夜の虹 8


 耳の裏を、サッチの手と温かい湯がじゃあじゃあと流れ落ちてゆく。
 シャンプーの泡が排水口に一時止まり、コポコポと小気味良い音を立てて吸い込まれた。
 エースはシャンプー台に頭を預け、ゆったりと目を閉じていた。

「かゆいところは御座いませんか」
「あと一時間ぐらい洗ってください」
「ハゲてもいいなら本気でやるぞ」
「……じゃぁ、もうちょっとだけ」

 サッチが苦笑いをした気配。髪の先を軽く絞り、トリートメント剤が塗布されて「マッサージはちょっとだけ長くサービスしてやる」と大きな手がエースの頭全体を包むようにリズミカルに動き始めた。
 思わず吐息をついたエースに、サッチはアニメの意地悪い犬のように口を歪めた。見えなくても、絶対そうなのだ。

「気持ちいいか?」
「……うん」
「いきそう?」
「やめろよ」
「イヤだね」
「サッチ」
「流しますよー」

 ざぁ、と再び温水が流れ出す。殊更丁寧に頭皮を刺激しながら滑る指の感触に、血流が良くなった理由以外でエースの顔が赤らんだ。サッチの顔の真下で、未だ消えぬそばかすが濃く浮かびあがってゆく。

  **

 マルコの帰国の連絡は、マルコ自身からサッチの店の電話へかかってきた。土曜の昼、一番忙しい時間を狙ってきたのは計画性皆無のマルコが頭をひねったのだと想像するに十分だった。……いや、もしかしたら本当に何も考えていなかったのかもしれない。
 とにかく一旦再検査を兼ねて入院しているマルコには土日に面会出来ないし、月曜を待つと退院されて行方をくらまされる可能性があった。
 地を這うようなサッチの声に、ドライヤーを使っていたハルタと女性客が思わず顔を見合わせて、慌ててお互いに雑誌とゆるふわカールに集中した。

 今度勝手に居なくなってみろ。地の果てでも追いかけて、お前の頭をラーメンマンにしてやるからな。

 ああ、ビジュアルだけなら大爆笑出来るのに! とハルタが後にエースにこっそり語ってくれたのはさておき、マルコはついに捕まった。
 病院の待合いロビーで、少ない荷物を抱えて背中を丸めて座るマルコは、エースとサッチが連れだって自動ドアをくぐるのを見つけて、あからさまに体を緊張させた。なにせラーメンマンがかかっている……いや、その前に。

「言い訳は?」
「い、今のところないよい!」

 振りあげられたサッチの右手に、エースとマルコは同時に身を竦めて目を閉じた。だがいつまで経っても訪れない衝撃に、マルコは片目を薄く開いた。――叫ばなかったのは奇跡だった。
 膝の上の荷物が転がり落ち、ごん、がん、と経由空港で買ってきた菓子の箱がバッグの中で苦鳴をあげる。ついでに立てかけていた松葉杖までもが倒れ、患者たちが何事かと振り向いた。
 マルコの目の前に、サッチの顔があった。あと数ミリ動けば、唇さえ触れ合うような場所に。

「次の仕事決まる迄、おれんちに泊まれ。それから、エース」

 いきなり名前を呼ばれ、エースまでもが肩を揺らす。サッチはまるで後頭部に目があるかのように、マルコに向かったまま微笑んで告げた。

「……ふたりとも、帰ってから話し聞くわ」

 ――――サッチが、怒っている。
 周囲の空気ごと凍りそうな緊張感を連れたまま、マルコは引きずられるように携帯ショップに押し込まれ、新しい携帯を買わされた。それがきちんと使えることを目の前で電話をかけて確認したサッチは、無言でその新しい携帯をマルコのバッグの中に入れ、タクシーを拾った。
 エースもマルコも、一言も喋る事無く、重苦しい車内の空気で窒息しそうになりながら美容室の前につけたタクシーから、監獄へ向かう囚人のように足取り重く降り立つ。
 審判の時が、迫っていた。

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