子供と若造


 小さく軽い足音が遠ざかり、船縁を踏み切る気配の直後に小さな羽音が聞こえた。
「あーあ、拗ねちまった」
 サッチのこれみよがしな非難の声に、クロコダイルは一瞥もくれず船室へ向けて歩き出す。心なしか彼の足音は、いつもの自信が感じられないように思えた。
 
 気候はおよそ夏、気温は四十度。活火山を含む岩山と砂漠の広がる島の中央には交易で栄える大きな都市がある。外部からの侵入路の困難さと引き替えに、保養施設は充実し、オアシスの周囲には旅慣れた海賊共の舌を唸らせる食材が集まり、次の旅へ不要になった知識の詰まった書物を落として行く。大所帯の白ひげ海賊団は、長い陸路を往く事は少なく、今回は二年振りの大規模な休暇である。
 休暇と云っても、皆それぞれ懐に背にお宝を抱え、まだ見ぬ珍しい宝と様々な国から集まった女たち、それからごく一部の男は情報と書物を手に入れる為に慣れぬ土埃舞う大地を進む。
 大人の足で歩いて丸一日。途中に砂漠地帯があるため、牛車も荷車も使えず、駱駝を持たぬ海賊たちが都市を目指すには足を動かすしか手だては無い。
「マルコ、意地を張るのもいいが、もう限界だろう。乗せてもらいな」
 マルコの横をつかず離れず歩いていたイゾウが、とうとう足を止めてマルコの手を取った。いつでも透けるように白いイゾウの顔にも汗が流れ、全体的に赤らんでいる。
「……大丈夫」
「じゃねぇ。おいジョズ」
 手招かれた大男が、砂漠用のローブを翻してやってくるのが見え、マルコは肩で息をしながら俯いた。イゾウの事は、なぜか最初から苦手だった。サッチとの一件も理由としてあったが、彼はマルコを甘やかしたり怒鳴ったりは絶対にしない。一定の距離を置き、円の外からマルコに接しているきらいがあるイゾウは得体の知れない人間に思えてしまうのだ。マルコにとってわからないものは、怖いものだった。
 拾われて以来、殆どを船上で過ごしたマルコは長距離の陸路は無論のこと、乾燥地帯も砂漠も、ましてや山越えの経験など全く無い。
 支給された水筒の中身は尿に変わることすら拒否して汗となり、海上よりも酷い照り返しと熱で、フードを被っていても露出した顔は頬を中心に火膨れのように真っ赤になっている。防塵ブーツの中は血豆が幾度も潰れ、その度に青く燃え上がっていた。いくら皮膚を再生したところで、灼熱の太陽に奪われた体力と水分は戻りはしない。目的地まで、まだ半分にも届いていないうちにこれでは、倒れるのは目に見えていた。
「マルコ、おれが嫌ならオヤジの所でもいい。折角休養に行くのに体を壊してどうする」
 岩山の一部のように大きなジョズが、諫めるようにマルコのフードの上にごつごつとした指先を置くと、マルコはようやく頷いた。だが返答とは裏腹に不死鳥へと変化していく瞳には涙の膜が張り、きゅい、と一声鳴いて羽ばたく姿には隠しようもない落胆が滲んでいた。
「……嘘つきは後でこらしめないとな」
「オアシスに付き落とすか」
「それが一番堪えそうだな」
 灼熱の空を見上げると、青の中に異物のような黒い雲が広がり始めていた。砂漠に辿り着く頃には、雨になるだろう。
 フードの中に飛び込んできた小さな不死鳥を、白ひげは何も云わず迎え入れた。
「転げ落ちるなよ、マルコ」
 白ひげの耳の後ろの髪の毛をぐるりと腰に巻いたマルコに、白ひげは「ああ、いいやり方だ」と笑った。完全に機嫌を損ねている小鳥を、どうやって喜ばせようか。なにせマルコを怒らせているのは、マルコの一番好きな男なのだ。








 クロコダイルの予報は、雨に関してだけは百%の確率で当たる。この乾燥地帯にも、雨は降る。降るから、オアシスが出来る。
 クロコダイルと同行する初めての小さな「旅」を、マルコは殊の外楽しみにしていた。慣れぬマルコが途中で歩けなくなるのは目に見えていたが、軽い体を運ぶくらい大した苦でもない。
 街に辿り着けばマルコの好きな本も生涯で読み切れぬほどにあるし、見たこともない建物や店、船では一人も居ない同年代の子供だっている。短い期間でも、友人が出来るかもしれない。マルコにとってそれは必要な事だとサッチは語り、クロコダイルからのとは別だ、と小遣いまでくれた。
 そんな楽しい場所に、クロコダイルと行けるのだ。新しく誂えた防塵ブーツも鮮やかな柄のローブも、マルコの心を躍らせるには十分だった。




 白ひげのフードの内側から覗く大地に、小さな粒が天から降り注ぎ始めた。気温が下がり、火照るマルコのからだに冷たい水滴が降りかかる。砂漠に降る、恵みの雨だ。だがこのせいで、マルコはクロコダイルと一緒に歩けなくなった。髪の毛にしがみついて天を睨むマルコに、白ひげは胸の内で可愛い「鰐小僧」を庇えない事態を面白がっていた。一方的な思慕は、時に枷となる。たまにゃぁ喧嘩もすればいい。拳をあわせて、とはいかないが、反省させる事も必要だ。
 出立時、一方的に「先に行け。おれは日をずらす」と云われた時のマルコの顔は見物だった。呆然とし、雨が降ると理由を聞いた時の諦念の表情から、徐々に悲しみに移行し、そこから沸々と湧き出た怒り。このマルコが、抵抗も反抗も反論もする事が無かったマルコが「一緒に行ってくれるって、云ったのに」と言い残して先陣の白ひげを含むキャラバンへ飛び降りるのを、イゾウもサッチも見ていた。
 体力の無いマルコを雨が降る日に出立させるのは理に適っている。けれどもそれとこれとは話が別だ。なんと云っても乾燥地帯と砂漠はクロコダイルの最も得意とする条件で、マルコ一人の面倒を見る程度、造作もない事だ。なのに一方的に約束を破棄されたのだ。マルコは賢い子供で、そんな理由は理解できているだろう。けれど納得出来ないのが子供というものだ。




 一日遅れで辿り着いたクロコダイルは、イゾウ他隊長の連携により、雨に濡れるよりも酷い有様となった。二十代の気力ありあまる彼らにオアシスに沈められ、半死半生で引き上げられた彼が短気に渇きの右手をオアシスの水に触れさせた所で今度は白ひげの拳骨を食らった。
 マルコはというと、彼が怒られているという事実自体が怖くてサッチの足にしがみついたままだった。この船の中では、クロコダイルだって若造だという事をこれまでよく理解出来ていなかったのだ。
 落ちてきた前髪からぼたぼたと水をこぼしながら、ふやけた葉巻を吐き捨てたクロコダイルが「悪かった」とぼやくようにようやく謝り、マルコは謝られた事にパニックを起こしかけた。
サッチに耳打ちされ、ようやくマルコは生まれたての雛鳥よりもしゃがれた小声で「ゆるして、あげるよい」と、初めてクロコダイルよりも上に立ち、彼を許してあげたのだった。




 楽しい休暇は、まだ始まったばかり。



2012/05/03

続く……?

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