ミルクと赤い指




「マルコ、その指どうしたんだ?」
 
 マルコの隣に腰を下ろしたサッチが、スプーンを持つマルコの右手をひょいと取り上げた。小さなマルコの右手の親指の付け根から爪の先までが、他の皮膚よりも薄く、赤くなっている。マルコの体は怪我はすぐに直してしまうが、血が滲まぬ程度の擦り傷等は意識的に力を発動しないと反応せずに残ってしまうようだ、という事は共に生活し始めてわかった事実だ。
 マルコは首を振って「わからない、でも痛くないよい」と食事を再開した。サッチもそれ以上は追求せず、ハムと野菜をぎっちりと挟んだパンにかぶりついた。
 マルコがこの船に来てから二ヶ月が経過した。ガリガリに痩せこけて子供らしい頬の丸みも無かったマルコの体ははようやくふっくらとした肉が付き始め、目ばかりが目立っていた顔には希に笑顔を浮かべるようになった。
 食べられるときに食うのは海賊の基本だが、マルコは餓える事が無くなった今も、食べ物を目の前にすると僅かに目の色を変える。飛びつきたいのを我慢して、一呼吸置いてから教えられたようにスプーンやフォークを握るのだ。零さぬように口に入れるクラムチャウダーはまだ熱いのだろうが構わず飲み込んで、飲み込みながら次のパンに手を伸ばす。火傷に気をつけて冷ますという行為を知っているにも関わらず、空腹を抱えて目覚める朝はマルコにそれを忘れさせてしまうのだ。
(なんだろうなぁ)
 パンを干切る親指は、やはり赤い。指の付け根から皮膚をつけ変えたように色を変えているそこに意識を向けながらサッチは冷めかけたコーヒーでパンを流し込む。その赤い指を、マルコの舌がパンくずを追ってぺろりと舌で舐めた。クロコダイルが目の前に居る時には絶対にしなくなった行儀の悪さに、サッチは胸の中で合点がいった、と手を打った。


「やっぱりだ。ほら、おまえのせいだぞこれ」
「知るか」
「お前が『お父様』だろうが。どうにかしてやれよ」
「やめねぇか、マルコが起きちまわぁ」

 本人は声を顰めたつもりなのだろうが、十分に大きい白ひげの声に、甲板に丸まったマルコの体がぴくりと動いた。けれどもしばらくするとまた静かな寝息をたて始め、ちいさな唇を動かす。ちゅ、ちゅと音を立てて吸っているのはあの赤くなっていた親指だ。起きているときは出なかった指吸いの癖に、マルコは自分でも気がついて居なかったのだ。
 宴に湧く甲板。白ひげの足下に丸まったマルコを見て、ぐるぐるカールの船医が赤い顔で我が船長を見上げる。彼もまた、マルコが船に乗った日からマルコをずっと見ていた一人だ。
「大方母ちゃんのおっぱいもろくに吸わないうちに引き離されたんだろうさ。安心させてやりゃそのうち直る」
「具体的には?」
「ナースどものおっぱい吸わせてやるわけにゃいかんしな。ほら、抱いてみろ」
 船医が促すのを無言で拒否したクロコダイルに中指を立て、サッチがマルコを両手ですくい上げた。マルコの耳を心臓に押しつけるように横抱きにして揺すると、口から抜け落ちた指は戻ることもなくマルコの腹の上に落ちる。僅かに重くなったマルコの体は、完全に深い眠りに落ちたことを意味していた。
「赤ん坊はおっぱい吸いながら母ちゃんの心臓の音を聞いて、腹ん中に居るときを思い出して安心するんだ。だから抱っこされなかった子どもはいつもどこかで不安になって、でかくなってもそれを引きずる。要は、たくさん抱っこしやがれってことだ、わかったか」
「だとよ」
 あからさまに責められたクロコダイルだが、そこで諾々とマルコに手を伸ばすような性格ではない事くらい皆承知の上だ。半分に減った葉巻をくゆらせながら二番隊の輪に戻って行くのに舌を出して、サッチは船長命令により、ぐにゃりとして暖かい子供を白ひげに差し出した。「オヤジの心臓の音はでかすぎて、マルコがびっくりしちまう」と言えば、白ひげは「母ちゃんが100人居る夢でも見てると思うさ」と、今度こそマルコが目覚める程の笑い声で船を揺らした。


 その日から、マルコの親指は段々と赤みが薄れ、他の皮膚と変わらない色にまで戻って行った。サッチは普段通りにスキンシップをとってはいたが、いつもより過剰にしていたわけでは決してない。マルコが眠りについているその時間に、不安を打ち消すような心臓の鼓動が、ちゃんと聞こえているのだろう。
 騒がしい朝食の席で、カップに満たされたミルクをこぼさぬように、マルコは慎重に喉を鳴らしていた。母親の乳房を触れなかった小さな指が上手にミルクを傾けて、飲みきったマルコがぷは、と満足げに息を吐く。鼻の下に生えた白いひげを見ながらサッチはよくできました、と微笑んだ。ちいさな白ひげの横に座っているでかい男が、僅かに唇を緩めたの、を今日だけは見ない振りをしてやりながら。




2011/08/25

お父様と母ちゃんと、お爺ちゃん。

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