REUNION 7




 こんなに贅沢に風呂を使えるのは港が近い時だけなのだと、どんどん服を脱ぎ捨てながらサッチが教えてくれた。クロコダイルは来ないのかとマルコが気にしていることはすぐに察してくれて「あいつは皆で風呂に入るのが嫌いだから、変な時間に一人で入ってる」と。この巨大な船には、もう二つほどシャワールームがあるそうだ。
「クロコダイルは、嫌いなものがたくさんあるね」
「ははは、その通りだ」
 すっかり裸になったマルコの手を引いて、朝方には上手に入ることが出来なかった風呂へとサッチはクロコダイルの嫌いなものを指折りながら歩いた。サッチの体にはまだたくさんの包帯が巻かれていて、怪我の部分以外を洗ってから巻き直すのだと云った。サッチに抱かれて目を覚ました時に嗅いだ膿の匂いはもう乾いていて、湿った部屋に籠もる死臭に混じる不快なものとは違う、生者の臭いであることにマルコは安堵した。
 壁際にあるシャワーの使い方を習い、潮風と皮脂で泡立たない髪の毛を三度洗った。サッチが背中を洗ってくれて、マルコは渡されたタオルで垢じみた腕や薄い腹をごしごしと念入りに擦った。白かった泡が黒ずんで、泡が流されたあとの膝小僧はなんだかピカピカに光っているみたいだった。マルコの横で、サッチも包帯のない部分を拭き始めたので、マルコもサッチの背中を拭きたかったけれども背の高いサッチには手が届かない。サッチは”ションベンするたびに戦い”になるペニスを洗い終えてからしゃがんでくれた。
「髪も洗いてぇけど、もうちょっと我慢だなぁ」
「目を怪我したの?」
「うんにゃ、目は大丈夫だ。目の横をな、ザックリいっちまった」
 サッチの左目の上に巻かれた包帯はまだ僅かに血が滲んでいて、傷の深さを現していた。整髪材のついたままの髪は後頭部で一つに括られていて、皮脂と煤が混じった粘ついたものが絡んでいる。明日あたり、だれかに傷を濡らさないように洗ってもらうとサッチは云った。マルコがしたいと云えばサッチはそうさせてくれるだろうと思ったが、マルコは上手に洗える自信がなかった。それに、ちらほらと人が増え始めた浴室で、通りがかる人間が皆マルコとサッチを見て行くので落ち着かない心持ちだった。
「……マルコ、ありがとよ。綺麗になった」
 サッチが振り返り、マルコの持っていた濡れたタオルを受け取ってかわりにふかふかのバスタオルをかけてくれた。しっかり髪の毛の水気を拭いて顔をあげると、サッチが見たこともないような厳しい顔をしてマルコの後ろを睨んでいて、マルコは咄嗟に見なかったふりをして体を拭くことに専念した。サッチのことは怖くない。けれども、何度も見たはずの、サッチの持つ大人のペニスが少しだけ怖いと思い始めた。

 
 着替え終わったマルコを、サッチは何故か抱き上げてクロコダイルの部屋まで連れていってくれた。歩くときに手を引かれても抱っこをされたことはなかったのでマルコは少し戸惑ったが、サッチの大きな手で背中を撫でられると、ようやく胸の苦しいのが無くなった気がした。サッチの整髪料と、血と膿の臭いがマルコを安定させる。サッチの腹の怪我に触らないように洗いたての匂いのするシャツを握ると、サッチはマルコの湿った髪をとかすように頭を撫でて、それからマルコのまるいおでこにキスをしてくれた。マルコは驚きで少しだけ体を硬くしたが、先程クロコダイルに感じたような嬉しさがじわりじわりとこみ上げてきて、背筋にぷるりと震えがくるような、嬉しい気持ちになった。キスされたおでこをサッチの肩口に埋めると、サッチが耳元で微笑んだ気配があった。
 部屋に連れ行かれ、クロコダイルかサッチ、それかイーレイが来るまで、夕食前に習った文字を練習しろと言いつけられたので、マルコは素直に頷いた。外はもうすっかり日が暮れていて、周りは何一つない暗い海だ。そこに一人で行くことはとても危なくて怖い事だとマルコは今日ですっかり理解していた。
 サッチが出ていき、マルコから見れば十分に広い部屋で一人きりになった。クロコダイルの机を使っても良いが、引き出しの中は彼なりの秩序があって触られるのを非常に厭うから開けてはだめだと云われた。マルコは机の上を汚してしまいそうで、床にイーレイのくれた紙束から一枚をちぎって広げた。食事時の椅子のように、勉強用の机も明日になれば作ってくれるとサッチは約束してくれた。自分だけの椅子や机はとても嬉しい。鳥の絵の刻まれた椅子のことを思い返し、マルコはふわふわとした心持ちでイーレイのくれた文字表を出して、声に出してみる。読み方と文字は一緒に覚えるんだよとイーレイが云ったとおり、端の文字から歌のようにして覚えた読み方を当てはめながらマルコはペンを動かした。覚えるという行為は、とても楽しい。頭の中に色々なことがぎっしり詰まって行く気がする。それは今までの生活では感じることの出来ない満足感で、イーレイがいれば”知的好奇心の充実”等と少し難しい言い回しも教えてくれたかもしれない。
 二枚目の紙がインクで埋め尽くされる頃、マルコは自覚した尿意にもじりと脚を擦りあわせた。部屋に戻って随分と時間が経っていたが、まだ誰も来る気配はない。トイレの位置は船首近くで、迷う事は無いが部屋を出るなと言う言いつけを破ることになる。
 マルコは考えあぐね、単語帳を開いてもう一枚、新しい紙をちぎった。
 

 所々ランプの灯された廊下を壁伝いに歩くと、甲板やもう一階下の大部屋からたくさんの人の気配がした。昼間は何も感じることのなかった言いしれぬ夜の怖さがマルコのちいさく頼りない身体に押し寄せて、その足を早めさせる。ようやく辿り着き、日のあるうちに何度か目にした位置にある手動式のランプまで背伸びをし、台座をくるりと回して灯りを点けた。波を被るように設計されているトイレは潮と据えた尿の臭いがする。早く済ませて部屋に戻りたい。マルコは女物のショートパンツのボタンを外し、ジッパーを下ろした。動物のように檻の中で垂れ流し、冷水で洗い流されるという事はここでは無く、服はあまり汚してはいけないものだった。(ちょっとくらいなら拭けばいい!とサッチが云ったので、マルコは神経質にならずに何度か練習した)斜めになった戸板にむかって上手に出来て、ほっと息を吐いたその時、ふっと灯りが消えた。闇に慣れぬ目が廊下の遠い灯りを無意識に追ったと同時にマルコの鼻と口は強い力で塞がれ、サスペンダーが外れる音が響いた。生温かい尿が足を伝い落ち、マルコは必死にもがいて逃れようとした。鼻を塞ぐ誰かの手から例えようもない厭な臭いがした。この一日と少しでは忘れようもない、マルコを害そうとする大人の臭いだ。
 闇雲に振り回した足がどこかに当たったらしく、僅かに腕が緩んだ。口の中に入り込んだ指に思い切り噛みつくと、舌打ちの音と同時に息が止まるほどの衝撃が訪れた。壁に体を投げつけられたのだと理解したのは一秒の後で、酷い臭いの床に転がったマルコの胸の内に、痛みではない、爆発するような感情が沸き上がった。優しい大人たちを短い時間で沢山見たから、つい勘違いをした。マルコが鎖に繋がれていなくても、誰の庇護を受けていても、関係ないのだ。マルコの意志など無いかのように、彼らはマルコを害する。
 暗闇の中で一気に燃え上がった青い炎に男の姿が照らされた。厭な人間の顔つきは、皆同じだった。濁った目と、欲望に弛んだぼやけた輪郭、厭な臭い。
 床に這い蹲ったまま、マルコは獣のように吠えた。




2011/03/13

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