あなたと朝ごはん




 狭いロッカールームで手早く着替え、前髪をショートタイプの黒いコック帽に押し込んで手を洗う。ついでに崩壊が止まらない表情筋を引き締めるように顔も洗った。

「おはようエース」
「おう、おはよう」
「……おまえ、顔気持ち悪い」

 うぐ、と息が詰まってわざとらしく咳払いしたが、努力はさっぱり報われなかったようだ。
 週三回のアルバイトに入っているサボは幼なじみで、思春期に悩みに悩んで潰されそうになっていた性癖の悩みをあっけらかんと受け止めて、別にいいじゃないかと今までと同じように肩を抱いてくれた親友だ。

「まぁ上手くいったみたいで何よりだ。今日も泊まり?」
「うん!おれ、鍵預かったんだ!もしかしたらおれの仕事が終わるまでに会社に呼び出しされるかもって、合い鍵……昨日、ありがとう。サボ」

 どういたしまして、とサボもジャケットを脱いでギャルソンエプロンを巻き付ける。そろそろバイトなんてする時間すら無くなるほどに忙しくなる法学部の彼が貴重な土曜にシフトを追加してくれたのは先月に引き続き二回目で、エースはサボに頭が上がらない。

「で、念願の味噌汁は作れたの」
「……うん。作って、一緒に朝ご飯、食べられた」

 またにやけるエースの丸出しの額にデコピンをかまし、サボは開店準備の看板を出しに更衣室から出ていった。
 昨日、マルコとエースは初めて体の関係を持った。もう少しゆっくりと落ち着いて、がっつかずに行こうと考えていたエースの予定は、部屋でマルコに出会った瞬間に脆くも崩れ去っていた。マルコは黙って立っていれば大人の、如何にも仕事が出来る風な年相応の男なのに、ひとたび口を開くとエースが思わず赤面するような可愛らしいことを(二倍もの年齢の男に可愛いというのは惚れた欲目だろうが、実際そうなのだ)言い出すし、本人は絶対に気がついてないけれども天然だ。マルコが寝込んでいたあの日、整理していた冷蔵庫からあれを発見したときは、使用しているマルコの姿を脳内から追い出すのに大変な苦労をした。(冷たいのが好みなのかと一瞬考えてしまった)そのボトルを寝室で手渡してくれた時のマルコの複雑な表情といったら。
 手触りのいい肌と、マルコの内側の感触を芋づる式に思い出しそうになり、エースは慌ててそれを振り払って厨房に入った。

「おはようございます店長!昨日はありがとうございました!」
「おはようエース。食べて貰えたかい」
「はい!シチューは昨日食べきれなくて、今日のお昼にして貰ったんですけど、白身魚が好きだそうで、喜んでもらえました!」

 それはよかった、と目の前に山があるように見える大柄な店長が笑って頷いてくれた。とある事件のせいでカミングアウトした時は戸惑われたが、しっかりと聞いて理解を示してくれた彼の懐は体よりも大きく深い。定時制高校に通っていたエースがこの店でバイトから弟子になろうと思ったのは、彼の人間性によるものだ。エースの新しい恋を、彼は自分のことのように応援してくれている。

「でもすいません、ディナー忙しくなかったですか?」
「ああ、飛び込みが何組かあったんだがタイミング良くオーナーが顔を出しに来てな。ふん捕まえて使ってやったから心配するな」

 運び込まれた野菜の箱を開きながら、店長は意地悪く笑った。オーナーには災難だろうが、エースにとっては僥倖だ。エースとサボのように、幼なじみだという店長のジョズとオーナーは経営者と雇われ店長という枠を越えて親交がある。この店は一時期、オーナーが店長兼コックをしていた事もあり、彼の腕は全く危なげない。
 オーナーは今は2店舗半を経営しており、去年オープンしたばかりの新しい、若い女性がターゲットの店によく顔を出している。そこの店長はエースよりも一つ年上だがコック歴は一桁の年齢からだという筋金入りの料理人だ。喫煙癖と、女性(彼語録的には麗しのレディ)への過剰なサービスがたまにキズだが、エースも彼を料理的な意味で尊敬している。残りの「半」というのは……あの「いざよい」である。

「この時期にしてはいいトマトだ。エース、今日は前菜やってみるか?」
「いいんですか!?やります、やらせてください!!」

 エースはジョズが持つとプチトマトに見える真っ赤な可愛い野菜を、目を輝かせて受け取った。スープにするには勿体無い。焼いて甘みを出した方が絶対に美味しいと思うけど、ファルストマトも捨て難い。エースは今朝マルコに朝食を作った時のように張り切り、各種ハーブとエシャロット、少しのニンニクを混ぜた挽き肉を詰めたオーブン焼きはジョズのゴーサインを貰った。


 慌ただしいランチタイムが過ぎ、予約のない午後二時過ぎを休憩兼昼食をとりながら厨房の片隅にある折り畳み椅子でお茶を飲む。突然の来客に困らぬように、サボだけは入り口の見える位置に立っていた。

「うまくやっていけそうか?エース」
「もちろん。出来れば毎日味噌汁作って、お弁当も持たせてあげたいよ。マルコさん、お昼はあまり食べないって言うんだもん……下手したら朝から何も食べずに仕事するなんて、おれだったら絶対無理だ。一回体壊したって聞いてるし、すげぇ心配だよ」

 今時女でも滅多に言わないだろう台詞はエースの心からの気持ちだと分かるので、サボはあえてそこはスルーして同意して見せた。先月、もうベッドに入ろうとしていた深夜に突然「どうしようサボ おれまた年上に恋した」と絵文字すらないメールが届いて頭を抱えそうになったが、今のところ上手くいっているようで何よりだ。十分なお金もあり、仕事も怪しいものではなさそうだし(エースに聞くと「…保険屋?って、言ってた」らしい。多分横文字を覚えられなかったのだろうとサボは予想している)何よりお付き合いをしてから家に行くというのは、多少古風な考え方を持っているサボにも好感が持てた。

「来月はもっと忙しくて、いざよいにも寄れない日もあるだろうて……マルコさん、ご飯どうするんだろう」

 これまで生きてこられたのだから、そのマルコさんだってどうにかするだろうが、エースがしょげているのはどうにも見ていられない。従業員用のティーカップを手にしたまま、ジョズはごつい癖にどこか愛嬌があると密かに人気な厳つい顔を思案に揺らし、首を傾げた。

「エース、そのマルコさんの家はどの辺りだ」
「え?えっと、T駅の近くです」
「お前はG駅だったな」
「はい」

 突然ジョズが何を言い出したのかわからず、エースは目をぱちくりとさせたが、サボは「あぁ」と納得したように声を上げた。

「いざよいから家までは40分くらいか?」
「はい、終電もとっくにないからチャリで……え?」

 なんとなく言われている事が分かってきて、エースはあからさまに動揺した。自宅からいざよいのある駅の駐輪場に自転車を停め、そこから電車でここへ。そこからまた電車でいざよいまで戻り、自転車で自宅へというのがエースの通勤スタイルだ。

「そのマルコさんの所に住めば通勤時間も減って、お前の居眠りも減るし、食事も弁当も作れるんじゃないのか」

 ぱくりと口をあけていたエースの顔が、徐々に赤らんで行く。

「マルコさんのとこって……そりゃ、いまでも微妙に勤務時間とか合わないからいざよい以外で中々会えなくて、おれも夜遅いし今日もマルコさん休みだけどおれは違うし」
「話し合え」

 すっぱりとエースの混乱を断ち切るように言い放ったサボは、冷めた紅茶をごくりと飲み干してエースに差し出した。ティーポットからおかわりを注いでやりながら、エースは親友の真剣な眼差しから逃れられないでいた。

「会えなくて段々色々すれ違って、好きってだけじゃやっていけなくなる前に話し合えよ。もう十代の恋愛じゃない。俺も今年いっぱいで辞めるし、お前はもっと忙しくなる。恋人のために仕事やめるとか、出来ないだろう?」

 うん。と紅茶の湯気から逃れるようにエースは頷いた。ゆくゆくは独立して店を構えたいという夢の為に、いまの仕事を辞めるなんて考えられない。けれどもいずれきっと、苦しくなる。サボの言葉は真っ直ぐに心臓の裏まで突き抜けた。意地を張って話し合いも拒否し、そのくせわんわん泣き叫んだ子供の恋は、マルコさんと共に居たい気持ちと一欠けらも噛み合わない。

「話して、みる。……押し掛け女房みたいだな、おれ」

 ふへへ、と気の抜けた笑顔になったエースの後ろで店の扉が開き、一瞬で接客スマイルになったサボが「いらっしゃいませ」とお客を出迎えた。
 カップを片付けながら、エースはサボに開けられた心臓の穴をじわりじわりと塞ぐ温かいものを感じていた。それは「おいしいよい」と言ってくれたマルコの笑顔だとか、エースに気が付かずに駅前を歩く少し丸まった背中だとか、強く抱きついてきた腕の力だとか、唇の内側の滑らかな粘膜の感触だ。
 今日の夕食は、何にしよう。マルコさんが毎年楽しみにしていると言っていた銀杏の茶碗蒸しもいい。マルコさんの家の近くにあるスーパーは大きくて、たくさんの野菜が置いてあったからもうそろそろ入荷するだろう。
 ロッカーの中に入れた合鍵は入居時の予備に貰ったスペアキーらしく、キーホルダーも何もついていない簡素なものだ。マルコさんがどう思うかはまだわからないけれども、エースのための鍵をもしくれるのならば。
 エースは天にも昇る気持ちで、マルコすら呆れるほどの大根づくしのメニューを食卓に並べるだろう。




2011/10/14



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