水を抱くような 4




 街の一区画の騒ぎ等まるで存在しないかのように商店街は活気に溢れ、前を歩くマルコの姿を見失わないようにエースは足を早めた。

「おお、白ひげ海賊団かい!?もうカタぁついたんだろう?うちで怪我の手当てしていきなよ」
「いーやうちに泊まってよお兄さん!朝食はもちろんサービスするわ!この島を救ってくれたんだもの」

 白ひげの笑うエースの背中を見た街の者がひっきりなしに声を掛けてくる。エースたちが負ける等欠片も想像しないほど、白ひげの一味は信頼されている。それは肌で感じていた。
 ごめんなと笑顔で島民の好意を辞退し、血が乾いて錆びた味になった自分の唇を舌で潤したエースは、目の端に捕らえていたマルコの背中に早足で歩を進める。
 柄にもなく、どうやら自分は緊張しているらしい。
 百や千の敵の前ですら感じることの無い身体の強張りをエースは自覚していた。マルコが自分をどこへ連れて行こうとしているのかはわからないが、きっと叱責されるに違いないと思う。二番隊の目の前だからこそあの程度で済んだのだと。
 遠くなっていると思ってエースは焦ったが、マルコは立ち止まっていた。エースがマルコに追いついたとほぼ同時に、エースの死角からマルコに話しかけていたらしい男が片手を上げた。

「じゃぁな、頑張れよ若者!」

 何故かその男はエースに思わせぶりな目配せをし、笑いながら立ち去っていった。何事かを訪ねようとしたがマルコはそのままスタスタと歩き出してしまい、仕方なくエースはそれを追うしかなかった。
 幾許かそのまま歩き、人気も少なくなった路地の奥には小さな宿らしき建物が見え、マルコは躊躇なくそこへ入っていく。

「先に行ってろ」

 意味もわからず受付で突っ立っていたエースに、番号付きの鍵が投げて寄越された。行けというからにはこの番号の部屋ということだろう。
 釈然としない気持ちのまま、エースは階段を登った。内装はごく普通だが、僅かに漏れ聞こえてくるその声にここはどんな目的に使用されている場所かはよくわかった。
 マルコは一体何を考えているのだろう。
 こんな場所に来るのは初めてなわけじゃない。けれどもエースの緊張は増すばかりだった。
 白いシーツがピシリと皺なく張られたベッドから目をそらし、埃と血にまみれたエースは傍らに置かれた木の椅子に腰掛け、手持ち無沙汰に組んだ指先を見る。扉が開いたとき、自分はひどく間抜けな顔をしていたのだろう。手に何かを抱えてきたマルコが、思わずといった風に笑った。

「何緊張してんだい。手当するぞ」
「あ……」
「なんだ、叱られるとでも思ってたのかよい。くどくど言うのは好きじゃねぇんだ……ほら、こっち向け」

 マルコがサイドテーブルに置いたのは、包帯や消毒液が入れられた洗面器だった。マルコがそこから布に包まれた何かを取り出して自分の腰に巻かれたサッシュに挟み込んだのをエースが詮索する間もなく、布に冷たい消毒液を染み込ませたマルコが敵からは掠り傷ひとつ受けていないエースの腫れた頬と唇の端を拭って行く。表面の傷よりも、布が頬を拭うように動く度に切れた口の内部の粘膜が捲れるのが痛む。
 マルコには、もう怒っている様子はない。淡々とエースの乾いた血を拭い、傷薬を塗布したガーゼを唇に被らぬように貼り付けた。

「終わりだ」
「……ありがとう」

 殴った本人に礼をいうのも奇妙だが、全て自分が悪い事はわかっていた。マルコが来なければあのまま街に火が燃え広がり、エースは感謝どころか島民の非難の目に晒されていただろう。あの場にいた誰にもエースの炎を止めることは出来ず、制裁を加える事も出来ない。出来たのは、マルコだからだ。
 いつものように、マルコの硬い手がエースの黒髪に置かれて撫でられた。それだけで、思わず深い安心の吐息が漏れそうになるのを寸前で押し留める。

「エース」

 笑いの成分が含まれない真剣なその声に、エースは目を合わせることが出来なかった。
 一言ずつ、言い聞かせるように。マルコは時折こんな風に、とても静かに喋る。

「くどいのァ苦手だが、お前がちいっともわかっちゃいねぇから言わせてもらうよい、エース」

 自分の名前が、酷く不安定に掠れて聞こえた。マルコに触れられたままの頭皮から、じわりと温もりが侵食してくる。

「おれたちァ、家族だ。家族だっつっても、喧嘩も隠し事もするし、迷惑だって山ほどかけるだろう。そんなの、血が繋がってる家族だって大して変わらねぇ」

 血。
 僅かに力を入れたエースの唇が、癒着しかけた傷口から再び僅かに血を滲ませた。マルコは気がそれについているのかもしれない。けれど触れた指先は、優しくエースの髪を絡ませて悪戯をするように遊んでいる。

「けどな。これだけは絶対に忘れるな」

 マルコの指に力が加わったわけではなかった。だがエースは、俯いた顔を上げずにはいられなかった。それをしなければ、もう永遠にマルコに笑いかけては貰えない気がした。
 
「オヤジを、疑うな。何を信じられなくても、オヤジだけは信じろ」

 マルコの瞳は、まっすぐに、無条件に親を信じる子供の目だ。エースはそう思った。それはエースが、叫び出したいほどに欲しい物だった。手に入れたくて、叶えられるはずもないと道端に吐き捨てた願いだった。

「……だったらあんたのことは信じないって言っても、怒らねぇの」

 揚げ足をとるように言い返したエースの声は、隠しようも無いほどに震えていた。話を茶化されたマルコが怒ればいいのに。そうして有無を言わせずに殴ればいい。
 そうすれば……そうすれば――

「信じなくても、勝手に約束してやる。おれァ、決してお前を嫌わない」

 エースの視界が闇に包まれた。
 座ったままのエースの頭を、マルコがその胸に強く打き寄せたのだ。全身に、ざわりと総毛立つような感覚が駆け抜けた。
 鼻腔に強くマルコの体臭を強く感じた。初めて彼を抱いたときに感じた、表現し難い不思議な匂いは決して不快ではなく、むしろそのまま鼻を摺り寄せてしまいたい動物のような愛着すら感じてしまう。
 ――マルコのあの時の姿を思い出す。鳥だった。すっげぇでかい、青い炎の鳥。…………綺麗だった。出し惜しみせずに早く見せてくれたらよかったのに。

 唐突にそれは記憶から呼び覚まされた。そうだ。これは、太陽の匂いだ。つい一年前まで暮らしていたあの場所で、最愛の弟と日暮れまで遊んで感じていた、風に乗って来る、あの匂いだ。

「おれ、嘘をついてる。スペード海賊団だった奴らにも、マルコにも、皆にも…………オヤジにも!!」

 エースの拳が、膝の上で握られたまま震えていた。
 けれどもマルコはそんなもの目に入ってなどいないとでも言いたげに「そうかい」とだけ呟いた。見下ろしたエースの背中に、逆さまに笑うオヤジが見えた。

「オヤジに嘘をつく奴ぁ、そりゃァ勘弁ならねぇない。けれどその嘘つきはおれの愛する家族だ。エース、おれァどうすればいいんだい?」

 宥めるような、あやすような。マルコの口調はエースの耳から容赦なく入り込み、体の芯を揺さぶる。
 これは、甘やかされていると思ってもいいのだろうか。
 そう躊躇っている合間にも、マルコの手は柔らかくエースの黒髪を撫で、もう片方の手はまるで赤子を寝かしつけるような動きでエースの背を這っている。
 エースの余裕の無かった心に、ぽっかりと隙間が開いた。それは虚無な空間では無く、子供の頃に体感出来ることが無かった何かが湧き出て出来たものだ。けれどもそれが何かはまだエースにはわからなかった。
 
「……マルコ」
「ん?」
「これってさ……その、今朝の……」

 この状況で理解出来ないわけがなかった。三番隊に押し付けた後始末、用意された宿。そしてマルコのサッシュの合間からから覗く、酒瓶にしては小さすぎる布に巻かれたボトルの口。

「おれァ信用されて無いらしいからな。せいぜい末っ子の言う事を聞いて機嫌を直してもらうしか思いつかなかったんだよい」

 殴っちまったしな、と微笑むマルコの優しい嘘に、エースはようやく自分も自然に笑えたと思った。
 マルコは強い。気に入らないならさっきのように怒り、拳でエースを叩きのめせばいい。オヤジを愛しているマルコには、そうしてもいい権利があると思う。
 今朝、エースがモビー・ディックを降りる前にマルコに頼んだ事は、ひとつ残らず本当の事だった。若い情欲が体に宿る度に、あの時のマルコの顔を思い出してしまう。それが例え、かたくなになり過ぎて出口を見失い欠けていた自分に同情したものだとしても。
 もう一度、手に入れたかった。
 あの不思議な、青い炎を。それ纏い、目尻に皺を刻んで優しく笑ってくれた男を。










「やっぱり気に入らねぇんだろ、サッチ」
「気に入るも何も、おれは何も言っちゃぁいねぇよオヤジ」

 あっという間に集結した戦いに、運動が足りないとでも言いたげにサーベルの血を拭いながら戻ってきたサッチに、甲板の中央の椅子に悠々と腰掛けた白ひげが話しかけた。

「……ただよ、片や甘え下手で呆れるほど自己評価が低くて、片や甘やかすのは上手くても自分の気持の行方をまるっきり見失っちまう鳥の癖に方向音痴な奴だ。しかも自分の価値は知っていても、自分の体はちっとも大事じゃないと思ってる馬鹿だ。気に入るかどうか以前に、組み合わせが不安定過ぎて心臓に悪い。いつどっちに倒れるかってな」

 だがもしどちらに倒れようとも、サッチは受け止めるのだろう。年若いマルコとサッチが白ひげの船に乗ったあの日から、サッチの立ち位置だけは変わっていない。いや多分、二人が出会ったその日からそれはずっと変わらないのだろう。

 煙の消えた街の方角に目をやり、白ひげは口角を僅かに吊り上げた。
 全くおれの息子どもは、手のかかる馬鹿ばかりだ。



2010/04/20






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