爪先の熱





 コックが給仕の手間が省け後始末をし易い、という至極単純な理由で食堂におけるエースの席は調理場の目の前で、その席に空の皿が積み上げられて居るということは先程までその席の住人が居たという事になる。
 テーブルの上はいつもながらの大惨事で、食い滓は半径三メートル以上に飛び散り、皿に顔を突っ込んだ際にはみ出したミートソースが木目に入り込んで抽象画のような意味の分からない模様を描いている。今頃エースの顔も体もさぞかしソースの匂いがするだろうと考えて、ソースどころかエースからは常時フライされた肉や食べ物の匂いがするので今更誰も気にする者は無いかとマルコは思い直した。

「毎日毎日大変だな」
「鍛えられますよ。しかしまぁ、エース隊長があと二人もいたら俺らは過労死しそうですがね」

 ベテランのコックがマルコの目の前に遅めの昼食を並べ、ついでにとエースの皿を一抱えにして調理場に消えていった。若いコック見習いたちが一番隊の座るテーブルに配膳しては帰り道にまた汚れた皿を持って行き、エースの席が移動すればこの合理的な流れは澱むのだろうなと考えつつマルコは肉汁の滴る海王類のソテーを口に放り込んだ。生憎エースの食べっぷりを見て胸焼けを起こすほど繊細な神経は持ち合わせていないマルコは隊員たちと談笑しながらエースよりは控えめな昼食を全て平らげた。

「マルコ隊長、俺らはちょっと体動かしてから休みますけど、マルコ隊長は混じりますか」
「今日はやめとくよい。お前等がいねぇうちにゆっくり風呂に入って寝るよい」

 戦闘の無い海の上で気力をもてあました若いクルーたちは当番の無い日は決まって何か賭をして手合わせをしたり、砲撃演習等を始める。手持ちの仕事が無い日はマルコもよくそれに参加しているが、今日はゆっくりと昼寝でもしたい心持ちだった。
 甲板に向かう一番隊に手をあげ、白鯨の腹の中にある大浴室へ向かう途中に聞き慣れた笑い声がして振り向くと、それは医務室が発生源で、おおかたナースにちょっかいでもかけられているのだろうと捨て置いて脱衣所まで辿り着けば、なるべく清潔に保たれるようにしているその場所から何故か肉の臭いがしてマルコは口の端を歪めた。
 まるで青い鳥の童話のように点々とパン屑ならぬミートソースが浴室までの道を指し示し、その終点には見覚えのある黒のハーフパンツが脱ぎ捨てられていた。ハーフパンツの中身は医務室にいたはずなので、二番隊員に着替えを取って来させたのだろう。エース自身は戦闘時以外に部下に身の回りのことで命令する事は殆ど無いが、元スペード海賊団の一部も混じっている二番隊はエースにほとほと甘いのだ。
 長期航海中に湯船が満たされる事は滅多に無い。ざっと汗と埃を流し、バスタオルを肩に引っかけてたいして汚れていないズボンを履き直し、下着とシャツを丸めて来た道を戻る途中にミートソース男が医務室から出てくるのに出くわした。

「あれマルコ、パンツとりにいくの?」

 自室まで遠いマルコが着替を取りに行くのが面倒で上半身裸でうろついているのは珍しくは無い。マルコの格好を見て、行動パターンを知っているエースが手招きするのを無視しようとすれば、「おれがパンツとってくるからちょっと待って!」と大声で叫ばれて思わず濡れた金の髪をぐしゃりと掴んだ。

「なんだってんだい、おれは今から昼寝するんだよい」
「明日まで非番だろ?知ってるって。寝る前にちょっと時間くれよ、な?」

 腕に縋るようにして頼み込む姿勢のまま医務室にマルコを押し込めていく手際は、"ほとほと甘い二番隊"の連中からすればマルコも十分にエースに甘いと言わざるを得ない見事な技だった。医務室には声が聞こえていた通り、ナースが二人、それぞれの手に決して医薬品では有り得ない花の箔が押された小瓶を手にし、マルコのシャツと下着を奪って猛スピードで去って行くエースの後ろ姿に顔を見合わせて笑っていた。

「一体何して遊んでたんだい」
「ネイルケアです、マルコ隊長。あたしたち今日はもう勤務が終わったので爪の手入れをしてたんです。そうしたらエース隊長が匂いに誘われていらしたの」
「あいつが食べ物以外の匂いに反応する事もあるのか」
「あるようですよ」

 クスクスと笑う彼女の手の中にある小瓶からは、花のような植物の葉のような、果物のようななんとも形容しがたい複雑な香りが立ち上っていた。オイルの種類等に全く詳しくないマルコにはそれが何か分かるはずもない。ただ、人工の香水等に比べれば良い匂いだとは思った。
 彼女たちに誘われるままに未知の世界を体験したエースは、ぴかぴかに磨かれて行く爪にいたく感動したらしい。エースの感情はそのまま表情に表れるので、さぞかしきらきらとした瞳で作業を見ていたのだろうとその場にいなくてもマルコには簡単に想像がついた。

「ただいまおまたせ!」

 駆け戻って来たエースの手につい目をやれば、磨かれて光るエースの指に自分の下着を発見してしまい、マルコはとりあえず溜息を飲み込んでそれを奪い取った。

「とりあえず履いてもいいかよい」
「どうぞ!」
「てめーもどいてろい!」

 着替えるにも女性の目の前である。エースの尻を蹴飛ばして医療用ベッドの横にある衝立の後ろに引っ込み、何かの用意をされ始める気配を感じながら下着を履く。パンツを取ってきてなんでシャツも持ってこねぇのかと口の中で悪態をつきながらそこから出れば、マルコでも知っている爪ヤスリを手にしたエースが診察台の向こうで手招きをしていた。

「マルコの爪、ちょっと貸して。マッサージも教えてもらったんだ。昼寝前にリラックスしたらよく眠れるだろう?」
「お前がいなけりゃ至極穏やかな心持ちで寝られただろうよい」
「そう言うなって」

 ナースも一緒になって手招きするものだから、ここまで来て部屋に戻るのも食い下がられて面倒だし大人げない気がして、結局マルコはエースの目の前に腰を下ろして投げるように右手を差し出した。

「……ほら、とっととやれよい」
「おう」

 捧げ持つように手を取られ、まず白いクリームを爪全体に塗り付けられる。ナースたちが爪が割れないようにするもの、栄養をあたえるもの、保湿をするもの、表面を光らせるもの、といちいち説明をしながら順番にエースの横に瓶を並べていくが、覚える気もないマルコの記憶容量には全くそれらは浸透しない。並べ終えたナースたちは、いまから昼食なのだと言って医務室を後にした。戦闘のない時期のその部屋は誰もおらず、似つかわしくないネイルオイルの香りが充満していて、少しだけマルコを落ち着かない気持ちにさせた。基本的に器用なエースはエメリーボード(という名称らしい。爪やすりで十分だ)で皮膚を摩擦で削る事無く真剣にマルコのヤスリ等一度もかけた事も無いような切りっぱなしの爪先を丸く滑らかに削り落とした。拘束するようにマルコの指を掴むエースの指先は不自然にまで艶艶と光っていて、それは子供の頃に胸を躍らせた人工的な色の付いたあまい飴菓子のようだった。その匂いを思い出し、つい先ほど嗅いだミートソースの臭いを連鎖的に思い出してしまったマルコが頬杖をついてその様子を眺めながら苦笑した。

「……エース、お前飯時に寝るのは一向に構わねぇが風呂場にソースを落とすのは勘弁しろい。踏んじまう所だったよい」
「うぇ、まじか?服はちょっと拭いて行ったんだけど、どっかにまだ着いてたのかな。後で拭きに行くよ」
「適当に拭いておいた。風呂番がどうにかするだろうよい」
「そっか、ありがとう」

 エースがちらとマルコを見上げ、また手元の作業に真剣な様子で戻る。海の上で暮らす者の手など、皆似たり寄ったりだ。ロープを操り、武器を握り、潮風に晒され続けた皮膚は堅く、爪甲は分厚く、何度も欠けて割れて再生した場所は形が歪になっている。マルコの爪はいつしか形を変えなくなったが、エースの手指もそんな海の男のもので、たしか右手の薬指の爪は中央が盛り上がるおかしな生え方をしていたなと思い出し、自分の手の上で動くそれを見ればその部分はすっかり削って滑らかにされていた。それに何故か落胆してしまった自分の気持ちが理解できずにマルコは頬に当てた指先に力を込めた。
 ふう、となま暖かい息が爪先にかかり、マルコはふと目の前の現実に意識を戻す。

「……えっちな気分になった?」
「ならねぇよい」

 削った爪の粉を飛ばし、残念、と目元で笑ったエースが促すのに今度は左手を差し出す。同じように左手の親指からヤスリを一定方向に動かし始め、静かな部屋の中にその音だけが響いていた。エースの指が動く度に塗り込まれているオイルがふわりと香り、もとより眠るつもりでいたマルコの瞼が徐々に重みを増して行く。
 いつの間にかヤスリはエースの横に追いやられ、エースの手の匂いよりも更に強い花の香りが爪と指と、手のひら全てに塗り込まれて裏返され、エースの両手が指の間をぬるりと滑ったかと思うと次は手首の付け根から手のひらの中央までを親指で強めに円を描くように揉み込まれる。人にこうやってマッサージをされるのは、なんというか悪い気分ではないなと重い瞼に逆らいながら、机に落ちそうな顎をマルコはもう一度右手で支え直した。

「爪が丸いとさ」
「……ん」
「セックスの時に、痛くないよね」
「……なんだ、突っ込まれてぇ気分なのかよい」
「違うって。たまにおれ、焦って引っかけちゃうだろ。悪いなって」
「だったらがっつかなきゃいい」
「それは無理」

 若いし、と生意気に微笑んで見せたエースと最後に体を繋げたのはいつだったかと思い出した時点でこれから自分が絆される用意を自分でしている事に気が付いたマルコが顎の下にある手の使い方を思い出して、目の前の黒髪を軽快な音を立てて弾いた。

「殴んなよ!もうしねぇぞマッサージ」
「女の手でやるから気持ちいいもんだろい。頼んでねぇよい」
「嘘つけ、マルコおれに触られるの好きじゃねぇか」

 痛ぇ!と先程とは比較にならぬほど強く叩かれたエースが今度こそオイルにまみれた手を離して頭を庇った。まだ僅かに濡れている黒髪から、何故か嗅ぎ覚えのある匂いが再びマルコに届き、身構えるエースに手招きすれば渋々と机を挟んでマルコの目の前まで体を戻す。オイルが付着して濡れた髪の束に奇妙な強ばりがあるのを発見したマルコがそこを指先で擦れば、赤茶色のラインが指の腹に付着した。

「……あ、ミートソースだ」

 髪もまともに洗えねぇのかと口を開きかけたマルコの指先がぱくりとエースの口の中に納められ、マルコの口の形は、あ、のままで固まってしまう。エースのぬるりとした舌がぐるりと一周、マルコの左の人差し指を舐めて離れた。

「失敗した、苦い」
「当たり前だよい、考えなしめ」

 顔を顰めて舌を出すエースに、マルコは今度こそ呆れを隠さずに溜息をついた。

「だって、美味そうだった」

 机の上に置かれたマルコの右手に手を重ね、エースの舌がマルコの唇の前に迫る。無理矢理味あわせるように歯の隙間からねじ込まれたオイルとソースの混じった奇妙な匂いのする舌は、マルコの味蕾を呼び起こすように絡まり、上唇に軽く歯を立て離れた。

「……不味い」
「ごめん」

 ちっとも悪いと思っていないだろう口調で謝罪し、エースは舌に残るオイルの味を腕で拭ったマルコの手を引っ張り、乾いたタオルで左手に残ったオイルを拭き取った。白いタオルから出てきた自分の爪は奇妙に艶やいでいて、まるで他人の手をとってつけたような違和感があった。けれどもオイルの付いていない右手も何かもの足りず、結局その違和感の正体はよくわからない。

「こっちも」
「え?」
「こっちもやれよい」

 差し出されたマルコの右手を取ったエースが、僅かに首を傾げてからぱくりと指先をくわえたのに、マルコは「マッサージだよい」と眉を寄せた。慌てて座り直したエースが、オイルの小瓶をもう一度手にして、何がおかしいのか小さく肩を揺らしている。

「片方だけって、落ち着かないもんな」
「うるせぇ、言い出した奴は最後まで責任とれよい」

 エースの手のひらに包まれた右手が、じわりと温かくなって行く。
 ソースで汚れた黒髪が目の前で揺れるのを目にせぬように、マルコは今度こそ瞼を閉じた。









2010/09/26



エースの匂いを完全に覚えているマルコと、自分がされて気持良かったことはマルコにしてあげたいエース。

texttop

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -