リスクマネジメント



 休憩室の窓から見える灰色の空は、飽きる事も無くざあざあと大粒の雨を地上に落とし、冬が終わったとも春が始まったとも実感し辛いこの季節に、生ぬるい空気を振りまいていた――と云うのも、目で見て思う事であり、空調の効いた室内はいつでも一定の湿度に保たれている。そして以前なら陰鬱な空に気持ちが引きずられそうになっていただろうが、今のマルコには陰鬱になっている暇等無いのだ。
「マルコくん、隣に座ってもよろしいか?」
 弁当箱の蓋を開けようとしたマルコの隣に、口ひげ豊かな紳士然とした男が優雅に腰掛けた。返答を聞く前に座った彼は、当たり前の様にランチセットの乗ったトレイを置き「いただきます」と手をあわせた。釣られてマルコも「いただきます」と弁当に向かって呟き、箸箱から箸を取り出した。
 現れた弁当の中身に、口ひげの――営業部長、ビスタは小さく感嘆の声をあげた。
「これは、羨ましい。いつのまにか結婚されたのかね?」
「いえ、残念ながら」
 マルコは苦笑とともに首を振り、ビスタはなるほど、と頷いて食事を再開する。聞かれたくない話題を瞬時に嗅ぎ分ける営業スキルに感謝しつつ、マルコは今日のおかずをじっくりと目で楽しみながら味わう。おそらく『いざよい』で作った鯖の味醂干し、筍と昆布の煮物、イゾウ直伝のインゲンの胡麻和えとほうれん草の白和え、あんの掛かった肉団子。ご飯にかかっている、あの黒胡麻がなんとなく好きじゃない、と会社で出される弁当について漏らしたら、次の日から白米には味噌汁の出汁をとった後の小魚と白胡麻で作ったふりかけがかけられていて、口に入れるととても良い香りがする。
 葱の入った卵焼きは出汁のうまみが口の中に広がって、味は勿論申し分ない。いつでも二切れ入っている卵焼きは、甘かったり出汁巻きだったり、今日のように葱や紫蘇が入っていたりする。甘いのも、しょっぱいのもエースが作るのならなんだって美味しい。一つを先に食べ、残りは最後にとっておく。食べる度に複雑で、ちょっと嬉しい気持ちになる里芋を飲み込んだマルコに、ビスタは定食のスープを飲みながら「素晴らしい栄養バランスの弁当だ。私もこんな歳だし、もう少し健康に気をつけないとなぁ」と保険屋の鏡のような笑顔でテーブルの前を行き過ぎる部下たちに王侯貴族のように手を振った。
「去年で四十になりましたから、なるべく摂生したい所です」
「そうか君ももうそんな歳か。マルコ君は細いから、私みたいに中年太りの心配は少なそうだがね」
「その分体力が落ちて来ているみたいで」
「それはいけないな」
 スーツの下から分厚い胸板がはちきれそうな営業部長は、体脂肪率十%の笑顔でマルコの肩に、けむくじゃらさん、と何故か全年齢層の顧客から愛される手を乗せて微笑んだ。
「体がたるむと心も何故か重くなる、不思議なものだ。君も保険リスクを減らす為に何かするといい。確か武道もやっていなかったか?」
「学生の頃はそうですが、最近は殆ど……」
「会社と家を往復するだけだと、活力も湧かんだろう。折角の素晴らしい弁当だ、この際それを生かさない手はなかろう」
 紙ナプキンで優雅に口元を拭ったビスタが目配せを残して去り、マルコはくわえ箸のまま呆然と空の弁当箱に目を落とした。
 たるんだ……たるんでいる、体。
 マルコはバタバタと弁当箱を閉じ、そのままトイレに駆け込んだ。個室でベルトを外してシャツをめくりあげると、平坦な腹が現れた。いや、食べたばかりで胃のあたりはすこしだけ膨らんでいる。手の平でさすると、腹筋の窪みを感じるが、学生時代のそこで洗濯でも出来そうなくらいだった硬い張りはもう無い。風呂に入って毎日見ている筈なのに、なんで気がつかなかったのだろう。
 マルコはおもむろにシャツを引き下げ、便座に腰掛けて頭を抱えた。腹を冷やすと最近特に下痢になりやす……いや、こんな老化を実感している場合ではない。
 マルコの恋人は、つい最近まで学生服を着ていたような若者だ。なるべく長く一緒に居たいし、こんな体だって愛されたい。エースは、求めてくる頻度はそれなりに高いが、オーラルで良いと云う場合も半数で、それはマルコを気遣っているのだろうとわかる。深く愛されるのはたまらなく好きだが、以前一度、完全に意識を飛ばして以来、手加減されているような気がする。
 マルコは落ち着くために個室の芳香剤の香りを深く吸い込み、胸からスマートフォンを取り出して登録情報を呼び出した。


「お疲れさまマルコさん! 今日は遅かったね、ごはんどうする? 少な目?」
「米はやめとくよい。あっさりしたのがいい」
「わかった。イゾウさん、水菜使っていいですか?」
「ああ、メバルも出していいぞ」

 マルコが『いざよい』の暖簾をくぐったのは午後十時になろうかと云う時間だった。仕事が忙しくなると、マルコは食事をとる量がどうしても減ってしまうのをエースはよく知っていて、その勘違いはマルコにはとてもありがたかった。平常通り振る舞っているが、スーツの下の腕も足も腹筋も、おそらく二日遅れの筋肉痛に見舞われるに間違いない。
 ――会員継続を自動にしていてよかった。
 体を壊した時期から通っていなかった会員制のジムにまだ退会させられて居ない事を確認したマルコは、一時間の残業等屁でもない、と体に言い聞かせて二駅先のジムへ行ったのだ。
 実際、体力の衰えどころの騒ぎじゃないと云う程に、マルコの体は散々だった。若かりし頃はどれだけ走っても大丈夫だった心臓は爆発しそうだし、握力も落ちてバーベルも落としそうになるし、器械体操の選手のように柔軟だった体はストレッチ程度でミシミシと悲鳴を上げた。
「マルコさん、帰ったらお風呂にしっかり浸かって、すぐ寝て下さいね?」
「そうするよい。あぁエース、今日の弁当も美味かったよい。バランスが良いって先輩に褒められたよい」
「ほんとですか? 嬉しい。明日はそぼろご飯にしようと思うんですけど、肉はあまり入れない方がいいですか?」
「いや、そろそろ肉も食べたいよい。エースにまかせる」
「じゃ、鳥づくしにします。あっさりしてるし」
 鶏肉、タンパク質。今は辛くても、経験からきっと肉が欲しくなってくる筈だ。そうであれ、おれの体。
 水菜の煮びたしを咀嚼しながら、マルコは幼いそばかすの消えないエースの笑顔に笑顔を返した。

 その後、マルコの増して行く食欲にエースは喜び、マルコは深く愛される事を心から悦んだ。
 体が軽いと、心のたるみは激減するとはまさに真実。
 マルコ体の変化か、弁当箱に詰まった愛に気がついたかどうかは定かでないが、営業部長は今日も分厚い胸板をスーツに詰め込んで、休憩室の保険リスクを減らしている。





2012/05/03

スパコミ発行ペーパーより

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