夜の虹 5




 日常生活という地面の真下で、サッチの怒りは溶岩のようにゆっくりと、けれども冷めやらずに流れていて、エースはいつ噴火するのかと毎日気が気ではなかった。
 あの次の日、マルコはサッチの家を出ていった。
 借りていたサッチの大きなシャツは、マルコが寝込んでいた布団の横に不器用に畳んで置いてあった。クレジットカードやパスポートの入ったウエストポーチ、貴重品をまとめて持ち歩くなと散々怒られて持つようになった内側に隠し収納が着いているデイバッグ(マルコは二度も盗難に遭っている)と今の仕事用のカメラバッグを持って、今すぐにどこへでも行ける身軽さで、マルコは居なくなった。
 携帯は繋がらないし、留守電のメッセージ等マルコが確認している所を見たことが無いので意味はない。
 エースはマルコがどこへ行ったかと、もちろん訪ねられたが、知らないと首を振った。嘘ではなかった。嘘の下手くそなエースの様子に、サッチは何か気がついていたのかもしれないが、それ以上は何も聞かれなかった。破裂しそうな動悸を隠して自分の部屋に戻ると、サッチがどこかに電話をしている声が小さく聞こえた。多分、ベイやマルコの友人たちに。
 
 年が明け、エースの受験合否が出ても、マルコは帰ってこなかった。




「サッチ、髪切って」
「おぅ、七三分けにしてやる」
「七三って!」
「由緒正しい入学式の伝統だろ」

 最後のお客がカットのみだったおかげで、営業時間の20分前に店内はサッチとハルタ、エースだけになった。ハルタがロットを洗いながら「時代が一巡して格好いいかもよ」と茶化してきて、エースはそばかすの浮いた鼻の頭に皺を寄せた。
「まぁ軽いジョークとして、女にモッテモテになるようなイケメンにしてやるよ」
「普通でいいんだよ!いつも通りで」
 鏡越しにサッチが例の犬みたいにくっひっひとかぐふふとか、妙な笑い声をたてながらそれでも鋏を持つ時だけは真剣な顔になって、湿らせたエースの髪をダックカールで持ち上げて留め、耳の横で軽快に刃を鳴らした。
 マルコからは、連絡も来ない。あんなどうしようもないマルコでも、一月に一回はメールの返事や電話があったのに、それすらも無くなってそろそろ4ヶ月が経とうとしていた。二ヶ月目までは、電話は通じていた。けれども最近は常に電源が入っていない状態らしく、日課のように朝昼晩と電話をしても繋がらない。なにも知らないサッチがどれほど心配しているか、エースには痛いほど理解できた。
 二ヶ月目までは、エースにだけはメールが来ていた。見たらすぐに消すようにと書いてある通りに、すぐに消去した。けれどもそこから先の事はエースにもわからず、不安はふとした瞬間に訪れる。マルコに何かあったかもしれないと。
 襟足を切り終えたサッチがドライヤーを手にした所で、乾燥機待ちをしていたハルタが「あ」と声をあげた。
「どうした、柔軟材入れ忘れたんじゃねぇだろな」
「違うって。すげぇよおれ、マルコ見つけた」
「は!?」
 ドライヤーを置いたサッチが、ハルタの手にしていた客用雑誌をひったくる。髪の毛まみれのエースも立ち上がってのぞき込んだその記事には、チベット周辺らしい少数民族の写真が載っていて、ハルタの指す記者の名前の横にはマルコの名前が確かにあった。
「サッチ」
「悪ぃ、ちょっとあと、まかせた」
 雑誌を持ったまま、サッチがバックヤードから財布を掴んであっという間に出ていってしまい、取り残されたエースはケープをかけたままの姿で立ち尽くした。
「……エース、見習いの仕上げでよけりゃ座りな」
 ぽん、と軽く背中を叩かれて、エースはふらりと椅子に座りなおした。生乾きの髪をハルタが乾かし、バランスを整えてくれる。もうそろそろ独立するハルタの鋏も、とても器用に動く。サッチのように。
「髪が目に入ったか?下手でごめんな」
 梳いた髪を指で祓いながらハルタが謝るのに、ううん、とエースは首を振った。差し出されたタオルには整髪料が山のように着いていて、余計に目に滲みて、痛かった。




2011/07/05

 

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -