お引越し
ハッチを開いて鉄のはしごを10段程飛ばして飛び降り、エースは入ってすぐ左側の長く使われていない空き部屋の扉を開いた。そこは元々はロープや古いマストを押し込めていた倉庫だったが、数年前に新しい倉庫が出来た際に中身は処分され、今は汚れた床がそこにあるだけだった。
差し込む光に埃のカーテンが白く光り、更には湿気を伴った黴の臭いが鼻につく。
「だからやめとけっつったろい。おれの部屋しかマトモに換気してねぇからすぐには使えねぇし、大体狭すぎるだろい」
「マルコの部屋だって同じ大きさじゃないか」
「おれぁそれがいいんだい。悪いこたァ言わねぇからよせよい。ベッドだって運び込めないぞい」
「マルコはどうやって運んだんだ?あのベッド」
「……本気かい」
「本気。掃除して、二日も換気すりゃ大丈夫だろ。壁焦がさないように消毒したら黴も平気だ」
最早決意が揺らぎそうにも無いエースにマルコは呆れたように緩やかに曲がった眉尻を上げた。
隊長に就任した者には特権として個室を得る権利が与えられる。二番隊隊長となってからしばらくは大部屋に住んでいたエースが船内を物色し、最後に辿り着いたのがこのマルコの私室のある、時化の際の緊急避難場所でもある甲板後部にある元倉庫だった。
マルコの言うようにその限られた空間に作られた部屋は狭く、ベッドを置けば他の家具を置けるスペース等存在しない。着道楽であるビスタやワノ国の着物を愛する隊長はそれなりの収納スペースがある部屋を選んでいる。体格的に大きくなくてはならないジョズなどは数ある鎧を別の部屋に置いて凌いでいるのだ。
日も射しこまないこんな狭い倉庫を好んで使うのは自分くらいだと思っていた。掃除用具と船大工を担いで戻ってきたエースが、不安そうに見てくるのにマルコは自分が眉をしかめていたことに気がついた。
「もしかしてマルコが嫌だった?おれが近くにいるとうるさい?」
「んなこたァねぇよい。ただお前も穴ぐら生活だってサッチあたりに馬鹿にされるぞい」
「サッチの言う事なんていちいち気にしねぇよ。マルコが嫌じゃないなら、よかった」
へへ、とニカリと笑ったエースが船大工に部屋のサイズを測って貰っている。人一人しか通れない入り口からどうやってベッドを運んだのかはそれが正解だった。部品を切り出してもらい、中で組み立てるのだ。
「頭ぶつけ難い位置に棚が欲しいな。あとはマルコの部屋と同じでいいや。折りたたみの机と、木箱余ってたら適当にもらいに行くよ」
「そんなんで収まるのか?」
「おれの荷物なんて鞄ひとつで全部入るさ。問題無いよ」
少しの着替と、少しのお気に入りのアクセサリー。自身の海賊旗の象徴だったパーツが飾られた帽子。物を持たない人種も多い海賊だが、エースの持ち物はとりわけ少ない。それはマルコも同様だった。獲得した宝も、全て宴に費やして消費してしまう。それでいいと思っている。
上機嫌で床掃除を始めたエースを残し、狭い入口から這い出したマルコは甲板に居た二番隊員たちに隊長殿が床掃除をしている事を教えてやった。我先にとモップを探しに走った彼らがあっという間にあの部屋の片付けを終えてしまうだろう。
換気を終え、床の乾いたその部屋はエースの部屋になった。
折しもその日は二番隊が朝番の日で、夜番だったマルコがハッチを開けようとしたその向こうから扉は開かれた。
「おはよう、マルコ」
「おはよう」
ぐしぐしと目をこすりながら、梯子を掴んだエースが寝癖を帽子に押し込んで空を仰いだ。
目に刺さるような青空だった。起き出したクルーたちの騒がしい音が聞こえる。しばらくの間、マルコの進路を邪魔していたエースが身軽に甲板に飛び出した。
「……なんでマルコがここを選んだのか、ちょっとわかったよ」
「そうかい」
理由は聞き返さない。
暗い穴ぐらから這い出た向こうの遮蔽物の無い空と、人の気配。それを確認する事は、マルコを安心させる。
それを理解したというエースは、大きく伸びをしてみせた。真っ青な空に、オレンジ色の帽子が映える。
入れ替わるように扉に向かったマルコの腕が、柔らかく捉えられた。
「マルコ、まだ夜の匂いがする」
エースの帽子の鍔が、マルコの頬を撫でた。
首筋に小さな温もりをひとつ残し、騒々しい足音を立てながらエースが走り出した。マストの向こへ、腹減った!!と元気に叫ぶ声が遠ざかっていった。
「……全く、あいつはいつまでも…」
首筋を抑えたまま片手で器用にハッチを閉めたマルコの表情は、誰にも目撃されていない。
穴ぐらの向こうには、見えても見えなくても。
いつでも太陽と家族が待っている。
2010/05/02
エースのお引越し。
狭い部屋で丸まって眠るマルコが真っ先に浮かんで。
太陽=本物の太陽=エース。
ちょっと乙女チック思想かもしれない。
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