朝の蜜、夜の塩(前)


 若い日の、思い出す度に赤面しそうな思い出の十や二十、それは誰しも持っているに違いない。
 忘年会シーズンの飲食街は酔っぱらいで溢れていて、その中の一人一人の顔など普段なら見もせずに通り過ぎてしまうだろう。けれどその日は違っていた。

 恋とは。

 ああ、やっぱり顔が赤くなりそうだ。恋なんて単語を簡単に口にする事が出来るのは十代までだ。しかしその恋は、かくも人間を駄目にする。
 共に飲んでいた筈の友人たちは早々におれを放り出し、ぐだぐだとクダを巻ける相手を失ってぽかりと空いた空洞に、そいつの顔は飛び込んで来た。授業のいくつかが一緒で、あまり口を利いた記憶もない。けれど、特徴的な髪型と、素晴らしいノート、奇妙な語尾を含める癖は印象に残っていた。おれよりも覚束ない足取りで、彼はふらふらと何処かを目指し、けれどもあてはないのだろうと何故か本能的に感じた。よく見れば鼻の下が黒ずんでいて、鼻血を擦った後のように見えた。おれは何も考えていなかった。そして酔っぱらいの直感の赴くままに、そいつに声をかけた。多分「よう」とか、「どこ行くんだ」とかそんな適当な感じで。記憶はアルコール漬けで曖昧だが、ナンパのような誘いは成功し、おれたちは飲みに行った。酔っぱらいが更に飲みに行った後の結末はお察し下さいだ。
 おれたちはいつの間にかそいつのマンションで抱き合って眠っていた。色気のある話なんかじゃ全くない。床の上で、しかもお互いゲロまみれだった。半泣きで服ごと体を丸洗いし、二度と使いものにならないレベルのカーペットをひっぺがして、くしゃみを連発しながら掃除をした。そして同時にたちの悪い風邪を引き込んだおれたちは正月中も延々寝込み、おれより酷かったらしいそいつは休み明けまで大学を休んだ。ようやく赤い鼻の下でそいつが講義に出てきた時、ものすごく気まずそうに「おはよう」と挨拶をしてきたのにおれも、さも「何も覚えてないよ」ってな感じでおはようと返した。
 その後おれが中退するまで、そいつの素晴らしいノートはあの思い出に打ち勝つ価値があった。携帯電話なんて無い時代だ。連絡先も知らないそいつに会ったことは、それから一度も無い。


「おはようサッチ」
「……はよ、いま何時」
「七時」
「早ぇよ、寝かせろよ」
 再び布団を被ろうとした頭を頭蓋骨が凹みそうな馬鹿力でひっぱたかれ「今日はあっちの応援行くんだろうが」と言われてようやく思い出す。
「別に行けなくしてもいいんだぜ?」
「駄目! それは駄目!」
 慌てて飛び起き、床に落ちたパンツとパジャマを飛び越えてバスルームに向かった。ざっと湯を浴び、歯ブラシを咥えながら服を選び出す。イゾウはとっくにいつもの着物姿で、スラックスを履く途中の尻を握られてサッチは「んごぅ!」とおかしな声を上げた。
「……ばっか! 歯磨き粉飲んだじゃねぇか!」
「あんだけしたのに丈夫なケツだなぁ」
「うるせぇよ、さわんな!」
 何の因果か「恋人」の男……そう、男の魔手から逃れ、厨房に入るためにいつもはびしっとリーゼントを決める所な長い前髪ごと後頭部に流して結わえ、財布と携帯だけを握って車に飛び乗る。イゾウが「うるさい」と嫌がる古いアメ車だ。イゾウはこの後、優雅に飯を食って「いざよい」に行く前に買い物にでも出かけるのだろう。恋人の金で店を建てさせ、小料理屋で働く等と何処の愛人設定だと思う。けれどもこの場合の「女役」は残念ながらサッチだった。変わらぬ信号に苛つかないように深呼吸しながら、今朝の夢を反芻した。若い日のひとつの出来事。恥の歴史。あの日の事を笑い飛ばすには、まだ幾分か時間が必要だった。

   ◇

 エースの背中に影が見える。漫画的な表現をするならば、擬音は「ずーん」とか「もやもや」とか、そんな辺りだ。サボはグラスをピカピカに磨きあげながら、親友手当というものは必要であるか否かを脳内討論させていた。
「エース、今日はどうしたんだ」
「店長……!」
 優しい店長が先に動いてくれたおかげで、サボは弾丸のようなのろけを聞かずにすんだ。狭い店内で話など丸聞こえなわけだが、自分に向かって言われるのとそうでないのとは雲泥の差だ。
 曰く、先月の終わりにようやく同居を始めた恋人の「マルコさん」は、同居生活を堪能する暇もなく出張に出かけてしまったらしい。サボの性癖はいたってノーマルなので、一緒に暮らし始めた彼女が仕事で居なくなったのを想像すれば、寂しいことくらいはわかる。けれどもサボのようにドライで居られない性質のエースは、じゃがいもを刻みながら縋るようにジョズに心配ごとを羅列する。
「マルコさん、仕事忙しくなるとほんとに食べなくなるんです。眠りも浅いし、昨日からちょっと咳もしてたし。大丈夫かなぁ……」
「エース、仕事は仕事だろう。マルコさんはいい加減なひとではないのだろう?」
「そりゃもちろんです!」
「だったら、帰ってきたらうんと美味しいものを作って、仕事お疲れさまって言ってあげないとな。お前が待ってるんだったらマルコさんも頑張れるだろう」
「……そうですよね! おれ、あとでそうメールします!」
 お前はどこの新妻だ。
 サボの脳内つっこみは裏口の開く音で中断され、団体客の予約の時だけかり出されるオーナー兼シェフが慌ただしく入ってきた。
「セーフ! みんなおはようさん、ジョズ、おれは何やればいい?」
「スープは終わってるよ。メインは今からだ」
「了解」
 エプロンを巻き、手を洗ってコック帽を被ったオーナーがジョズの横に立つと、180超えの男三人には厨房は狭すぎる。むさ苦しいそこから逃げるように洗いたてのテーブルクロスを抱え、サボは店内へ退避した。
「エース、今日はいいことあったのか?」
「そんなとこです」
 先ほどまでの落ち込みはどこへやら、軽快に包丁を動かすエースにジョズは弟を見るように安心して微笑んだ。
「恋人が出張で寂しいけど、エースも仕事を張り切るそうだ」
「そりゃ殊勝な心がけだな。例の口説き落としたって奴か」
 イゾウを恋人に持つサッチに、エースもゲイだという事実を隠していない。エースは僅かにはにかんで「そうです。歳はオーナーと同じくらいなんですけど、可愛いんです」と恥ずかしげも無く自慢するので、サッチは包丁を持っているエースの脚を蹴るわけにもいかず「ごちそうさん」と腹を叩いて見せた。最近少々肉がのってきたそこは、いい加減危機感を覚えるべき時期に来ている。
「おれと同じっていったら、エースの倍じゃねぇか。年上好きか」
「好みドストライクでした。あ、オーナーは可愛くないんで」
 いらぬ一言に包丁を置いた瞬間を狙われ、エースは臑に食らった痛みに飛び退き「暴力反対! マルコさんはそんな可愛くねぇ事しねぇし!」と痛む臑を抱えてサッチを睨みつけた。その名前に既視感を覚え、サッチは「マルコ?」と繰り返した。
「そうです、マルコさん」
「金髪で、変な髪型?」
「え?」
「青い瞳で、語尾に『よい』?」
 エースが目をぱちくりとさせて「知ってるんです?」と問い返した。
 泣き腫らした青い目、切れた目元と鼻血、罵声、ゲロまみれの朝。青春の苦い一ページ、刻まれた赤っ恥。どうやらこの記憶は、生涯忘れさせてくれぬようだ。
 サッチは「大学で、同級だった」とだけ告げて、残る思い出に蓋をする。そして懐かしさで嬉しくなった。だっておっさんという人種は、昔を愛する生き物なのだ。
「エース、マルコが仕事から帰ってきたら、一緒に飯食おうぜ。どこでもいいぞ」
「まじで!? おれ、帝国ホテルがいい!」
 遠慮なく高い店を言われたが、エースの舌のためにオーナーとしては渋々頷くしかない。浮き足立つエースを見ながら、さて「マルコさん」は一体どんな顔をして来るのだろう。あの時は予想も出来なかった今の幸せな生活を、誰が思い描いただろう。あの頃の自分たちと同じ歳のエースが、あのマルコと出会うなんて。
 サボが看板を出していいかと声をかけてくるのに、サッチは「張り切って出してくれ」と暑苦しくサムズアップし、ドライなアルバイトは心底嫌そうに「普通に出します」と扉を開いた。



2011/12/11

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