ビターキャンディ(前)



 雲一つ無い青空は高く、吐き出す息が凍り落ちるほどに気温の低い海域を、モビーディックは悠然と進んでいる。先導する砕氷船の船尾も見慣れた頃、マルコは決められた仕事をこなし、手袋をコートのポケットにねじ込んで船内に駆け込んだ。
 扉一枚隔てるだけで、船内は天国のように温かい。食堂ともなれば、火を使う分更に過ごしやすいのだ。マルコが入ってきたのを目にしたコックが、落とさぬように取手の付けられたトレイに熱々のスープの入った深皿と焼きたてのパン、海域で穫れた肉の締まった海王類のソテーにパスタ、最後の補給から幾分か日が経っているせいで少ない野菜を乗せてくれた。
 骨と皮だけだったマルコの体は随分と子供らしい丸みが戻り、体力が戻った頃から容赦なく力仕事を与えられているせいで、骨格や体つきも幾分しっかりと育ち始めている。
 こぼさぬように慎重にテーブルにトレイを運び、自分用の椅子の上にまずトレイを置いて、そこへ登る。この船にいる男たちは皆大きく、テーブルも椅子も例外ではない。青い鳥の刻まれた椅子は、マルコのために作られた特別なものだ。そこからテーブルへトレイを移動させ、ようやくマルコは椅子へ腰掛けた。
 昼食の時間帯は、夕食よりはマシな程度の戦場だ。ガチャガチャとうるさい食器の音に負けじとマルコもパンをちぎり、スープの中へじゃぶんと浸けて食べ始めた。クロコダイルと共にする食事時以外は、マルコの食べ方も海賊式に染まっている。食いっぱぐれてはたまらない。今食べないと、もう食べられないかもしれないのだ。
 流石にもう口の周りをベタベタにすることは減り、同時に早食いは上手になった。パンの半分をスープで流し込み、口いっぱいに肉を頬張りながら片手でパスタをぐるぐるとフォークで絡めて、口の中の食べ物がなくなる暇がない程に詰め込んだ。十分も経たぬうちに食事は終わり、また同じようにトレイを椅子に置いて、今度は飛び降りる。マルコはもう、どんな高さからだって足音もなく飛べるようになっていた。

「マルコ! 食ったら八番倉庫から薪を甲板に上げておいてくれ。今日の分と、それからオヤジの部屋に」
「わかったよい」

 出入り口ですれ違った四番隊の男に声をかけられ、マルコは巨大な廊下を駆けていった。

「よく働くなぁ」
「全くだ。おまえよりよっぽど役に立つ」
「なにをう!?」
「はいはいどっちもお役立ちだ。喧嘩すんな」

 にらみ合う四番隊の男の目から火花が飛び散り、拳骨をくらった二人が「サッチ隊長、痛ぇ!」と抗議の声を上げた。

「悪い悪い。マルコは確かに働きもんだ。だからってあんま無茶なことはさせるなよ」
「へーい」

 背後から現れたサッチに、男たちは諍いなど忘れたように食事を取りに連れ立って行った。切り替えの早さと沸点の低さの扱いは手慣れたものだ。
 サッチもトレイを下げて席に付き、慣れた喧噪の中で胃袋に生きる糧を詰め込んだ。
 マルコはいい子だ。最初の頃こそ物怖じして発揮できなかった機転の良さ、一を聞いて十を知る頭の回転の速さも、サッチは気に入っている。海賊になるしか道の無かった子供だ。愚鈍よりは機敏が良いにきまっているし、何より素直で可愛らしい。出来れば妙にひねくれる事無く真っ直ぐに育って欲しいが、海賊船に於いてそれは奇跡的な確率だ。
 すれ違った時に見えた、マルコの膨らんだポケットの中身を思い、サッチは育児問題の面倒な部分をほぼ全て押しつけてきたクロコダイルに、後でもう一度悪態をついてやろうと誓った。

 **

 またサッチに見られてしまった。
 船の中層にある倉庫に降下しながら、マルコはポケットのふくらみを押し潰した。そこにはパンの半分が詰め込まれているのだ。
 慢性的な飢餓の記憶は、飢えることの無くなった今でも忘れる事は無い。十分な食糧がこの船にあるのも、それを惜しみなくマルコに与えてくれる事も、頭では理解しているのに、時折不安でたまらなくなる。
 港から長く離れると、食事の内容は段々と質素になって行く。海では海王類も穫れるし、食糧の積載量は長年計算された安定のものだという事も勉強したのに、どうしても駄目だった。当分出ることの無かった癖が、ふいに出てしまったのだ。
 一度サッチに見られてからは、あまりしないように心がけていたのに。
 サッチは「倉庫じゃ食べるなよ、ネズミが湧くからな」と注意しただけで、それ以外は何も言わなかったが、褒められるような事じゃないというのはマルコにもわかっている。薪を運び終えたら食べてしまおうと、マルコは急ぎ足で木材置き場の扉を開けた。
 篝火用の薪をロープで括り、しょいこに積んで何度も階段を上る重労働だ。マルコでは一度に運べるのはせいぜい二カ所分程度で、夜中使う量に届くまでは、十回は往復しなければならない。この船に乗る大人たちは皆優しいが、一度戦闘が始まると皆形相が変わり、荒々しく恐ろしくなる。そんな男たちが命を賭けて稼いだ金をただ浪費されるのは、好ましい事ではないと思う。
 五往復を数えたところで、薪を縛るロープを持つ指先の感覚が失せた。汚れた手袋を外して見ると、指先が赤黒く、チリチリと青い炎が揺らいでは消えている。怪我をした記憶は無い。けれどマルコの持つ青い炎は、再生の炎だ。きっと、ロープを結ぶときに力を入れ過ぎたに違いないと、マルコはもう一度手袋を填め、仕事に戻った。

 自分の息で睫すら凍り付いた頃、薪を甲板付近の倉庫へ運び終えたマルコは、最後に白ひげの部屋用の薪を持ち、巨大な廊下を進んだ。白ひげの部屋には暖炉があるが、彼に合わせた巨大なもので、マルコが運ぶ程度の薪では到底間に合わない。この薪は、隣室のナースたちが使うのだ。男だらけの船で一番安全で、かつ安心できるのは白ひげの部屋で、彼女たちは奔放に彼の部屋を行き来する。薪はその際に、白ひげの部屋から持ち帰るのだ。彼女たちが使う薪くらい、部屋の大きさからしたら埃のようなものである。マルコも、女であるナースたちが重い薪を一人で取りに行く危険を弁えている。白ひげがいても、女という生き物はいつだって気をつけないといけない。
 例え重い罰が待ち受けていても、それを無視する人間というものは必ず居るのだ。

「マルコ、薪を持ってきてくれたの? ありがとう」

 白ひげの部屋の前で、丁度隣室から出てきた髪の長いナースが、手の塞がっているマルコのコートのポケットに、可愛い包み紙のキャンディを入れてくれたのに、マルコは「ありがとう」と目を輝かせてお礼を言った。甘いものは船の上では貴重で、まだマルコはいくらでも甘いものを欲する年だ。

「船長、開けますわよ」

 地響きのような返事と同時に、マルコはナースと体全体を使って大きな扉を少しだけずらした。ナースは手を振って去り、マルコはしょいこを背負ったまま扉を閉める。部屋の中はどこよりも温かく、マルコは体が一気に汗ばんだ気がした。

「ナースの薪か、マルコ」
「うん。頼まれたよい」

 振り返ったそこにはカウチに寝そべる白ひげと……クロコダイルがいた。マルコは急いで部屋の隅、隣室への扉が設置された場所付近へ薪を積み上げた。

「仕事はまだあるのか?」
「言いつけられた分は終わったよい、オヤジ」
「じゃぁ少し温もって行け。外は今晩オーロラが出るだろうってぇ気温だろう。こいつなんざ、一日中ここに居る怠けモンだ、グラララララ!」

 膝を叩いて笑う白ひげの声で、体が一センチは浮いた気がした。見上げたクロコダイルは、分厚い本を片手にいつもの葉巻をくわえていて、マルコは手招かれるままに白ひげの足下へ駆け寄った。
「マルコが働いてるってぇのに、鰐小僧はいいご身分だ」
「うるせぇクソジジイ。だからこの航路は嫌だって言っただろうが」
「そう言うな。なぁマルコ、オーロラを見たことはあるか?」
 片手で膝に上げられたマルコが「本で見たよい」と答えると、白ひげは「そんなちっせぇもん、霞んじまうほど綺麗なもんだぞ」と大きく両手を広げた。
「そんなに?」
「もっともっと、空いっぱいだ。おれなんざ豆粒さ。おい鰐小僧、こいつにでっけぇの見せてやれ」
「冗談じゃねぇ。おれはこの航路を抜けるまで外に出ねぇぞ。見たいならてめぇで探せ」
 クロコダイルの機嫌は、寒ければ寒いほど悪くなる。サッチが温度計のようだと表したのは、全く持って正しい。その日の気分だけで生きる、クロコダイルはまさに海賊そのものの男だった。
 コートの中が急激に温まり、マルコは無意識に手袋の上からむずむずする手を掻く。感覚の無かった筈の手が、なぜか疼き始めたのだ。
「……オヤジ、おれ、ひとりで見るよい。クロコダイルは寒いの嫌いだから、きっとおれと見ても楽しくないよい」
 ガリ、と手袋の中の繊維が引きつれた。
 クロコダイルはマルコの全行動に責任がある。そしてマルコの生を保証してくれている男でもある。マルコはクロコダイルという人間が好きだった。サッチのように分かりやすい愛情を見せてくれるわけでも、普段から可愛がってくれるわけでもない。それでも沢山の優しくない大人を見てきたマルコには、彼が優しくない筈がないという核を感じている。だから、彼を困らせるような事はしたくない。
「……マルコ、手をどうした」
「え?」
 頭上からの声に、マルコは無意識に手を掻きむしっていたことにようやく気がついた。
 白ひげの巨大な手が手袋の指先をつまみ、マルコの手から引き抜いた。青い火の粉が手袋からこぼれ落ち、白ひげは眉を寄せる。
「霜焼け、じゃねぇな。凍傷だ」
 マルコが掻き毟った手の甲と指の付け根が破れ、手袋の裏には血が付着していた。一度外して見た時よりも、指の色は更に悪く、まるで白ひげの指の上に、腐った肉の切り身が乗っているように見えた。
「マルコ、すぐ治してしまえ。指が無くなっちまわぁ」
 白ひげの言葉に慌てて意識を集中させると、両手と、それから靴のつま先が青く燃え上がった。冬島用の分厚いブーツの中でも同じ事が起こっていた事を、マルコは炎を見てようやく気づく。痛みはあったのかもしれないが、凍りついて今までわからなかったのだ。
「オーロラが出る時ぁ、こんな寒さの比じゃねぇぞ、マルコ。クロコダイル、もっと温かい格好させるか、この海域抜けるまで仕事を変えてやれ」
 名前を呼ばれたクロコダイルが「船長命令」に眉を寄せ、金色の眼がマルコを見上げた。己の体も管理できない杜撰さを責められているようで、マルコはいたたまれなくなって白ひげの膝から飛び降りた。
 空気抵抗を受けた青い翼から、青い炎が尾を引いて部屋を照らす。人の体に戻った両手を握りしめ、マルコは扉へと走った。
「……おれ、オーロラ見なくてもいいよい」
 俯いたままそうふたりに言い残し、来た時と同じように体全体で扉を押し開けた隙間からマルコは逃げるように出ていった。
「鰐小僧、おめぇに似ずに、いい子に育ってるじゃねぇか」
 頭上から降ってきた手袋を片手で受け取り、クロコダイルは朝から何本目かわからぬ葉巻を暖炉に放り投げる。短くなった葉巻は、一瞬のうちに炎の中へと消えた。白ひげの足下には、マルコのポケットからこぼれた、潰れて乾いたパンが転がっていた。
 たまには満たしてやりな。
 白ひげは、尽きぬ愛情を湛えるオヤジの顔で、ひねくれ者筆頭の息子の頭を嫌がられるとわかって撫でてやった。


  **


 言いつけられた仕事は終わっている。それが終わればマルコは勉強してもいい。そう決めたのはクロコダイルだ。
 クロコダイルは字が読めないのも地図が読めないのも知識が少ないのも、仕事が出来ないのも機転が利かないのも役立たずなのも弱いのも汚いのも嫌いだ。そのどれもに当てはまったマルコは、彼の嫌いな要素を少しでも減らしたかった。
 部屋に戻り、扉を開けようとして自分が手袋をしていないのに気がついた。マルコの衣服は全て、クロコダイルが買ってくれたものだ。大事なものだ。なのにそれを、置いてきてしまった。
 鼻の奥が痛くなって、指が張り付きそうなほど冷たい扉の取手を掴んで開け、体を滑り込ませる。火のない室内は扉の外よりも多少マシなだけで、吐き出す息は真っ白い。
 汲み置きの水は凍っており、マルコは乾いた布で黙々とクロコダイルの大きな書机の埃を拭った。部屋の掃除も、マルコの仕事だ。緊急性の低いものは、後回し。効率、能率という概念を持たなかったマルコも、今ではきちんと理解できている。
 床も隅に埃が溜まらぬように拭いて、あまり頻繁に取り替えられないシーツの皺をきちんと伸ばしてベッドを整えていたマルコの指の節を覆う皮膚がまた、ぱちん、と弾けるように割れた。血が落ちぬように咄嗟に引いた手の傷からは、血と炎が舞い上がり、すぐに何事も起こらなかったようになめらかな肌になった。
 すん、と凍り付くように冷たい鼻を啜ると、粘膜がピリリと痛んだ。
 こんなこと、ちっとも辛くないはずだった。
 きっと、お腹がいっぱいになるまで食べられて、暖かいベッドの中で眠るうちに、わがままになってしまったのだ。
 見張りの鳴らす午後3時を告げる鐘に、はっとしてポケットを探ると、昼に入れたはずのパンはどこにも無く、掃除した床にパン屑がこぼれ落ちた。マルコはこの気持ちが「みじめに感じる」事だと、言葉の音だけで理解した。パンは、きっと白ひげの膝から飛んだときに落ちたのだ。マルコのことを、意地汚いと思ったかもしれない。
 パン屑を拾い集めながら、マルコは凍り付いた睫毛を、動きの鈍い手で乱暴に擦った。


  **


「ありゃ、マルコがいねぇぞ。お前等、こき使うなって言ったろうが」
「人聞き悪いですよ隊長。篝火用の薪、上の倉庫に移動されてたし、どっかで遊んでんじゃないっすか?」
「マルコがか? そりゃ可能性は低いだろ」

 軽食の時間は、各隊バラバラに定めてある。クロコダイルの庇護下にあるマルコだが、所属は四番隊と決まっており、何かある場合はサッチにまず連絡が来る筈だった。育ち盛りの子供は、近頃よく動くようになった表情で、幸せそうにおやつを食べるようになった。マルコを可愛がっているコックが、見え見えの贔屓で子供の喜ぶ形の可愛らしいクッキーやカップケーキを作るものだから、サッチは「ありがたいが毎日はやめろ」と申し出た程だ。船の上での食糧における差別化は、諍いの火種になりうる。マルコが喜ぶ顔は見たいが、その前にサッチは隊の纏め役なのだ。
 だがそのマルコの姿がどこにも見えない。決められた事はこなすし、言いつけを守る子供だ。サッチが腰を浮かすと、ようやく隊員たちが顔を見合わせ、異変を察した。

「敵襲――!!」

 警鐘が鳴り響き、後方で爆発音があがる。モビーではなく、後続の黒鯨からだ。氷山に潜んでいたのかとサッチは舌打ちして甲板へ走り出る。マルコは心配だが、目の前の敵の駆除が先決だ。
 サッチは獲物を手に、戦場へと躍り出た。



「おいクロコ、マルコがいねぇ」

 顔の煤と血を拭いながら、戦いの場に居たにもかかわらず汚れ一つないクロコダイルの顔に、サッチは吐き捨てた。
「部屋にも避難倉庫にも。さっきオヤジに報告にいったそこにも」
 被害は黒鯨一隻の軽度損傷と、負傷者数名。マルコが飛び立つのを見張りは見ていないし、モビーディックは敵船の接舷を許していない。船の中に居るはずのマルコがどこにも居なかった。敵襲があった際の避難場所は定めてあり、非戦闘員はそこに避難する決まりだ。間に合わなければクロコダイルの部屋、白ひげの部屋、と何度も繰り返し教えているし、マルコはこれまで守ってきた。

「おーい! チビがいねぇんだとよ!手ぇ空いてる奴ぁ探してくれ!」

 武器を持ったままの男たちが、船の中や甲板の死角に散り散りに走って行く。人の形を崩し、船中に飛んだ砂を見送って、サッチも最悪の結果でなければ良い事を信じたことの無い神に祈りながらその後へと続いた。
 

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