REUNION 8




 響き渡る青い獣の声はすぐに強い手で塞がれた。何度も何度も何度も経験した、喉を圧迫する死神の手。男は本気でマルコを殺そうとしていた。マルコを弄び、藻掻き苦しむ姿を楽しむ輩は必ず笑う。男の血走った目には憎悪だけが見えた。だからマルコは抗う。憎んでいいのはマルコの方だ。男の首を絞めたいと思っていいのは、マルコだけだ。
 マルコの足は鋭い鉤爪となり男の腹を引き裂いた。男が悲鳴を上げて手を離し、マルコはつんのめりながら起きあがって灯りに向けて這った。マルコの力では薄く腹の皮を裂いただけ、男はすぐに迫るだろう。おぼつかない足を支えるために腕を翼に変えて床を蹴る。それはマルコがとった初めての人獣型だった。
 低い男の声が背中に迫る。次に捕まれば不意打ちでは逃げられない。心臓の音が耳の中で騒音をたてる。

「ぐああああああ!!」

 突如男が潰れたような悲鳴をあげた。マルコの顔を強い風が撫で、転げ落ちた廊下に足音が響く。サッチの姿がランプ灯りに照らされ、マルコはその腕に強く抱き込まれた。新しい包帯と、石鹸と、サッチの匂いが狭められていたマルコの肺の中にどんどん入って、マルコは翼もそのままにサッチにしがみついた。

「殺すな!」

 サッチの怒声にマルコは後ろを振り向いた。心臓はまだざあざあ音をたてている。

「殺すなら、オヤジの前だ、クロコダイル」

 マルコの青い炎と廊下の薄明かりに照らされて、クロコダイルの黒いコートが翻った。クロコダイルの鉤爪に貫通された男の肩から真っ黒に見える血が滴り落ちて床に染みを作っている。眼前に翳されたクロコダイルの右手を前に、男は喉からひゅうひゅうと耳障りな音をたて続けていた。
 爪の貫通した肩を引きずられ、男が悲鳴を上げて腕に掴みかかるも、クロコダイルの長い脚が蹴り抜かれたと同時に潰れたような声をひとつ残してその体が鉤爪にだらりとぶら下がった。奇妙な方向に曲がる足が、マルコの目の前で痙攣している。
 マルコはクロコダイルを見上げた。足と腕の獣化は未だ解かれず、肩は震え、唇から滴る血の一滴がゆるやかに燃え上がって消える。それでもその炎と同じ色の瞳に怯えだけは見えなかった。ふとその金色の目が極僅かに眇められ、大きな手がマルコの目の前まで降りてきた。葉巻の匂いのするクロコダイルの手。マルコを害する大人と同じ大きな手。
 その指先が、マルコの柔らかい頬に僅かに触れて、離れた。
 男の体を引きずり、血の道を作りながらクロコダイルが廊下の暗がりに消えるのを見送り、サッチが立ち尽くすマルコの汚れた体を襤褸になったマルコのシャツで拭いてくれた。ごめんな、とサッチが謝る理由はわからなかった。けれども、折角綺麗にした体は汚れて、サッチがつま先を切ってくれた靴は片方脱げていて、指先にはあの男の血が付いていた。マルコはようやく人の手に戻した指先をぎゅっと拳の中に握りしめた。
「部屋にあった字、ちゃんと読めたぞ。マルコはすげぇな。あの馬鹿とちゃんと戦ったんだな。かっこいいぜ、よくやった!」
 血の付着した指先を拭って、サッチは汚れるのもかまわずにマルコを抱き上げて、広くて温かくて、清潔な匂いのする胸に、怪我をしているのにも構わず抱きしめてくれた。
 マルコの胸が、小鳥が鳴いたようにきゅうっと音を立てた。熱くて苦しい固まりが喉にこみ上げてきて、鼻と目の奥が焼けるほどに痛い。もう、大丈夫だからな。サッチの優しい声が耳に流れ込むと同時に、マルコの青い目からはぼたぼたとたくさんの涙が溢れだした。サッチのシャツからはクロコダイルの葉巻の移り香がして、マルコはひくひくとしゃくりあげながら泣いた。泣いてはだめだと思うのに、どうしても止まらなくて息が苦しくて、唇が痙攣を始めるほどに。
「我慢しなくていいんだ、マルコ」
 泣き方を忘れているマルコに、サッチは声を出して泣いていいと震える背中を優しく撫でる。泣いても、誰も責めないから。
 サッチの言葉は信じられる。抱きしめてくれなくとも、頬を撫でてくれたクロコダイルの事も。
 一度声にすれば、あとはもう止まらなかった。マルコはサッチの胸にしがみつき、声の限りに泣いた。嗚咽でうまく呼吸が出来なくなっても、マルコの背にはサッチの温かい手があって、怖いことは何一つ無かった。ただ、これまでの全てが辛くて、痛くて怖くて悔しかった。マルコのちいさな体に積もったたくさんの押し込められてひび割れて壊れていた感情は溢れ出し、サッチの胸に大きな海を作った。


 
 三度目の風呂で、泣き腫らした目もすっかり綺麗にして、マルコは大きなタオルに包まれてサッチに抱かれ、クロコダイルの部屋にようやく戻ることが出来た。床に広げたままのトイレの絵が描かれた単語帳とマルコの筆跡で書かれた紙を拾い、サッチはまた褒めてくれた。今日覚えたばかりの単語を直ぐに使えた事は、とても凄いと。勝手に部屋を出たのは、直ぐに戻らなかった自分が悪かったとサッチは謝った。泣いたおかげか、マルコの体も心もひどくスッキリとしていて、サッチが分かりやすく説明してくれた状況をきちんと自分の事として受け止められた。
 サッチとクロコダイルはとても若くて(マルコからしたら二人とも大人だけれども、この船ではそうらしい)白ひげに気に入られた二人もマルコの事も許せない人間も存在して、あの男はサッチとクロコダイルに力で勝てないから、二人の可愛がっているマルコを傷つけようとした事。マルコは知っている。あの男には、マルコを殺すつもりは最初はなかったのだ。けれどもマルコが抵抗をしたから、逆上した。嫌な臭いのする大人は皆、マルコが抵抗をする事に驚いて、そして怒るのだ。彼らはマルコが抵抗することなど、全く想像もしていないから。
 淡々とそう告げたマルコに、サッチは何も言わず服を着せて、大きなベッドの端に座らせて自分も隣に腰を下ろした。
「クロコダイルが今、オヤジに話をつけにいってる。多分あいつは船から降ろされるか……うちの隊のやつらが、まぁ、お仕置きしたがるだろうから生死は五分五分だが決めるのはオヤジだ」
 マルコに声高にあの男を殺せと叫ぶ気持ちはもう無かった。あの時、クロコダイルが充分に制裁を加えているのを見たから。クロコダイルが強いというのは、マルコにもよくわかった。それよりも、サッチの説明には、とても気になる言葉が含まれていて、マルコはそれをどうしても聞きたかった。
「かわいがってる……?」
「おお、可愛いさ。おれはマルコの事が可愛くて好きだ。クロコもあんな仏頂面してっけど、優しいだろ?」
 サッチのふにゃりとした笑顔に、マルコは強く頷いた。
「あいつに聞いても答えちゃくれねぇだろうけど、あいつもマルコの事好きだぜ?でなきゃぁ、あんな好き嫌いの激しい奴がお前を一日でも自分のベッドで寝かせるなんて事しねぇよ」
 好き、可愛い、好き。マルコが初めて与えられた言葉は、身体をぎゅっと抱きしめて貰えたような、それ以上に嬉しかった。
「おれ、サッチも、クロコダイルも……好きだよい」
 初めて発音する言葉はなんだかもどかしくて、マルコはサッチの腕にぎゅっと抱きついた。サッチがマルコにしてくれるみたいに背中を抱くのはとても無理だったけど、サッチは嬉しそうにマルコの濡れた金の髪にキスをしてくれた。
 クロコダイルが戻るまで随分かかるから眠っていいと言われたけれども、マルコは昼間に充分に寝たので眠くなかった。けれどもサッチは、それは頭の中が興奮しているだけで体は酷く疲れているはずだからとマルコを壁際に寝かしつけて、一人にしないから眠っていいと毛布をかけてくれた。ベッドもシーツも全てにクロコダイルの葉巻の香りが染み付いていて、サッチが話しながら毛布の上から優しく体を撫でてくれるのに、マルコの瞼は抵抗の余地もなく閉じられた。



2011/03/17

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -