夜の虹 6




 カラーやパーマの時にお客に出すためのコーヒーメーカーはサッチが悩みに悩んで購入したちょっと値の張るもので、単純な構造のくせに安い豆でもとびきり良い香りの黒い液体を注ぎ落としてくれるそれを、エースはサッチと同じように愛していた。(お客に出す豆は、エースが使うときよりもいいものだ)
 月曜日と第三日曜日が店とサッチの休日で、その数少ない日曜に合わせて、優雅でたっぷりとした口ひげを蓄えた紳士然とした男がやってくるのはもう見慣れた光景だった。

「はい、ビスタ。サッチ、なんか領収書が足りないとかでちょっと待ってくれって」
「ありがとうエース。またあいつは……」

 口髭の紳士、ビスタは「また背が伸びたか?」と微笑みながらエースを見上げた。ビスタはサッチが店を出した時からの顧問税理士件お目付け役で、この美容室が入っているアパートの大家兼不動産屋の白いひげの老爺の古い友人でもある。

「普段は几帳面なくせにどうして毎回何か失くさずにおれんかな」
「それが不思議だよね」

 ビスタとはエースが子供の頃からの顔見知りで、叔父と甥のような気楽な関係である。サッチが来るまで、とエースはサッチの使うカット用の丸椅子に腰掛けてビスタと向かい合った。食器や衣類など、家事整理全般はとても几帳面なくせに、サッチは大事なメモや領収書等をぽんぽんとそこら辺に置く悪癖があり、気がついたエースが箪笥の一番上の引き出しに全て仕舞いこんでおく事で紛失を阻止しているのだ。(ポケットに入れたまま洗濯をしてしまったことも数知れない)何でも出来るようで抜けている、そんな所もサッチの魅力の一つだとエースは盲目的だとわかっていてもそう思っている。
 学校の近況を聞かれ、他愛のない話をしながらこう云う時にしか飲めないコーヒーを啜る。砂糖とミルクを入れないと飲めなかったエースに「大人の苦味」を教えてくれたのもビスタだった。

「そういえば、マルコは見つかったんだってな?」
「あ…うん」

 それはよかった、とビスタが質問を投げかけたところでバックヤードの扉が開き、髪を後頭部でざっくりと結わえ、サンダルをつっかけたサッチが入ってきた。

「悪ぃビスタ!」
「きちんと前日までに用意しておかんか馬鹿者め」

 コーヒーを見て、サッチは「ありがとな」とエースに礼を言いながら席に着いた。経営者と税理士となった二人に「ううん」と手をあげて、エースはサッチの入ってきた扉から店を出た。



 マルコの名前の載っていた雑誌の出版社は当然見ず知らずのサッチに居場所を教えることはなかったが……サッチの鬼気迫る勢いとマルコに身内が無く、しかも一切こちらに連絡がない旨を告げると、同情かはたまた面倒だっただけなのかは不明だが、同行のライターに連絡を寄越すように計らってくれた。
 出版社から連絡がきたのは、つい二日前だ。山岳地の村へ向かう際にマルコは山道を滑落し、足の骨を折った。その際に携帯を紛失し、衛星回線でなければ電波の届かない地域で現地の病院で手当を受けていたらしい、とマルコよりあとに合流する予定だったライターからの連絡だった。
 マルコが怪我をしていた事に顔色を変えたサッチも、来週には帰国するとの報を受け、ライターにマルコへの伝言を言付けてようやく日常に戻った……ようだった。


 
(サッチ)

 電気の消えた美容室の二階は、エースの隠れ家であり、救いだった。サッチは店をオープンさせる前は今のエースの部屋に住んでいて、喧嘩で怪我をしたり、預けられていた保育所から脱走したり、当時の保護者であった頑固爺のガープに反抗して家出を繰り返したエースをいつでも迎え入れてくれた。

(サッチ)

 シャンプーをしてくれる時に耳をかすめる大きな手、いくら背が伸びても「チビ」とからかってくる子供みたいに意地悪な口元、若気の至りで出来たらしい目元のちょっと怖い感じの――でも笑うと目尻の一部が盛り上がって少し可愛く見える――傷、染み着いた煙草の臭いを抑えるためのコロン、熊みたいに逞しい胸と腹と首と、そのくせ器用な指先。

「……さ、ち」

 ぼろりと枕に滴を、手のひらにはどろりとした粘液を馬鹿みたいに肩を上下させて、吐き出した。
 マルコが無事で良かった。でも同じだけマルコが居なくなればいいと、本気で思った。マルコがいなくたって、自分に一つだって可能性が無いのもわかっているのに。今ならば、マルコの選んだ道が理解できる。だって、こんなにもサッチが欲しい。欲しくてたまらない。けれどもエースはもうあの時のように、真っ直ぐにサッチの目を見て「サッチとずっと一緒にいたい」と幼く頑なな願いを押しつけられる程の年齢をとっくに過ぎていた。
 枕元の携帯が振動して、チカチカと光っている。色分けされた着信ランプは、大学の友人のものではない。
 布団を頭から被り、精の臭いが籠もる生ぬるい空気の中で、エースは声を殺して泣いた。





2011/07/31

次回(多分)マルコとサッチのターン

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