深夜のラーメン

 金曜の夕方は、少しだけさみしい。
 それは一人で暮らしていた頃とは比較するのも贅沢なさみしさだ。
 定時を僅かに過ぎ、セキュリティカードを通して社外へ出ると、エースと出会った日のような夕暮れだった。段々と日も長くなり、気温も上昇している。もうすぐそこまで夏がやって来ているのだ。
 エースは今日は「いざよい」では無く、フレンチレストランで大人数の予約に大わらわだ。マルコは家の二駅手前で電車を降り、固形のカロリー補給スナックと水を買って復帰したジムへ入った。空腹で体を動かすのはよろしくない。特に仕事帰りなど、途中でへばってしまう。
 自販機のある飲食コーナーでもそもそとスナックを食べ、ゴミを捨ててロッカールームへ。ジムに通い初めて一ヶ月も経たぬうちにビスタには「運動を始めただろう? 顔も締まってきたな」と体重の変動も無いのに看破され、彼のおそろしい程の観察眼に、マルコは改めて驚かされた。だが見てわかるというならば、体も締まってきているのだろうとやる気が出てきたのは確かだ。
 腹に食べ物を入れたので、最初はストレッチ。それからウェイトマシーン、最後にランニングか水泳と決めている。そろそろ体も慣れて来たので、併設のキックボクシングコースに入ろうかと計画中だ。なにせ格闘技をしていたのは学生の頃までで、ブランクがあり過ぎる。今サンドバッグを殴れば、手首が折れてしまう気がする。
 運動を継続する事は、苦ではないし楽しい。エースも引き締まってきた腹と腰を撫でて、格好いいと言ってくれるので余計に嬉しい。黙々とメニューをこなし、ランニングでかいた汗をシャワールームで流す。胃の中のスナックが消化され、再び空腹を覚えていた。
(――――したい)
 はぁ、と水音で誰も聞いていないのを良いことに、マルコは盛大にため息をついた。性欲は旺盛な方ではないが、枯れてもいない。若いエースの性に晒されて、こちらも引きずられてしまっている感は否め無い。
 セックスしたい。別にこんな場所でいきなり自慰を始めるほどには切羽詰まっていないが、仕事中のエースの携帯に「セックスしたい」と送ってしまおうかと思う程度にはしたい。もちろんそんな事はしないが。
 きっと体力を取り戻しつつあるからだろうなぁ、と分析しつつ、体を拭いてスーツを再び身につけた。下着だけはなんとなく同じものを着たくなくて新しいのを履いている。
 ロッカールームでは、きっと同類なんだろうなと思う男も多く、たまに見られていると感じる事もある。若かったときは、目線に目線を返して相手を値踏みしてやった事もある。だが今は別にエース以外の下半身に用は無いのだ。
 脳内の言葉が汚くなっているのを反省しつつ、マルコは荷物を持ってジムを後にした。さて夕食をどうしよう。空腹ではあるが、特に食べたいものはない。だが食べてないとエースにばれるとなんとなく気まずい。まるでエースの作ったもの以外食べたくないと駄々をこねる幼児のようではないか(実際その通りなのだが)。
 もう三駅ほど行けば、新しく店を出したのだとハガキを寄越した昔の友人の店があるのだが、生憎そこはキャバクラである。彼女に代金を払えと言われたこともなければ、無理に女を押しつけられた事も無いが、派手に着飾った女の中で「お手製の焼おにぎり」と言い張る冷凍にぎり飯を食べる元気と気合いも無い。とりあえず近くまで来たとだけメールをしたら『お祝いのお花だけ寄越してもマルコがこなきゃ誠意が感じられないわ。失望よ、ヒナ失望』と相変わらずの調子で即座に返信が来た。流石キャバ経営者だとマルコは文面に苦笑いをした。こんな文面でも彼女は怒ってはいない。こういう性格なのだ。
(そうだよい)
 焼おにぎりでも冷凍ものでも、自分で作ればいいじゃないか。そんな事に今更気がついて、マルコは気持ちが軽くなった。スーパーでもやしとネギを買い、家にある白菜の余りをもやしと茹でて、買い置きのラーメンと卵を一緒に煮込めば完成だ。
 早速実行にうつし、マルコはそれを一人用土鍋で完食した(エースがいない頃は、よくこれでラーメンを作っていた)。野菜くずも生ゴミの袋にまとめて、鍋とザルも綺麗に洗う。余った青ネギは、エースがやるように刻んで冷凍した。
 自分のレベルの低い完璧さに満足しながら風呂を洗っていると、さっきまで忘れていた欲が徐々に自覚されて、少しだけ切ない気分になった。いい年をした男が、当たり前の事が出来たというだけでこんなに浮かれているなんて。
 結局エースは翌日の仕込みも手伝い、帰ってきたのは終電間際だった。マルコは映画チャンネルを見ながらうっかり眠ってしまっていて、ソファの上でエースに揺り起こされた。
 朝から今の時間まで働いていたエースの顔は流石に疲れていて、マルコはしまった、と頭をかいて「風呂、すぐ入れるよい」と起きあがった。
「ありがとう。マルコさん、ラーメン食べた?」
「ああ、まだ匂いするかよい」
「ううん、ゴミ袋にラーメンの袋見えたから。いいなぁ」
 まかないを食べてきているはずのエースが、心の底から羨ましそうなので、マルコは「野菜はもうネギしかないけど、作ろうかい」と提案した。エースは一も二もなく賛成して、先に風呂に入れと追いやられるのすら嬉しそうだった。ゆっくり入れよいと声をかけて、水切りに伏せた土鍋と手鍋を出して、すぐ茹でられるように電気ポットで湯を沸かした。エースが食べるなら、野菜より肉だ。マルコは冷蔵庫からエースの好きな三袋198円のハムを取り出した。インスタント食品のストック棚からは、とんこつラーメンを取り出す。マルコは塩派で、エースは絶対に豚骨を譲らない。
 風呂場からシャワーの音が消えたので、マルコは鍋に沸いた湯を移し変えた。エースは必ず先に体を洗って、湯船に浸かるのは三分程度なのだ。マルコは長風呂なので、最初は浴槽で眠っていないか心配されたものだ。
「もう茹でるよい」
「お願いします!」
 共に暮らし初めて半年以上は経つのに、未だにエースは敬語が半分抜けない。なんとなく可愛くて、マルコはそれを指摘せずにいる。方手鍋に麺を入れて、土鍋を弱火にかける。たっぷりの湯でゆがいた麺をザルで切って、今度はスープを熱しておいた小さな土鍋に麺を入れて混ぜる。上にハムを乗せて、冷凍されていたネギをかければ完成だ。
 髪を拭きながら出てきたエースは下着一枚で、ああ目の毒だ、とそんな気持ちをおくびにも出さずにマルコは土鍋をエースの前に出した鍋敷きに置いた。
「いただきます!」
 勢いよく麺を啜るエースが心の底から幸せそうで、マルコは「火傷するなよい」とコップに水を注いでやった。
「うまい! なんでこんな時間に食べるラーメンってこんなに旨いのかな」
「たしかに昼間と同じラーメン食っても深夜の方がうまい気がしたよい」
 ハムを口に押し込みながら懸命に食べるエースに、マルコは賛同した。
「昼間ってなんとなくせわしなくて、急いでるからかな。仕事終わって、マルコさんが作ってくれたラーメンを風呂上がりに食べられるなんて、それだけで幸せだ」
 土鍋を抱えてレンゲで汁を啜るエースの前で、マルコはなんとなく顔を隠すようにして自分のコップに水を注いだ。
 ごちそうさま、とエースが鍋を流しに置いて洗い始めた。先ほど居眠りを起こされたマルコは、ちゃんと寝る準備でもするかと席を立った。
「マルコさん」
 寝室の手前で呼び止められて、マルコは「なんだよい」と振り返った。
「歯磨きしたらさ、していい? 今日おれ、なんか昼間くらいからずっとしたくてさ……」
 疲れてるならいい、と言いそうになったエースを遮るように、マルコは「準備しとくよい」と返した。
 週末だしジムにも行ったし、エースも疲れているだろうけどそんな事はどうだっていい。本人がしたいというならば、別に明日マルコの腰が立たなくったってもいい。
 エースが急いで手の水を切って、洗面所に消えた。本日一番の欲求が、マルコの中を勢い良くかけ上る。
 深夜のラーメンは罪の味だと、いったい誰が最初に言い始めたのだろう。
 


20113/06/12

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