だいこん れんこん へいほうこん 5




 翌日の日曜は現実的な休日出勤だった。そして月曜日
 目が覚めた時から嫌な予感はしていたが、案の定昼前には倦怠感が全身を襲い、昼食は栄養剤と部署に常備してある風邪薬、かろうじてゼリー飲料だけは胃に流し込んだ。ここ一ヶ月、夕食だけでもまともな物を食べていたはずなのにと自分の体の脆弱さに辟易した。
 エースと会ったあとに風邪を引いたなどと言えば、エースは気にするだろう。エースがいざよいに出勤する時間に「仕事が遅くなるので今日は行けない」とメールしよう。急がない仕事をとりあえず効率を無視して後に追いやり、早く帰って寝るために昼休憩を短縮して机に戻った。
 
『まだ仕事中ですか?根を詰めずに、休めるときは休んでください。あしたはマルコさんの好きなふろふき大根があります。楽しみにしていて下さいね。そろそろおでんもしようとイゾウさんも言っています。』



 枕元に裏返っていたスマートフォンがちかちかと光っていた。朦朧としながら画面を開き、エースが味噌を練り合わせて、熱々の大根にゴマの利いたそれをかけてくれたのを思い出し、嬉しくて笑おうとして、マルコは自分の状況を把握した。あまりの顔色の悪さに定時退社のマルコを止めるものはなく、電車の中でエースにメールして、病院はとっくに閉まっていたので、ドラッグストアで薬とスポーツ飲料とゼリーを買って帰った。スーツを脱いで、アンダーシャツだけになって布団に潜り込んだのがたしか19時頃だ。スマートフォンの時計は日付を超えた一時を表示していて、随分と眠った筈なのに体は泥が詰まっているように重かった。薬に荒れたのか、胃がシクシクと痛み、熱は計らなくても微熱では無いと断言できる。朝には治るかと期待していたが、これから悪化するのは間違いない。
 もう救急車のお世話になるのは御免なので、這うようにして服を着替え、財布と保険証を並べて体温計を出し、もし39度を超えていたらタクシーを呼んで夜間救急に行こうとエースのメールが開きっぱなしのスマホを抱えた。体温計の電子音が鳴り、数字を見た瞬間に一瞬意識が飛ぶ。何度見ても数字は39度8分で、マンションの下に辿り着くまでに死ぬんじゃなかろうかと心細くて仕方がなかった。
 中年で独身で、しかもゲイで、近くに呼び出せるような友人もいない。こんな所で冷たくなるなんて、あまりに惨めだ。
 エレベーターに乗り、エントランスに座り込んでタクシーを待っている最中に手の中で何度もスマホが振動していたが、メールを開くのも億劫で、握りしめたまま飛びそうになる意識を堪えていた。
 いつも利用するタクシー会社の運転手に抱えられるようにして乗り込み、窓にもたれかかって一瞬だけ眠っていたらしい。マルコは手の中で振動するものに、つい条件反射でパネルを押していた。

『マルコさん?ごめんなさい、仕事中なら留守電に入れようと思って……あの、もう終わりましたか?』

 電話から聞こえるエースの声に、もう2度くらい体温があがった気がした。返事をしないマルコに、エースが聞こえないと思ったのか何度も話しかけている。

「エース……」
『聞こえます?……マルコさん!?声どうしたんですか、大丈夫ですか!?』

 大丈夫じゃない。全く大丈夫じゃなかった。
 耳に流れこんできたエースの声に、マルコは今にも泣き出しそうになるのを抑えて、途切れ途切れに説明する。風邪で誤魔化せて、本当によかった。
 どこにいるんですか、タクシー?その近くならK病院ですか?大丈夫、明日は昼の仕事はお休みなんです。迎えに行きます。遠慮なんてしないで、一人にしたくないんです。絶対行きますからね。

 通話の終わったスマホを抱いて眠っていたマルコを運転手が遠慮がちに揺り起こし、代金を払って降りようとしたマルコがまともに立てないのに手を貸してくれた。長身のマルコは重く、ふらふらと運んで座らせてくれた運転手にソファで頭を下げた。忙しそうに走り寄ってきた看護師に体温を告げると「早めにお呼びしますから」と診察室へ戻っていった。マルコの他には如何にも救急でなさそうな若い女がだらりとソファに寝そべって携帯をいじっているが、腹が立つことはない。なんたってエースが迎えに来るのだから。
 大人の理性的な思考は、熱で大分溶解されてきたらしい。若い女の前を看護師二人掛かりで抱えられて連行され「風邪と軽い胃腸炎ですね」と点滴を刺された辺りで、冷えてきた頭がようやく動き始めたと同時に走って逃げ出したい心持ちになった。
 若い男に優しくされて泣きそうになって、挙げ句にかけまいと思っていた迷惑を思い切りかけてしまっている。点滴が終わるまでの一時間は一瞬で、針を抜かれて追い出された待合い通路には着物のままのエースが心細そうに腰掛けていた。

「……マルコさん!タクシー呼びますね、まだ座ってて下さい」

 ぱっと顔をあげたエースに力強く肩を支えられ、茶色のビニールソファに座らされた。点滴で大分楽になったと言おうとしたのだが、座ってて下さいと念押しして、エースは急ぎ足で外まで電話をかけに行った。触れられた腕に力強いエースの腕の感触が生々しく残り、重い段ボールもぶれることなく運んでいたあの時の後ろ姿を唐突に思い出した。
 薬もエースが受け取り、明細も処方箋も畳んで薬袋に入れてくれた。押し込まれたタクシーで自宅の住所を告げたと同時にまた眠り込んでしまい、次に目を開けると見覚えのある窓の外と、エースの心配そうな顔があった。同じように支えられ、けれど幾分安定した足取りでエレベーターを使って部屋へあがる。マルコが鍵を開けて、エースは「おじゃまします」と小声で言いいながら靴を脱ぐのを支えてくれた。
 ベッドに辿り着くまでに、部屋の惨状はあます所無くエースの目に飛び込んだだろう。食器のあふれる流し台、かろうじて口だけは縛ってある生ゴミの袋、埃まみれで使用した形跡もないテーブル、クリーニングから帰ってきて外した衣類用ビニールの山。寝室だけは空気清浄器が動いているので幾分マシ、その程度。
「……酷いだろい」
「うん。ザ・男の一人暮らしって感じ」
 否定しかけたのだろうが、あまりの汚さにエースは素直に頷いて、マルコの着替えを手伝ってくれた。乾燥機から取り出してそのままな洗濯物の山の上からシャツをとり、スウェットにはきかえる。そういえばこの羽毛布団のカバーもずっと換えていない。
 枕元に床に転がっていたスポーツドリンクと薬を並べるエースに「もう平気だから帰っても良い、昼も仕事をしてるならお前だって疲れているだろう」と言うべきだと思う。だがそう思っただけでマルコの口はぴくりとも動かなかったし、布団の上に置かれたエースの手の重みが嬉しくてやっぱり泣きそうだった。中年になると、涙もろくていけない。
「寝ていいよ、マルコさん。キッチン使っていいなら、明日はおかゆを作ってあげる。この近くにコンビニある?鰹節くらい売ってるといいんだけど」
 暗に泊まるとエースは言っている。けれど、マルコはそれを拒絶する事は出来なかった。だって、エースが居てくれるというのだから。居てほしいのだ。エースに。
 眠気と戦いながらぐるぐると考えていると、瞼の上に大きな手がふわりと乗せられた。
「何も気にしないでいいから。だっておれ、弱ってるマルコさんに今ならつけ込み放題とか思ってるしさ。電話したことなかったけど、声聞きたくなって、凄い緊張しながらかけたんだよ?勇気出して本当によかった。マルコさん……風邪治っても、もっと優しくさせてよ。おれ、出来たらマルコさんに毎日味噌汁を作ってあげたい位なんだから」
 エースの味噌汁。いりこのワタを丁寧に毟った出汁に秘密の割合の鰹と何か。なめこも好きだけれども、やっぱり大根がいい。
「……うん、大根入れるよ。でも毎日は飽きるから、週に一回ね。そしたらその日をとても楽しみにするようになるでしょう?」
 頭の上の、遠い場所でエースの声がする。自分が何を喋ったのかはもう認識出来なかった。体は辛いくせに、兎にも角にも、ふわふわとしていい心地だった。




 いざよいに行けたのは、十月五日だった。あの後丸一日寝込んで、今日の午後にようやく出社したのだ。(病院に行った翌日、出勤時間に起きてしまったマルコにエースは「はい、会社に休みますって電話」とマルコのスマホを有無を言わさずに握らせた。あの日の朝に食べた白粥とたまねぎの味噌汁は、言葉に出来ないほどにうまかった。)
 イゾウは相変わらず紅の引かれた唇をニヤリとつり上げて「うちの店員に風邪うつしたら出入り禁止にしようと思ってたぞ」とのたまったので、エースの体が丈夫で本当によかったとマルコは安堵した。
 まだ脂のノリが悪いなぁといいつつ出してくれた鯖の塩焼きは十分に美味くて、半身はゴマと葱で鯖茶漬けにしてくれた。もうそろそろ本調子の胃はこの店の味を恋しがっていたので、茶漬けの温さも相まってマルコはほっこりとした心持ちになった。

「マルコさん、食べたらちょっといい?」

 裏口を開けながらエースがちょいちょいと手招くので、マルコはまだ多少重いからだをどっこいしょと動かして表の引き戸を開けて出た。後ろからイゾウの「おっさんになってまぁ」という声が聞こえたが、元からおっさんなので気にしない。エースがこんなおっさんでいいと言うのだから、こんな感じでいいのだ。
 裏口から少し離れた、シャッターの降りた煙草屋の横でエースは待っていた。胸の前で組まれた指が洗い物をしていたせいで少しだけ赤く湿っていて、それを跳ね橋のようにぴこぴこと動かしている姿が可愛くて、マルコは笑みを浮かべながら「なんだよい」と首を傾げて見せた。

「あのさ、まだマルコさんの食べ物以外の好きなものがわかんなくて、色々考えたんだけどやっぱり決まらなかったから、押しつけるみたいなのは嫌なんだけど」

 要領を得ないエースの様子に、マルコは余裕ぶって言葉の先を待った。実際胸の中はアニメじみた教会の鐘の音だとかクラッカーがパーンだとか、とんでもないことになっていることはエースには決して見せたくない。そんな無駄なプライドも抵抗も、全くの無意味だとその後マルコは諦観の境地に達するのだが、この時は、まだ。

「勝手に保険証見てごめん。メールにしようと思ったんだけど、やっぱり直接言いたくて。マルコさん」

 誕生日、おめでとう。
 冷たいエースの両手の中で、マルコの手は熱がぶり返したように、急激に温度を上げた。

「よかったら、おれの大根の味噌汁を飲める権利、貰ってくれませんか」

 エースの顔が鼻先が触れるほどに迫り、赤らんだ目元を飾る可愛いそばかすと、それに不釣り合いな男らしい切れ長の目がマルコの視界いっぱいを支配した。壊れそうにうるさい心臓の苦情を無視して、マルコは強くその手を握り返した。

「もう少し、ねだっていいかい」
「いいよ、なんでも!」

 今にも飛び跳ねそうなエースが、夜のネオンにも負けぬほど顔を輝かせた。マルコも負けずと照れくさそうに笑い、握りしめたエースの指先を、親指の腹で強く擦る。イゾウが見たら、「なにもじもじしてやがる、気持ち悪い」等と暴言を吐くだろう。あの男は慣れてくると全く遠慮がなくなるのだと気がついたのは最近だ。

「出来れば毎日がいいよい」

 一瞬だけ息をのんだエースが、涙ぐんだまま「大根は週に一回で」とはっきりと却下したので、マルコも笑いながら「泣き落としするよい」とエースの広い肩を、初めて抱きしめた。着物にはエースといざよいのいりこ出汁の香りが染み着いていて、本当に泣き出してしまいそうな、幸せの匂いがした。
 マルコの背中にまわったエースの手が置き場所を探すように動いて、首の後ろをそっと支える。煙草屋の影に引きこまれて、秘密を打ち明けるようにエースがマルコの額に、自分のおでこをピタリと合わせた。

「お返しも、貰っていいですか……?」

 いくらでも。すきなだけ。
 そんなマルコの返事は、約束の一ヶ月を待たずして、エースの唇に吸い込まれた。

 
 




2011/10/05



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