あなたと晩ごはん




 ライトアップされた不動産屋の掲示板の隅々まで目を通してもたらされたのは、現実の重さが原因のため息だった。
 駅もコンビニもスーパーさえも遠く、しかも小高い丘の上にあるエースのボロアパート(かろうじてバストイレは別だ。勿論トイレは和式で、水洗な所は素晴らしいと思っている)の家賃は三万六千円。マルコの住むマンションのある駅周辺はどこもかしこも家賃は高く、しかもオートロックで2LDK、駅まで徒歩10分ともなるとエースの家賃の二倍どころの騒ぎではない。同居を申し入れるには随分と高いハードルを越えねばならないことを突きつけられて、エースはスーパーの白い袋をぶら下げて足取り重くマルコのマンションに向かった。マルコに会えて、しかも夕食が作れるという出来事は心躍るはずなのに、家賃の折半さえも申し出にくい現実はどうにも重すぎた。
 予約のある土曜と日曜はレストランにフルタイム出ているが、今日はディナーの仕込みを終えた時点であがらせてもらった。いつまでも店長に迷惑をかけるわけにもいかないし、サボに言われた事は尤もで、かと言って話し合って解決できない問題はどうすればいいのだろう。しかし、話さないことには何も始まらないのだ。


 洗濯物を畳んで箪笥に仕舞う。簡単な事だ。けれども最近までこんな簡単な作業ですら億劫だった。
 マルコは未だじんわりと重い腰を床に下ろし、エースに貸したパジャマを畳み、下着をあるべき場所に納めた。動作を一つするごとに、昨日のエースとのセックスと、今朝一緒にとった朝食を思い出す。エースはセックスに関しても積極的で、勤勉さと素晴らしいぺニスを持っていた。(……とても重要な事だ。そしてエースがアナルセックスに抵抗がないタイプで本当によかった)あのローションボトルを差し出した時はお互いにどうしていいか分からない空気が流れたが、そこは忘れておこう。
 エースが「いってきます」と出ていくのに「いってらっしゃい」と返した後にどこの新妻だと思ったが、エースが「なるべく早く帰ります」とはにかんだのでマルコは本気でちょっとした新婚気分で午前中を過ごした。一度職場から電話があったが、行かなくても処理出来そうだったので電話で指示するに止めた。
 ため込んだクリーニングを取りに行き、ため込みすぎて大袋になった荷物を抱えてキーロックサービス店をちらと見ながら通り過ぎた。当たり前だが、エースは明日の朝には自宅に帰る。たった一晩抱き合って過ごしただけというのに、それはとても違和感のある現実だった。お互いマイノリティな性癖である中、こんなにも相性の良い相手に出会えたことは奇跡的だ。中には養子縁組みにまで至るカップルもいるが、短いサイクルで相手を変えるのが大半で、子供をもうけることも出来ない恋人が周囲の理解を得て家族になることはとても難しい。先月までエースの事なんて知りもしなかったのに、一度エースを好きになってしまったら、エースが居ない生活なんて想像だってしたくなかった。
 マルコはもう四十だ。今の生活のままで、そうそう長生きも出来るとも思わない
 埃にまみれた部屋で一人死ぬ自分を想像したら、胃のあたりに氷の塊をねじ込まれたような心持ちになる。もし若いエースが心変わりしても、エースはこれから出会いはあるかもしれない。けれど自分は駄目だ。独善的だろうがなんだろうが、エースにすがりついてでも引き止めてしまうだろう。
 唐突に足を止めたマルコの荷物に後ろから来た男がぶつかりそうになり、マルコは謝りながら踵を返した。


「マルコさん、ただいま。よく寝てたから起こすの悪くて……ご飯、もう少しで出来るよ」

 醤油のいい匂いに目を覚ますと、いつのまにかソファで眠っていたマルコの体には寝室から持ってきたらしい毛布が掛けられていて、マルコが体を起こしたのに気が付いたエースがキッチンのタオルで手を拭きながら振り向いた。持参のオレンジ色のエプロンと、帽子を被っていたせいかぺたりと潰れた前髪は片側をヘアピンで留めてあって、妙に可愛らしい。
 ぺたぺたと歩いてエースの横に立って手元を覗くと、「お茶飲みますか?」と聞かれたので半分寝ぼけたまま頷いた。三角コーナーには銀杏の殻が入っていて、湯気をあげながら蒸されている鍋の中身はすぐに予想が付いた。

「茶碗蒸し」
「正解。あとはカレイの煮付けとほうれん草のゴマ和えと、イゾウさんがくれたレンコンのきんぴらと胡麻沢庵。あと、ソースもらったからちょっといい肉買ってみたよ。マルコさん食べられる?」

 少しだけ、と答えるとエースは嬉しそうに肉のパックをあけた。イゾウの店は休みではないのかと疑問に思ったら「帰り際にレストランに来てくれたんだよ。うちのオーナー、イゾウさんの彼氏なんだ」と初耳な事実を告げられた。

「イゾウの彼氏……」
「想像つかないでしょう?おれもそうだったよ。イゾウさん曰くゲテモノ趣味が極まって捕まえた彼氏だって」

 イゾウの彼氏でゲテモノ扱いな男。エースは急須に茶葉をいれながら、マルコの反応にくすくす笑った。時計をちらと見たエースが鍋の蓋をあけると、真っ白な湯気がもわりと立ち上った。中には茶碗蒸しが三つ並んでいて、ふるりと黄色い体を輝かせていた。

「うまそうだよい」
「魚も、もういいかな」
「飯つぐよい」
「ありがとう」
「大盛りかい?」
「特盛りで!」

 ぺたりと丼にご飯を盛り上げながら、昼間食べたシチューが美味しかったことや、仕事の電話はあったけど行かなくて済んでよかった等と他愛のない事を話す。店長のシチュー、すごい好きなんですと嬉しそうに話すエースが煮くずれないように皿にカレイを盛りつけて、フライパンに肉を並べる。片面が焼きあがるまでには夕食の用意はほぼ完了し、マルコはそわそわと箸を出して椅子に腰掛けた。
 存在感のある肉の山と共にエースもテーブルの角を挟んで座り「いただきます!」と手を合わせた。エースはとりあえず丼に肉を積み上げて、マルコは茶碗蒸しをスプーンで掬う。エビではなく鶏肉のほうが好きだと言ったのを覚えてくれていたらしく、中身は柔らかな鶏肉の塊が入っていて、出汁の香りが口いっぱいにひろがる茶碗蒸しは文句なしに美味かった。底にあるはずの銀杏が出てくるのが楽しみで仕方がない。

「うまい」

 口いっぱいに肉を詰めたエースが不細工に笑って返事をし、マルコはたどり着いた銀杏の食感を楽しむ。この豆に似ているけど妙に癖のある独特の匂いと歯触りが好きなのだ。堪能してから茶碗を持つと「残りは明日の朝食べてくださいね」と言われた。3つあったのはそのためだったとわかり、マルコはその楽しみと共に明日の味噌汁の具はなんだろうと考えた。
 そうだ、明日。

「明日も、マルコさんとご飯食べたいな。……いざよいじゃなくてさ」

 もちろんイゾウさんのご飯はすげぇうまいけど、とカレイの身をほぐしながら言うエースに、マルコの箸はぴたりと止まる。それに気がついたエースが慌てたように顔をあげ、抱えていた丼を下ろして膝に手を置いた。

「あのっ……マルコさん、これはおれの勝手な希望なんで、もし駄目だったらはっきりと断って下さい」

 椅子を引いて真剣に見つめてくるエースに釣られるようにマルコも箸を置いて向かい合う。

「おれ、まだ給料そんなになくて、将来の貯金もしたいからあんまり高いところに住めなくて、今住んでるところの家賃は三万六千円で、なるべく高熱費も使わないように店で飯貰って食ってます。けどおれ、マルコさんとあんまり会えないのがもの凄く辛いんです。だから」
「一緒に暮らしてくれるのかい?」

 え?と捕まれた手を見下ろして目をあげると、エースよりも切羽詰まった様子のマルコがいつも眠そうな青い目を見開いてエースの顔前に迫っていた。

「おれは、エースと暮らしたい」

 一呼吸後、ぱっと顔を輝かせたエースがマルコの手を握り返して「おれ、毎日味噌汁作っていいんですか」と泣きそうな顔で笑った。マルコの返答の選択肢は、勿論決まりきっている。

「ご飯、冷めちゃうよ、マルコさん」
「……そうだな、勿体無ぇよい」

 マルコは返事の代わりに、水仕事をしてもすぐに熱くなるエースの手にキスをして「明日、合い鍵が出来上がるんだよい」と言い訳のように呟きながら箸を持った。カリコリ音を立てるイゾウのレンコンのきんぴらは、何故か彼の薄ら笑いにも聞こえた。


 その後エースが受け持った生活費は「二人分の食費」で、安くなった定期代と浮いたお金は毎月きちんと貯蓄されている。






2011/10/20



とりあえず一旦終了な感じですが、まだだらりと書きたいです。
イゾウの彼氏とか彼氏とかね。
周囲の人たちから見た二人も楽しそうです。

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