胃袋と下半身、人生に於ける最も重要で下世話な話


 くたびれたスーツ姿の、頭髪の少し寂しくなった常連客が、イゾウに「ごちそうさん」と言いおいて出て行き、店内はマルコとイゾウの二人だけになる。いざよいの狭い店内は席数も少なく、満席になることは滅多に無い。
 今日はまだ、エースは出勤していない。昼勤務のレストランで、新人アルバイトがうっかりとってしまった予約ミスにより、オーナーであるサッチまでかり出されて対応に追われているのだ。元々いざよいはイゾウ一人で回していた店であり、そういう事態ともなれば、同経営者の店は当たり前に融通が効く。いざよいにおいてのエースの位置は、エースが云うには「おれ、洗い物係みたいなものなんで」という事らしい。
 あちらの店が終わったら、エースとサッチがケーキを持って行くと、昼頃にメールが入っていた。
 エースとマルコが初めて出会い、そしてこのいざよいの存在を知って、もう一年になる。マルコの誕生日である五日は、今年はいざよいで祝い、エースは翌日の休みを貰って過ごした。イゾウの誕生日が近いのを去年は知る機会がなかったが、今年はささやかに、この店内で祝う事になっているのだ。営業時間中なので、客が来ればそちらを優先するが、この店に飛び込みの客は滅多にいない。常連たちならば、店主の生誕日を喜んで祝ってくれるだろう。
「きんぴらくれ」
「あいよ」
 小鉢を持つイゾウの手は、こんな仕事にも関わらず、白くなめらかだ。イゾウはマルコよりおそらく十は年下だろうが、エースのような若さは無い。それでもこの手を保っているのなら、毎日手入れをしているのだろう。
 イゾウのきんぴらは、牛蒡よりもレンコンが好みだ。艶々と照っているレンコンは、歯ごたえがシャキッとしていて、ぴりりと唐辛子が効いている。
「先に飲んだら、怒られちまうかな」
「一杯くらいわかりゃしねぇさ。冷やでいいかい」
 霜の付いたショートグラスに、無色透明な酒が注がれる。黒い酒瓶に、やはりイゾウの指が白く映えていた。
「手ぇ綺麗だなぁ」
「ありがとよ。口説いても落ちねぇぜ?」
「口説くかよい。水仕事してんのに綺麗なもんだと思ってな」
 最後の雫を切り、イゾウは自分のグラスにも酒を注いだ。これで共犯だ。
「毎日手入れさせてやってんだよ」
「……へぇ」
 させてる、の間違いじゃないかと思いつつ、マルコは冷たいグラスに唇をつけ、一気にあおった。アルコール度数の高い酒が、冷たいくせに喉を焼きながら落ちてゆく。
 イゾウの「いろ」であるサッチは、マルコと大学が同じだった。世話焼き体質で、それに喜びを感じるタイプのサッチは、確かに喜んでやっていそうだった。甲斐甲斐しくイゾウの手を取り、毎日クリームを塗り、爪を磨くサッチの姿は、あまり想像したくはないが、していたとしても全く違和感は無い。
「そっちはどうなんだ」
「ん?」
「ちゃんと手入れして貰ってるのかい?」
 危うくきんぴらを丸飲みしそうになり、マルコを口を覆って俯いた。
「……なにを」
「決まってる。胃袋と『しも』を掴んでなきゃぁ、男も女も逃げていくもんさ」
 繊維質の固まりを飲み下し、マルコはもう一杯、とグラスの縁を指先で叩いた。再び白い指が、酒をグラスに満たしてくれる。
「心配されなくても、あちこち掴まれまくってるよい」
「そりゃいい。若くて可愛いうちの店員が、年上の手のひらで転がされて泣かされちゃぁいねぇかと気が気じゃなくてさ」
「馬鹿なことを」
 泣かされるなら、もし捨てられるなら、まずエースの方からだとマルコは思っている。それが一回り以上の年下の男を好きになってしまった中年の、切ない予防線だ。泣くのも喚くのも、見苦しく縋るのもきっとおれだ、と。
「じゃぁ、お互い具合はいいんだな。そりゃぁいい」
 イゾウも手酌でもう一杯グラスを満たし、赤い紅の艶やかな唇のあわいに一気に流し込んだ。一滴もこぼさぬその喉の動きは、まるで白い蛇のように見える。
「マルコ、あんた大抵は、ネコかい」
「……まぁ、そうだよい」
「だったら教えてやろう。同じ相手と一年ヤるとな、違ってくんだよ」
 イゾウは酒豪だ。酔ってもいないのに、こんなに饒舌になるイゾウは珍しい。今日は余程機嫌が良いらしく、普段はあまり話されないイゾウ自身の話に、マルコはうっかり耳を傾けてしまった。 
「ある日を境に、わかっちまう。『おれのカタチになった』ってな。元から具合のよくねぇのと一年もやらねぇってのを差し引いても、実感すんだよ。しかも歳イくとよ、使い慣れて覚えたケツが、こっちのモンを柔らけぇくせにすっげぇ強さでグイグイ絞り出すんだ。おれのためにあるケツが、おれのカタチになって、最高のタイミングで締め付けやがる。手放せる気がしねぇ」
 イゾウの舌が濡れた唇を嘗める仕草が、妙に扇状的に見えてマルコは狼狽えた。
(――マルコさん、今日、すごい……おれ)
 耳元で、エースの切羽詰まった低い掠れ声が再生される。おれはいま、イゾウのもの凄いノロケを聞かされているのに、なぜ今、エースの声が。
 イゾウが小さく笑っている。サッチのあんな姿など思い浮かべたくもないが、要するにおれは、イゾウにとってのサッチ、エースにとってのおれで――何を考えているのかよくわからなくなってきた。
確かに最近はどんどん自分が貪欲になっている気がして、あまりアナルセックスはしないようにしているけれど、つい先日の久しぶりのセックスは、自分でもおかしくなったのではないのかと疑うほどにエースにしがみついて――――。
「お疲れさまです! やっと向こう終わりましたぁ!」
「遅いぞ、マルコなんか待ちくたびれて飲み始めてるぜ」
「ああ! 駄目ですよマルコさん、今日は良いお酒開けようと思ってたんですから」
 イゾウの裏切りに文句を言う暇もなく叱られ、マルコは「ごめんよい」と酒のせいじゃなく赤らんだ顔を隠すように俯いた。
「なんだ、いつの間にか尻に敷かれてんのかい」
「そんな事してないですよ、ねぇマルコさん」
 慌ただしく着替えるエースが、狭い荷物置き場から顔だけ出してイゾウの台詞を否定する。ジャンパーを脱ぎ去ったエースの白いシャツの襟ぐりに見え隠れする赤い線に、マルコは居たたまれなくなって目を逸らした。
「エース、サッチは?」
「オーナーは、ケーキ取りに行くのに遠回りしてます。営業時間中に受け取る予定が出られなくなっちゃって、一号店の人に預かって貰ってたんですよ」
 バースデイケーキは、一号店のパティシエが修行時代にお世話になった店のもので、名産品の抹茶を使ったスポンジはイゾウのお気に入りだ。
「サッチも大変だな」
「そうでもないさ、あいつはおれに奉仕すんのが好きだからな」
 にやりとつり上げられたイゾウの唇に、マルコはまた芋蔓式に余計な事を思い出してしまう。いや、余計ではなくて、エースと過ごす日々は一年経っても毎日が大切で、幸せなのだ。
「……幸せそうで、何よりだよい」
「勿論だとも。ああマルコ、言い忘れてた」
 カウンターから身を乗り出したイゾウが、捕食者の笑みでマルコに迫り、マルコは蛙のように無様に身を竦めてしまう。
「一年で離れられなくなる、って言ったろ? ……それが十年続いたら、どうなると思う?」
 ――耳元にねっとりと流し込まれたイゾウの予言に、マルコは無言で席を立った。

「あれ、マルコさんは?」
「手洗いだ」
 妙に楽しそうなイゾウに首を傾げかけたエースは、暖簾の向こうに映った影にぱっと顔を向けた。
「オーナー! 待ちくたびれましたよ」
「そんな待たせてないだろ馬鹿。ほら、これ開けてくれ」
 ケーキの箱と、今日の酒に合うオードブルの詰め合わせがカウンターに並べられ、エースは目を輝かせて開封に取り掛かった。
 騒がしくなった店の奥で、マルコは赤い顔を冷ますべく便器に座り込んでいた。
 マルコのこれから、あと九年。エースは三十歳で、マルコに至っては五十の大台に乗る。この関係を手放す気等ないし、手放されるのだって全力で阻止してやる。イゾウの蛇より凄まじい執着は、マルコの中にも潜んでいる。
「ああ、今年も綺麗だ。おれはこのケーキを生涯愛するよ」
「おれよりも?」
「お前よりも」
 軽いやりとりの下に、今年は色々なものが見えてくるなと、マルコはようやく立ち上がり、一応手を洗って手洗い場を出た。
「マルコさん、見て下さい! ここのケーキ、すっごく綺麗でしょう?」
「ああ、美味そうだよい」
 エースの捧げ持つケーキはグリーンと白のクリームで飾りたてられ、金の飴細工は確かに美しかった。
「こんなのを毎年食べられるなんて、イゾウは幸せモンだな」
 店内にミスマッチな姿をしたケーキに、イゾウはいかにも満足そうに微笑んだ。「勿論だ」と。
 サッチに刻まれた十数年分の証が少しだけ羨ましく、やはり想像は少しだけ辛い。
 マルコは定位置の席に座り、十年後のエースの隣にいる己の姿を想像してみた。
 それは、当たり前の姿だった。
 







2012/10/14 GLC2にて作成/ペーパーより

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