REUNION 9




 窓から射す光はまだほんのり淡く、夜の明けきらないベッドの上でマルコは目を覚ました。隣には人の気配があり、毛布の隙間から黒い髪の毛がはみ出していた。クロコダイルが眠っているのを初めて目にしたマルコは、壁際をベッドを揺らさないようにそっと移動して足下からぺたりと床に降りた。靴を履いて、サッチが迎えに来ると云った時間まで練習をしようと床に紙を広げてもクロコダイルは身動き一つしない。結局サッチが迎えに来るまでクロコダイルは起きることはなく、マルコは「寝汚いうえに寝起きが悪い」という新しい言葉を覚えた。
 部屋には洗面用の水も洗面器も置いてあり、クロコダイルの背の高さに合わせてある台にサッチがマルコを抱えてくれて、マルコは両手で水を掬って顔を洗った。首の回りまで濡らしてしまったが、水だからそのうち乾くしこれも毎日の練習だとサッチは笑った。それから、この水を毎日換える事と、クロコダイルを起こす使命がマルコに課せられた。ベッドの上に座り込んだまま凶悪な目つきの、しかし全く目の覚めていないクロコダイルにサッチは勝手にクローゼットを開けて服を彼の頭の上に投げつけて「起きろ!」と叫んでいる。コートに覆われたクロコダイルのはみ出た右手に濡らしたタオルを渡すと、中で顔を拭いているらしくもぞもぞと動く姿が、普段の彼とのギャップがありすぎてマルコは少しだけ口元をゆるめた。
 クロコダイルの着替えは、まさに驚きだった。サッチの投げた服に文句を言い、ようやく目が覚めてきたのか、アスコットタイは白だとか、シャツは右から二番目だとか、サッチは「これも明日からおまえの仕事な」とげんなりとした様子でマルコに顔を向けて、クロコダイルにタイを放り投げた。その積みあがった服の中に、体の形をなくしたクロコダイルが一瞬で入り込んで着替えが終わった。マルコの目の前に立っていたのはいつもの彼で、翻るコートの後ろを、マルコは当たり前に、サッチはしかたなく着いて部屋を出た。

 甲板に出たマルコは物々しい雰囲気に戸惑ったが、中央の白ひげが手招くのにサッチとクロコダイルと共に従った。昨日のあの男は甲板には居ないが、処分は決定したと白ひげは集まる船員たちに通達した。
「マルコはもうおれの息子だ。家族に手をかけた奴をおれは許す気はねぇ」
 白ひげはマルコを手のひらにのせて掲げて宣言した。白ひげに息子になれと云われた時には意味も分からず、ただそう言われたからマルコは命令として受け取った。けれども今は少しだけ解って来た。白ひげの息子になるということは、この船に乗って、ずっとクロコダイルやサッチと一緒にいてもいいということで、白ひげを「オヤジ」と呼んで良いと言うことだ。
 マルコはその日ようやく名実共に白ひげの息子となったのだった。



 マルコは次の島に着くまでの間に飛べるように、毎日練習をした。始めに失敗した滑空からの停止、方向転換、そして何より大事な上昇。マルコが羽ばたく度に炎がきらきらとこぼれて、その姿はちょっとしたショーのようで、甲板上で働く船員たちはその姿を微笑ましく見守った。それと並行して、マルコは言いつけられた仕事も懸命にこなした。新入りの仕事であるトイレ掃除も嫌がらなかった。マルコにとって恐ろしいのは場所では無く悪意ある人間だ。たった数日で、甲板にマルコの小さな姿があるのは当たり前になった。食堂の隅でイーレイと向かい合って青い鳥の描かれた椅子で文字を習い、海図や必要な航海用語も熱心に覚えた。イーレイはたくさんの事柄を知っていて、分かりやすく教えてくれる。けれどもイーレイは、クロコダイルの方が本当はもっと沢山の知識があるのだと云った。彼はいくつもの国の言葉で書いてある文献を読めるし、話すことも出来る。自発的に教えてくれる事は少ないだろうが、マルコが聞けばちゃんと教えてくれるだろうと。たしかに今までクロコダイルが、聞いたことに答えてくれなかった事はなかった。そうイーレイに告げると、イーレイは嬉しそうに微笑した。イーレイはクロコダイルのことが、マルコと同じように好きなのだと、マルコにも伝わる笑顔だった。
 クロコダイルの部屋の隅には小さな折り畳みの机と椅子が増えた。夕食が終わると、マルコはきちんと体を拭いて、風呂のある日はシャワーを浴びた。サッチが一度支えて湯船に入れてくれたけども、とても体が辛くなったので、マルコはそれ以来湯船には浸からないように決めた。襲撃や異変に備える為の見張り役は、目の良いマルコも手伝えたので、航海に必要な事を実地で教わりながら仕事をした。一日動いた後はとても眠くて、マルコはクロコダイルが部屋に戻るまで起きていられなかった。起きていろと云われたことはないけれども、待ちたいとマルコは思った。けれどもいつの間にか眠ってしまった体は、朝目が覚めるとベッドの壁際に横たわっていて、クロコダイルが横にいる日も、居ない日もあった。マルコは彼と、話がしたかった。分からないことがあれば、クロコダイルでなくとも誰かが教えてくれるけれども、マルコはクロコダイルに質問したいわけでは無かった。クロコダイルと船員たちが話している姿は何度も見かけていて、彼はそんなときはよく喋って、笑う。それを見ると、マルコの胸の奥がきゅうっと縮む気がした。クロコダイルは、まだマルコに笑って見せてくれたことはない。サッチみたいに、抱っこをしてくれた事もない。マルコは、クロコダイルにとっての「気にいらねぇ」人間になりたくなかった。だから、最初彼が云ったように沢山勉強をしたかったし、清潔でありたかった。
 数日があっと云う間に過ぎ、見張り役が島が見えたぞ、と大声を張り上げた。
 約束してくれていた通り、サッチは島でする買い物のリストを作ってくれていた。衣料品、靴、日用品、それからマルコに必要な書物。マルコはそこに書かれているものの半分以上読むことができた。知らない物の名前もあったのでそれはちゃんと聞いて教えてもらった。
「いいかクロコ、間違ってもリスト店員に渡して”ここに書いてある物を揃えろ”なんて言うなよ?ちゃんと買い物の仕方も教えてやれ。おまえら、こいつら街で見かけたら注意してやってくれよ!」
 今回は留守番役で、マルコより二日遅れて上陸する予定のサッチがクロコダイルの口真似をして二番隊に頼むと、男たちはゲラゲラと笑いながら了承をした。クロコダイルも僅かに眉間に皺を寄せたが、それは了承の意味だ。上陸中、マルコは決してクロコダイルの側を離れないこと、危険があればすぐに飛んで港の船に戻る事を約束した。マルコは数日の飛行練習で危なげなく飛べるようになっている。もしはぐれて迷っても、同じく戻ってくるように。サッチはそう言ってマルコの頭をひとつ撫で、その手を掴んでクロコダイルのコートをしっかりと握らせた。身長差がありすぎて、クロコダイルの手を掴むことは無理なのだ。
「人混みは抱いてやれよ」
 サッチの言葉にクロコダイルは何も言わず、マルコは初めての島に緊張していて、コートをしっかりと掴み直した。沢山の知らない人間を想像して、少しだけ恐怖が戻って来たのだ。この船に乗る皆は海賊でお尋ね物で、陸の人間からみれば悪魔のような(悪魔というものはマルコや白ひげやクロコダイルの中にも棲んでいると聞いたのでマルコには怖いものだと思えなかったが、水に沈んだら死んでしまうのは悪魔のせいだとなんとなく考えた)人間らしいのに、マルコは外の世界を余りに知らない故に、かたちの見えぬ恐ろしさを感じていた。
 おおきな白いクジラが港に接岸し、タラップがおろされた。待ち切れぬ船員たちが歓声をあげて飛び降り、補給役の男たちは羨ましそうにその姿を見送った。マルコはクロコダイルの後を離れぬように、足早に見知らぬ街へ足を踏み入れた。

 街の中心にある商店の立ち並ぶ通りは、マルコの想像以上の賑やかさだった。途中まで一緒にいたイーレイも二番隊の男たちもその手前で別れて、マルコは街並みを見る余裕もなく必死でクロコダイルの後を小走りになりながら着いていった。けれども暫く行くと、こんなに人が居るのにもかかわらず、誰にぶつかりそうになることも無く歩けるのが不思議に思えて、マルコはようやくコート以外の景色を目に写した。クロコダイルが歩む先々で、クロコダイルを見上げた人々がさっと道を譲っているのだ。その目にはマルコの見慣れた怯えが見えて、皆クロコダイルを怖がっているのだとわかった。クロコダイルは背が高くて、顔に大きな傷がある。それが怖いのだろうか。それとも左手の鉤爪だろうか。マルコの恐怖の根底は人間の腹の中に棲んでいるものにあり、見た目で恐れるという感覚はわからなかった。
 まず連れて行かれたのは靴屋だった。店員たちは外の人間と同じように表情に怯えを見せたが、クロコダイルのコートの後ろから顔を出したマルコには困惑を浮かべた。どう接したらいいのか決めあぐねているのだ。クロコダイルはどこからどう見ても海賊か、そうでなくとも悪党の風貌で、その男が女物の古いシャツを着た子供を連れて着ているのだ。誘拐か、それとも強盗か、店員も判断に困ったのだろう。
「こいつの履ける靴を。冬島用のブーツも出せ」
 クロコダイルに睨まれた店員が言葉を忘れたように硬直し、ようやく「お客様」であることを理解して慌てて子供用の靴をありったけ在庫をかき集め出した。マルコには椅子が用意され、クロコダイルは戸口の見える位置に立った。マルコは指先のはみ出した底の殆どない靴を丁寧に脱がされ、沢山の靴を履いてみた。中でも網の中に足をくぐらせたようなデザインのサンダルは窮屈なところは一つもなくて、マルコはそれをとても「気に入った」。商売気を取り戻した店員が次々とマルコの足にあった靴を横に並べ、冬用のブーツはすぐに足が大きくなって履けなくなるでしょうと同じ物をサイズ違いで二足勧めてきた。伺うようにマルコと店員がクロコダイルを見上げると、クロコダイルは大様に頷いたので、店員はいそいそと靴を包み始めた。マルコの履いていた靴はどう見ても寿命を越えていて、店員はどれか履いていかれますかとマルコに問うた。マルコはさっきのサンダルが履きたくて、ちらりとそちらを見た。気の利く店員がもう一度それを履かせてくれて、足が大きくなったら横のベルトを弛めるようにと教えてくれた。サンダルを除いて四足の靴を包んだものをマルコは受け取り、クロコダイルが紙幣を差し出した。お金の価値は知っているけど、マルコは商品の値段というものがわからなかった。イーレイにもサッチにも「相場」を見て覚えろといわれていたので、値札もきちんと見ておいた。マルコのサンダルは4万ベリー、棚の中に沢山置いてある似た形の靴は2980ベリー。同じ靴なのに、どうしてこんなに値段が違うのだろうか聞きたかったが、クロコダイルはマルコの持っていた荷物をとりあげてさっさと店の出口に向かい、マルコは慌ててそのコートの後ろにくっついた。ブランド品、という言葉を教えてくれたのは、次に行った服屋の店長だった。
「フォーマルなものもご用意致しますか?」
 クロコダイルを見て臆することなく尋ねた初老の店主は、あっと言う間にマルコの告げた買い物リストのものを揃えて、フォーマルを知らなかったマルコにその違いも教えてくれた。自分でやってみろとメモを渡されて張り切ったマルコだったが、そのフォーマルなもの、の服は必要なのかはわからなかった。
「お父様が素敵なお召し物ですから、お子さまにもいかがでしょう」
 クロコダイルはお父様ではなかったけれど、彼が否定しないのでマルコも何も言わなかった。女性店員たちが次々にマルコに服を羽織らせ、クロコダイルのしているようなタイをマルコのシャツの上から締めて見せた。けれどもゆるやかに結ばれているはずの布なのに、首の周りが重くて苦しい気がして、マルコは思わず身じろぎしてタイを外した。女性が「お嫌いですか?」と商品を下げたが、フォーマルとはクロコダイルのしているような格好だと教わり、その格好のほうが「身綺麗」なのかとマルコは迷った。
「必要ない。動きやすいものがあればいい」
 クロコダイルのその一言で、マルコはほっと息をついた。この店では、クロコダイルも服を買った。といってもすぐに着られるサイズは無く、この島を出るまでに仕立てるのだ。この店でも四季で必要なものを買い、荷物はとても大きくなったが、クロコダイルは軽々と持ち上げた。マルコも持ちたかったが、既にマルコの持ちきれる大きさではない。マルコはここでも着替えて(ナースたちのくれたシャツはまだ十分に着られるので、マルコは袋の中にいれてもらった)、軽い麻の長袖のシャツと細身のパンツ、それから海賊たちが身につけている者が多いサッシュを巻いている。店には置いていないものだったが、店主は隣にある工房で布を切りだして作ってくれたのだ。マルコはチップの正しい意味を理解した。ありがとう、を込めてお金を渡すという行為はとても新鮮だった。メモを作るときにサッシュが欲しいとマルコが言っていたのを、クロコダイルはちゃんと知っていてくれた。

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