが窓ガラスに寄りかかってため息を吐いた。ベイは高校時代のマルコの恋人で、こんな男のどこがいいのか高校卒業後までは続いていたそうだ。今はほとんどマルコの母のような気持ちで生存確認をしていて、良い友人関係……保護者関係をサッチと共に築いている。

「勉強、うまくいってるかい」
「ぼちぼち。でもまだ悩んでるよ」
「仕事なんてたくさんやってみて決めりゃぁいいよい」
「マルコは沢山し過ぎだと思う」

 反論出来なかったマルコがコツリと額をガラスにぶつけ、運転手が少し嫌な顔をした。街灯りが少なくなり、見慣れた風景が窓の外に映る。
 エースとマルコは、どちらからともなく拳を上げて、外国の青春映画のようにゴツリと指の節を打ちつけた。二年前、二人が取り決めた約束の確認をするために。
 戦友でも共犯者でもない二人が、お互いに隠し持っている感情に溺れ死ぬのを、少しでも先に伸ばすために。


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