だいこん れんこん へいほうこん




 太陽の光が届く時間に会社の外に居るという事実を認識するまでに、歩き始めて十分程度の時間を要した。帰宅ラッシュにぶつかった駅前の通りを、皆何かに追われるように急いで駅の方角へと流れて行く。
 マルコもその流れに押し流されるように、けれども岩に引っかかって流れを阻害された木の葉のようにゆるりと歩を進めた。目の前の中年の女性が持つスーパーの半透明の袋からは、有名な豆腐のパッケージと挽き肉が覗いていて、今日の夕食は麻婆豆腐かなとぼんやりと思い描いた。
 夕食。このまま家に帰っても作ってくれる人等いないし、買い物をするために店にいくのも、メニューを考えるのも、作るのも億劫だった。学生時代は多少していた自炊も、勤め初めて十数年、数えるほどしかしていない。
 そもそも自分が空腹かどうかがよくわからなかった。一度体を壊してから、なるべく三食食べるようにはしているが、仕事中に口に押し込むようにして食べるコンビニのサンドイッチや総合栄養食のビスケットが体に良いかと聞かれれば、そうでない事くらいはマルコだって知っている。

「お疲れさま!」

 よく通る大きな声に、いつのまにかうつむき加減になっていた顔を上げると、それは声の主から自分にではなく駐車違反になることを警戒しながら荷物の積み卸しをしている大柄な男に向けられたものだった。マルコがついその青年に目を引かれたのは、彼の出で立ちのせいだった。紺色の着物(マルコは浴衣か着物かの判別は出来ないので着物のような形の服は全て着物と呼んでいる)の裾を端折り、白い股引を覗かせた足下は下駄。190センチに届きそうなマルコと大差ない長身で、二十歳くらいの青年の頭には店名らしきものが書かれた手拭いが巻かれている。下ろす荷物には野菜の絵柄があり、飲食店に勤めているのだろうと察しはついた。着物だし、和食の店だろうと安直に考えたところで、マルコは胃の中にパンパンに膨らんだ風船が詰め込まれた気になった。
 和食、味噌汁。最後に飲んだのはいつだ?会議室から5時間も出られなかったマルコを憐れんだ経理の女性が入れてくれたインスタント、そうだ、あれだ。顆粒の出汁の味がいつまでも舌に残った。そうでないものは?駄目だ、さっぱり思い出せない。
 マルコの亀のような歩みの横で、青年はてきぱきと段ボールを台車に積んで行く。大きな店では無いのか、一箱は小さめで数がある。馬鈴薯、ニラ、白菜、人参、牛蒡。それらを使って料理されるもの。
 ぷしゅん、と胃の中の空気が抜けた。

「うわっ!!」

 ガタン、と何かが崩れる音がして、振り向いたマルコの足下に黒い何かがごろごろと転がってきた。反射的に靴の側面で止めて、止めきれなかったものを手で掴む。先ほどの青年が崩れそうになった段ボールを体を張って支えていた。

「ありがとうございます!すいません、台車の足が外れちゃって」

 段ボールを平行に置き直し、青年が頭を下げながらカラコロと走り寄ってきて、マルコの足下の黒いものを拾ってビニール袋にそれを入れ、ニッコリ笑って手を差し出した。

「……煮っ転がし」
「え?」

 問い返され、それを手にしたままだったマルコが「あ」っと間の抜けた声を発した。慌てて青年の手に黒々とよく太った里芋を押しつけて手の土を払う。何を言ってるんだと我に返った時既に遅く、青年はそばかすの散った目元を弛め、肩を揺らしていた。同時に空気を読まないマルコの腹の虫が鳴って(ここ数ヶ月鳴った覚えなどないのに)彼は失礼と思ったのだろうか、声を出さないように必死に耐えていた。
 「よかったら」と笑いに潤んだ黒目で真っ直ぐにマルコを見ながら息をつき、彼は言った。

「うちの店で晩ご飯、どうですか。よく味のしみた煮っ転がしがあります。飯ももうすぐ炊きあがるし、今日は太刀魚も秋刀魚もいいのが入ってます。もし、お嫌いじゃなければ」

 あんな事を呟いておきながら、嫌いだなんてどの面が言えるのだろうか。あっちの奥の小料理屋なんですけど、と彼が指し示すのに、マルコは普段の会議中の饒舌っぷりもどこかに落としてしまったように「じゃぁ」ともう一度間の抜けた返事をした。



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