REUNION 10




 クロコダイルはマルコを連れて、沢山の店に入った。雑貨屋、本屋、シガーショップ(煙草と葉巻の違いをマルコは初めて知った)、リストランテにも入った。マルコは毎日サッチやイーレイに食べ方を教わっていたので、新しい服も汚すことはなかった。それよりも、クロコダイルがずっと一緒で、船ではあまりなかった一緒に食事をする機会が得られて嬉しかった。両手が塞がらないリュックサックには沢山の本が入っていて、盗まれないようにサッシュベルトの中に仕舞い込んだ繋いだ財布の中にはマルコが使って良いお金が入っている。今日買ったものの殆どがこれからマルコが使うもので、マルコは嬉しくて仕方がなかった。
「クロコダイルはたくさんの国の言葉が書けるってイーレイがいっていたよい」
「ああ」
「この本を覚えたら、おれも他の国の言葉を覚えたいよい」
「そうしろ。その時はまた本を買ってやる」
「……クロコダイルが、教えてくれる?」
「それを全部覚え終わったらな」
 クロコダイルがちゃんと返事をしてくれて、次の約束をくれた。マルコは今すぐに頬ずりしたいような浮かれた気分になった。 
 クロコダイルと二人きりで過ごすのは、今日だけだ。いくらマルコが街に居たいと考えても、白ひげに関わる子供は狙われやすいからとサッチと当の白ひげも口を揃え、マルコもあまりクロコダイルにまとわりついて鬱陶しい子供だと思われるのは嫌だった。それに、大人の男が夜になって何処に消えて行くのかはわかっている。上陸前に、たくさんの男たちがいい女が、とか、どこそこで買う、という言葉を口にしていた。女だけでなく、人間を買うという行為は当たり前の事だとマルコは認識していて、白ひげの船の男たちは女を買っても酷いことをしないのだとマルコは思っている。船にはたくさん女が居たが、誰も鎖を付けられていないし、マルコにも優しくしてくれて、服だってくれた。クロコダイルがあんな行為をするのかと想像したら少しだけ胸がちくりとしたけれども、大人の男は皆そうなのだと思い直してちくりとしたところを気にしないようにした。
 山のようになった荷物は配達屋を捕まえて船へ送った。行き先を聞いた配達屋は怯んだが、海賊の多いこの時勢、海賊も客は客だ。多めの金を握ってやる気を出した男は、まかせておけと胸を叩いて馬を走らせた。馬までもが「まかしときな!」と鼻を鳴らしたのでマルコは驚いてその牝馬を見送った。「馬が喋ったよい」とクロコダイルに告げると、クロコダイルは少しだけ眉を動かしたがすぐに「動物系だからだろう。おれには聞こえねぇ」と云い、クロコダイルに出来ないことがあるのかとマルコは驚いた。もしかすると今まで通りがかったカモメや他の鳥の声も本当は聞こえていたのかもしれない。けれどもその時マルコには聞く余裕もなかったのだ。
 夕食時には船で滅多に作れないから食べて見ろとサッチに云われた通りにアイスクリームを食べた(サッチはクロコダイルにしつこいほどにちゃんと注文の仕方も教えてやれと云っていた)。白い氷菓は冷たくて甘いミルクの香りがした。その味は衝撃的で、サッチが最初に出してくれたホットカスタードクリームと対極の温度だった。クロコダイルはやはり赤いお酒を飲んでいて、その綺麗な色は気になったけれども、ラムを舐めてみたときの強い味を思いだし、やはり大人になってからにしようと思った。
 船にいるときよりも早い時間なのに、満腹になったマルコはとても眠くなって来て、クロコダイルのコートを掴む手も外れそうになって慌てて掴み直す事を繰り返した。辺りはすっかり日が落ちてもう星も出ている。こんな時間にクロコダイルとはぐれるのはとても怖いことだ。必死で落ちそうになる頭を擡げて歩いてようやく宿に辿り着いた時にはもうマルコは半ば意識がなかった。折角クロコダイルがいるのに、ふたりだけなのに、眠ってしまうのはとてももったいなくて嫌だったけれども、マルコの瞼は鉛のように重かった。
 知らない匂いのする宿のベッドに入るのが嫌で、マルコは新しいリュックサックも下ろさずにクロコダイルのコートを強く握った。それは初めてマルコが示したささやかな抗議だったが、クロコダイルは眠いなら寝ろといつもよりも香りの強い葉巻をくゆらせながらベッドを指しただけだった。
「……もうすぐ嵐が来る。今のうちに寝ていろ」
 雲一つない星空を見て、クロコダイルはそう告げた。彼は余計な嘘を云うような男ではない。マルコは渋々云われたとおりに服はそのままで、リュックを枕元に置いて横たわった。
「クロコダイル」
「何だ」
 一緒に眠って欲しい、とマルコは喉元まで声を出しかけて、おやすみなさい、とだけ告げた。彼が眠るには早すぎる時間で、彼は今日はマルコのために食事の時間もあわせ、この時間に街に出かけることもなくマルコと居てくれている。それでなくとも、今日はたくさん彼と話をしたし、これ以上は嫌がられるのではという不安に襲われた。胸の中にぽかりと穴があいて、そこにひゅおうと風が吹き付けたように冷たくなった。目を閉じてもあれほどマルコに押し寄せていた眠気の波は引き潮のように去って、閉じた瞼を更にぎゅうっと力を込めた。毛布もシーツも清潔なのに知らない匂いで、マルコは膝を抱えるようにして丸まった。
 どれほどか時間が経過し、ようやく訪れた眠気の波の中で、小さな風を頬に感じた。嗅ぎ慣れた煙の香りと共に、乾いて温かなものがマルコの頬に触れたのを、マルコは夢現で感じていた。



「起きろ、靴を履け」
 揺り起こされ、ガバリと飛び起きたマルコはすぐにその命令に従った。船の上で敵襲に際する身構えは教えられていて、クロコダイルの口調はいつもの落ち着いたものだったが、危険が迫っていることはマルコは肌で感じた。サンダルに足を突っ込み、枕元にあるリュックサックを背負った。窓の外はクロコダイルの云ったとおりに嵐になっていて、雨粒がガラスに叩きつけるように降り懸かっていた。クロコダイルは扉の前に立ち、マルコに窓を開けろと低く告げる。風圧で開きにくい窓を押し上げると、部屋の中には一気に風と雨が入り込んだ。マルコの心臓がバクバクと雨音のようにうるさく脈打っている。クロコダイルは強いが、マルコがいれば足手纏いになってしまうことはよくわかっている。クロコダイルの助けになる事は出来ないのだ。
 嵐の中でも、階段を上がってくる複数の足音はマルコにも聞こえた。雨に濡れる服がどんどん重さを増して、指先まで冷えきってゆく。飛べ、とクロコダイルが背中を向けたままマルコに告げたのと銃声は同時だった。マルコは大嵐の中へ飛び出し、消えぬ炎を纏う翼を懸命に動かそうとした。だがようやく飛べるようになったばかりの雛鳥の行く手を強い風が阻み、叩きつける雨は港の明かりを隠していた。船へ飛ばねば。マルコは流される体を立て直して風に流されまいと羽ばたく。港が見えれば降りて走ろう、それが一番早いと判断した。辺りは暗すぎて、風に流されたマルコには今ここがどの辺りなのかもわからなかった。
 海の向こうから轟音が響く。突如迫った突風の壁はマルコのちいさな体を容赦なく押し戻し、翼の意味を失わせた。あっと云う間に吹き飛ばされた幼い不死鳥は建物の屋根に叩きつけられた。コントロールを失った体が人のものに戻り、マルコはそのまま冷たい雨に体を晒して意識を失った。

 どれほどの時間を屋根の上で過ごしたのかはわからない。次にマルコが目を覚ました時には既に朝日が昇り、青い炎とともにマルコを照らしていた。マルコの失いかけた体温は悪魔が守ってくれていた。べたりと張り付いた服が重く、マルコは軋む体を起こして周囲を見渡した。周囲は気味が悪いほど静かで、嵐など無かったような青空が頭上にはあった。港へ行かねばならない。マルコは体を変化させ、屋根を蹴って舞い上がった。港はすぐに視界に入ったが、モビーディックの大きな体はどこにもなかった。全身に冷たいものが走り、マルコは首を巡らせて周囲を見渡した。海岸沿いにぐるりと飛んで見ても、船は見つからない。クロコダイルがどうなったのかもわからない。
 意を決して街外れに隠れて着地し、なるべく人に会わぬように昨日の宿へ向かった。宿の入り口は閉まっていて、昨日マルコが飛び出した窓だけがガラスの割れた状態で開いていた。辺りを警戒しながらそこまで飛んで中を見たが、クロコダイルの姿は無く、部屋にはガラスと羽毛と銃弾が散乱し、そして何故か床板の一部に穴があいて周囲が砂に変わっていた。
 もう一度地面に降り、マルコは街の中を早足で歩いた。どこかに顔を知っている二番隊の男たちがいるはずだと思った。けれども朝の商店は固く扉を閉め、海賊の略奪を警戒する島の住人たちは一人として外を歩いていない。マルコの不安は小さな体を壊しそうなほどに溢れ、苦しさにマルコはシャツの胸を握りしめた。新しいシャツも、足にぴたりとしたサンダルもとても嬉しいものだった。けれどもそれは、クロコダイルが買ってくれたから、あんなにも満ち足りたのだ。彼と会えなくなるのなら、もう何も欲しくはなかった。
 クロコダイルとはぐれるなよと云ったサッチの顔が浮かび、はぐれたら船へと云われたとおりに港へ飛んでも帰れる船は無かった。マルコはひとりきりで、掴んでも良いコートの裾はどこにもない。
 日が昇り切り、商店がちらほらと開き始めた。誰もマルコを気にする事もなく、日常を取り戻していく。
「おや昨日の…お父様はどうしました?」
 当てもなく歩くマルコは突然声をかけられて反射的に飛び退いた。だが声の主は昨日服を買った店の店長で、マルコが居るのはその店の前だった。昨日もクロコダイルに物怖じすらしなかった初老の男は、事情はわかるといった風に頷いた。
「もし行く宛がなければうちの店に来なさい。海賊の親を無くしたり捨てられたりした子はこの町には沢山いますから」
 マルコは返事もせずに、港へ向けて走り出した。捨てられたという言葉が何度も耳の中で繰り返されて、胸も息も詰まって、いつかのようにわあわあ泣いてしまいそうになった。けれども今ここで泣いたところで、抱きしめてくれるサッチも、無言でマルコの頬を撫でてくれたクロコダイルも、マルコを手のひらに乗せて楽しげに話を聞いてくれる白ひげも、だれも、だれもいない。
 息を切らして港へ着いたマルコを待っていたのは、やはり何もないただの海だった。けれども目を凝らすと、至る所に砲撃の跡や、火薬で焦げた石畳がある事に気がついた。嵐の中で、モビーディックは襲われたのだ。相手は勿論海賊であろうから、モビーは応戦しつつ出航してしまったのかもしれない。マルコがいない間に、二番隊の男たちも皆船に乗ってしまったのだ。
 マルコはこの場でぺたりと座り込んでしまいたくなった。けれどももしかしたら、敵の海賊はまだ島にいるかもしれない。マルコはもう二度と自分の運命も体も弄ばれたくなかった。
 モビーディックが戻ってくるのを待とう。そう決めたマルコは建物の影へ走り、また屋根へと飛んだ。あんなに大きな船が着港すれは、港の近くに居さえすればすぐにわかる。煙突の作る影に隠れ、港に体を向けて座り込んだ。
 日が真上まで登り、影は斜めに移動した。いつしか海へ太陽は半分飲み込まれて、長い夕日の道を作っていた。喉はカラカラに乾いて、中にはもう何も残っていない胃が痛んだ。風に乗って夕食時の匂いが運ばれて来て、たまらない気持ちになった。クロコダイルのくれたお金はサッシュの中にちゃんと入っていて、食べ物の買い方も昨日でわかっていた。けれども、マルコはここを動きたくなかった。
 すっかり日も暮れて、昨日と似た星空になった。こんなにも晴れているのに、クロコダイルは嵐が来ることを知っていた。マルコもそれを知りたかった。教えて欲しい事はまだたくさんあった。押し出されるように涙がぽたりとこぼれ落ち、マルコはそれを乱暴に拭って疲れ果てた体で煙突に凭れかかった。あてがなければ来なさいと云った服屋の店主の言葉が何度も浮かんではそれを振り払い、いつしかマルコは浅い眠りに落ちていた。
 骨が折れるまで殴られ、沢山の手が迫ってマルコの眼球を抉り出す光景を何度も夢に見た。涙の流し方はとっくに忘れていて、けれども喉は勝手に悲鳴をあげる。裸にされ、内臓のちぎれる音を聞きながら大きな大人のペニスを尻にねじ込まれ、床をかきむしった指からは爪が剥がれ落ちた。マルコは、何度でも殺せる玩具だった。死の臭いはいつでもマルコと仲良くしたがって、けれどもそれには手が届かなくて、触る事は出来はしなかった。
 触れなかった死の代わりに、優しい煙の香りを、大きな手の温もりをマルコは手に入れた筈だった。
 マルコが目を覚ますとそこは船の上なんかじゃなくて、少しだけ星の数の減った夜空の見える屋根の上だった。見渡す限りの真っ暗な海よりも、人の沢山住んでいる建物の上はずっと暗くて恐ろしい。
 耐えきれなかった。マルコはこれまでずっと耐えて来たから、もう辛さを諦める力は残ってなどいなかった。水気の失せかけた体から、砂漠の底から滲み出すように涙が溢れた。遠くから少しずつ、夜が明け始めた。港には見知らぬ小さな漁船が一つあるだけで、陽気な白鯨の顔は何処にもない。嗚咽しながら濡れた目をこするマルコの顔を、容赦なく太陽の光が照らした。ずっとここにいれば、死ねないマルコの体も干からびていつかは死んでしまうだろう。マルコが入ってはいけない海も、目の前にある。死にたくなどない。けれど、いつだって死ぬ準備は出来ていた。

「マルコ」

 風が吹いた。
 乾いた金の髪を揺らして、マルコは煙突に縋って立ち上がった。風の音を聞き間違えたのかもしれない、そう思っても探さずにはいられなかった。港から街へ続く道へ、数人の男たちが走っている。皆あちこちに見覚えある白い包帯を巻いて、口々に叫んでいた。
 一際目立つ背の高い男が、マルコの名を呼んでいた。
 マルコは転がり落ちるように屋根から飛んで、真っ直ぐに彼へ向かって滑空した。何度も何度も練習した。だから、今度は大丈夫だ。
 広げた翼に風を受けて速度を落としたマルコは、腕を広げて受け止めてくれたクロコダイルの胸の中に思い切り飛びついた。人の姿に戻ったマルコの背中は、大きな手がしっかり支えてくれた。クロコダイルの胸は、火薬と葉巻と、大好きな彼の匂いがした。

 マルコを探しに出た二番隊たちが集まり、口々にマルコに謝りながら頭を撫でてくれた。クロコダイルに抱かれたまま、マルコは船を守るために敵の海賊船と沖に出て戦っていた経緯と、嵐に乗じた略奪のとばっちりを受けていた事を聞かされた。嵐が治まっても波は荒く、小さなこの島の港へ巨大船を着けるのは困難で、先に二番隊だけが沖に取り残された漁船を借りて島へ戻ったのだという。分散していた隊の一つなら勝てると甘く見た海賊団は、今は海の藻屑になっている。
 港へ出ると、遠くモビーディックの船影がみえた。安堵感と疲労の中で微睡むマルコの隣で、子伝電虫を持ったイーレイが笑いながら白ひげと話しているのが聞こえた。”雨なのに隊長が外に出た”とか”鰐小僧の情操教育の成功”とはどういう意味なのか、ちゃんと覚えていて後で聞こうと思う。しばしの眠気を振り払い、クロコダイルの仕立ての良いシャツにしがみついて伸び上がったマルコは、彼に会えた喜びを伝えたくて、小さな唇を彼の顎に押しつけてから、夢も見ない眠りに落ちた。
 クロコダイルの表情を見なかった事は、とても残念な事であるのを知らぬままに。



2011/03/21






長い独り言のようなお話にお付き合いくださってありがとうございました。
当初は何話かで終わる予定が一番の長編になってしまったというオチでした。笑顔の鰐小僧は、そのうちどこかで見ることもあるでしょう。
気がつけば一番たくさんの感想を頂いたお話になっていました。私ももっと鰐とマルコの組み合わせが読みたいです!増えるといいなぁマルコと鰐!

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