ビターキャンディ(後)



 ――爆発音だ。
 敵が攻めてきた。鐘が鳴っている、逃げないと行けない。
 わかっているのに、マルコは立ち上がりたくなかった。逃げなくてはいけないのにそうしないのは、いけないことだ。命令違反で、いいつけを守れない悪い子供のする事だ。
 湿気の届き難い八番倉庫は、薪や材木に用がある人間以外は近寄らない。大人の腕でも抱え切れぬ太い幹の材木の山の後ろは、扉から死角だ。マルコはそこに座り込み、ただ時が経つのを待った。甲板や廊下から聞こえていた慌ただしい足音も次第に小さくなり、やがて銃声も収まった。今出ていけば、避難場所に間に合わなかったと言い訳が出来る。……でもそれは、嘘だ。クロコダイルに嘘をつくなんて。
 心臓が鷲掴みされたように痛んだ。息が乱れ、後悔に目頭が熱くなる。青い炎の広がる手で拭うと、涙の跡が凍った表皮が剥がれてまた燃え上がる。遠くで、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。誰かが探してくれているのだ。行かねばならない。けれど長い間同じ姿勢でいた足は固まり、上手く動かなかった。バランスを崩し、背中から落下した衝撃で木屑が舞い上がり、マルコは凍った気管から血の混じった咳をした。自分が愚かで、みじめで、たまらなく悲しかった。

「クロコダイル……」

 小さく呟いたマルコの目の前に、唐突に霞がかかった。渦巻く砂が磨かれた靴に、長い足に、黒いコートに変化して行く。最後に現れた大きな傷跡のある顔が歪み、まるで厭なものを見るようにマルコを見下ろしていた。

「なぜ決められた場所に行かなかった」

 マルコには、答えられなかった。ただ、行きたくなかったのだ。そんな答えも、マルコも、許される筈がない。
 答えぬマルコの体が宙に浮かび、首の絞まる苦しさにマルコは苦鳴をあげた。船内の景色がどんどん遠ざかる。クロコダイルがマルコのフードの首を掴んで飛んでいるのだ。
「マルコ!」
 投げ出された甲板出口前の廊下で、サッチが駆け寄って来た。「見つかったぞ!」と叫ぶ声が方々でしている。サッチがマルコの扱い方をクロコダイルに向けて怒鳴る中、マルコは打ちつけた体を引きずるようにして立ち上がった。

「おい、こいつの飯は明日まで抜きだ。ガキ用の罰にゃぁ丁度いいだろ」

 クロコダイルの顔は、見られなかった。先程のような、あんな表情で見られていると思うと、体が震える程に悲しくてたまらなかった。
 なんだなんだ、マルコのおイタかぁ? 迷惑かけんなよ、と気の抜けた声で男たちが四散し、俯いたままのマルコの頭にはサッチの大きな手が乗せられた。

「……マルコ、わざと隠れてたのか?」

 ちいさく頷いたマルコに、サッチもきっと呆れているに違いない。また疼き始めた手でコートを探り、マルコは可愛らしい包み紙のキャンディを顔もあわせずにサッチに差し出した。僅かに受け取りを躊躇したサッチの手にキャンディを押しつけて、マルコは走り出す。走りながら足の指が割れ、ブーツから炎があがった。
 マルコの炎は、体しか再生しない。悲しくて悲しくてひび割れた心は、砕けた硝子のように体の中でじゃりじゃりと不快な音を立てた。


  **


 その夜、クロコダイルは部屋に帰って来なかった。
 一人きりの巨大なベッドはあまりに冷たく、夜は長すぎた。空腹で体温が上がらなくても、仕事は毎日ある。朝食に向かう四番隊を見送りながら、マルコは黙々と弾薬庫の火薬を掃除し、ロープを補修し、昨日の戦闘で汚れた予備大筒の中の煤を落とした。
 時折抗議の声を上げる腹の虫は、必死に聞かぬ振りをして、篝火用の薪も、どうせ言いつけられるだろうと、八番倉庫に向かっている途中に、マルコはサッチに声をかけられた。
「マルコ、これ飲んどけ」
「……ご飯食べちゃいけないんだよい」
「飯じゃねぇよ、水だ。こんだけ寒いと水分取らなきゃ一日持たずに脱水症状を起こすぞ。隊長命令だ、マルコ」
 握らされたカップは、数分前までは熱湯だったのだろうものが入っていた。マルコの手を見たサッチが「手袋はどうした」と聞くので、マルコは正直に「オヤジの部屋に忘れてきた」と答えた。サッチのくれた水は甘くてしょっぱくて、少しだけレモンの匂いがした。
 水でふくれた胃のせいか、水分の増えた体のせいかはわからない。僅かに緩んだマルコの緊張が、この時ようやく決壊した。カップを握ったまま堪えきれなかった涙がぽつりと一粒だけマルコの頬を伝い、凍り付いた。
「サッチ、昨日、迷惑かけて、ごめんなさい」
「もういいさ。飯抜きは、お前には一番堪えてるだろ。マルコが同じ間違いをしないって、あいつだってわかってるよ」
 フードの上から、サッチが優しく頭を撫でてくれた。許されるという行為は、叫び出したい程に嬉しい事だとマルコは知る。
「……クロコダイルは、言いつけを守らない子供が嫌いなんだよい」
「そうだな。あいつは嫌いなものが多すぎる」
 サッチは、こめかみの傷跡を歪めて微笑んだ。
「罰をうけたら、許してくれるかな、サッチ」
「許そうと思ったから、飯抜きにされたのさ。さぁ、仕事する前にオヤジの所に行って、手袋をとってきな。お前が痛そうなのは見ていられねぇ。んで、手がそんなにならねぇように次の島ではもっと分厚いのを買ってもらえ」
 うん、と頷いて、マルコは傷ひとつない手をサッチに掲げて、微笑んで見せた。
 クロコダイルが買ってくれた手袋も靴もコートも、とびきり上等なものだ。足りないのはマルコの体の栄養と、体を気にかける注意力で、クロコダイルに非があるはずがない。体中を見渡して、どこからも炎が上がっていない事を確かめて、マルコは白ひげの部屋の扉を叩いた。


  **


 マルコが目を覚ましたのは、窓の外の太陽が傾き始めた頃で、マルコは慌てて抱かれていた白ひげの膝の上から飛び降りて、握りしめていた手袋を填めた。
「もう少し寝ていってもいいんだぜマルコ」
「ダメだよいオヤジ。おれ、ちゃんと仕事しなきゃ。クロコダイルに許してもらえない」
「そうかそうか。マルコが働くってぇなら、ちょいとおれも真似しよう。甲板まで護衛してくれ、マルコ」
 世界で一番強いとも云われる男が、長い髪を揺らして立ち上がるとそれだけで風が巻き起こる。マルコはその栄誉に頷いて、小さな足で駆け、白ひげを先導した。
 白ひげの部屋に入った時には部屋には火の気は無く、白ひげは真っ白なコートを着ていた。船長の部屋はいつでも温かいと思っていたマルコはそれがとても意外で、それに気がついた白ひげは「船長は座ってるだけで楽な仕事だからな、燃料くらいケチらねぇと」と笑った。
 膝に招かれて事の顛末を尋ねられれば、嘘も言い訳も出来る筈がない。白ひげは全て黙って聞いてくれて、それから綺麗に血が落とされた手袋を返してくれた。大きな手で、耳打ちにならぬ大きな小声で、内緒話をしながら。
 白ひげの膝は温かく、昨日の晩殆ど眠れなかったマルコはいつの間にか眠ってしまっていたのだ。
 目覚めると部屋はマルコが眠っている間に火が入れられたらしい暖炉で温かく、そのせいでぐっすりと眠ってしまったのだ。扉を押しあけると冷気が一気に体を突き刺し、白ひげが後押しすると一気にマイナスの世界になった。
 白ひげは、クロコダイルやマルコのために、火を入れてくれていたのだ。眠れたおかげで、空腹でも手足は温かく、沈んでいた気持ちが少しだけ楽になっていた。
 白ひげが現れると、寒さにぼやいてばかりだった甲板の上が一気に騒がしくなる。この船の暖炉は、白ひげ自身だ。
 マルコはやりかけていた仕事をするべく、倉庫へ駆けだした。


 **


 倉庫の中身は、昨日とはどこか違っていた。マルコは昨日まで括られていなかった薪が整然と積み上げられているのに首を傾げたが、作業が少なくなるのは有り難かった。ロープを扱うには力が必要だし、また手を痛めてしまう。
 しょいこはそのままあったので、積み上げて階段を上る。昨日よりも息がすぐに上がって、スピードはひどく鈍かったが、どうにか終わらせる事が出来た。
 軽食の時間だが、マルコは食べてはいけない。サッチに云われたとおり、水だけはきちんと飲んで部屋に戻ると、何故か扉を開けた途端に温かい空気が顔に触れ、マルコは慌てて扉を閉めた。部屋には小さなストーブが床に設置され(火の気は厳禁な室内用の、密閉型だ)白ひげの部屋のように温かい。クロコダイルの使っていたらしい机の上には海図とペンが置いてあり、彼が作業するのに焚いたのだと思われた。
 でも、とマルコは考える。この海域に入ってから、クロコダイルは一度も部屋を温めた事は無い。寒いのが嫌いな彼は、狭い場所も好きでは無い。部屋に閉じこもるくらいなら、プレイルームで航海士や隊員たちと談義したり、白ひげに悪態をつきに行くのがクロコダイルという男だ。沸点が低く、すぐ手の出る性質の癖に、マルコと最初に約束した「殴らない」事を律儀に守る、そんな人間だ。
 クロコダイルに買ってもらった本を広げ、空腹を紛らわすために文字の世界へマルコは没頭した。
 温かな春島の、陽気な人々の物語だった。


  **


 日が完全に沈み、消えかけたストーブでは太刀打ち出来ぬほどの寒さがモビーディックを襲った。マルコはコートの中にシャツを重ね、セーターも着た。もこもこした靴下も三枚重ねて、マフラーで鼻まで覆い隠す。寒くて、鼻がとれてしまいそうだったのだ。
 小さなランプ明かりの下で、マルコは初めて怖いと思った。人は、寒くて死んでしまうのだ。手がとれても足がとれても、マルコは生きられる。でも、体が凍ってしまったらどうなるのだろう。空腹も思い出す暇がない程に体が震え、立ち上がらなければダメだと本能的に悟った。このままこの部屋に居れば、死んでしまう。
 手袋をしっかりと填めた手を床につき、震える足でゆっくりと立ち上がる。扉を開けて、外へ。誰にも見つけられずに死にたくはない。この船で死にたいと思った事なんて、一度だって無いのだ。
(――!)
 マルコが開こうとした扉が一気に開け放たれ、勢い余ったマルコは前のめりで倒れた。だが予期した衝撃は訪れず、マルコの体はふわりと宙に浮いた。
 マルコは飛んでいない。目の前を暗闇が覆い、咄嗟に目を閉じた。マフラー越しでもわかる葉巻の香りに、マルコはじっとそのまま動かなかった。そこは、世界で一番安心できる場所だ。白ひげの膝の上よりも、マルコにとっては最上級で好きな場所だった。
 上下に揺れる振動が止まり、彼の左腕が「顔を出せ」とでも云うようにマルコの尻を押し上げた。前を閉じたコートの襟元から、マルコはすっかり温もった顔を外に出すと、僅かな水蒸気が一瞬で凍り付いたのがわかる。クロコダイルの顔も揺らいでいて、憎々しげな顔の彼が、寒さのあまり衣服から露出している場所を目に見を凝らさねば見えぬ程微細な砂に変えているのがわかり、マルコは謝った方がいいのか笑ってしまっていいのか、本気で悩んでしまった。
「……上だ」
 砂人形が眉間を寄せ、マルコは云われた通りに空を仰いだ。

「――――」


 言葉など、口が凍り付いていなくても出なかった。
 目の届く空の端から端まで、水平線の黒に途切れるまで、光のカーテンが揺らいでいた。
 本で見たものなんて、紛い物にも及ばない。白ひげが豆粒だなんて、嘘のように考えていた。
 クロコダイルのシャツにしがみつき、興奮で乱れた心臓を押しつけた。寒さなんてもう、感じさえしない。オーロラはやがて薄くなり、空に溶けるように消えてしまった。
 クロコダイルが歩き出しても、マルコはじっと空を見ていた。まだ胸がどきどきしている。心臓がうごいている。クロコダイルの、温かい腕の中で。
「――口を開けろ」
 クロコダイルの声に、マフラーを下げ、マルコはひな鳥の様に口を開けた。疑問なんて抱かない。だって彼は、いつだってマルコを守ってくれているのだから。
 ころん、と歯に当たって転がったものは、丸くて苺の香りと味がした。
「……おいしい」
 それは、昨日サッチに渡した筈の、キャンディだった。
 空っぽのお腹に甘さがじわりと染み渡って、マルコはクロコダイルのコートに首まで埋まってしっかりと抱きついた。ポロポロこぼれる涙は、クロコダイルの右手が拭い、直ぐに乾く。だからどれだけ泣いても、許されるのだ。
「……クロコダイルと、オーロラが見たかったんだよい」
「見てやったろうが」
「うん……っ、迷惑かけて、ごめんなさい」
「罰は終わりだ。今日はクソジジイと寝ろ。大人でも今日は凍死する」
 うん、とマルコは何度も頷いた。
 煙と苺の味が混じり、口の中のキャンディは、甘いのに複雑で、舌に苦い味がした。



2012/4/11

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