REUNION 6




 テーブルの上に広げられた紙には、マルコには「文字」だと認識されるものが並んでいた。椅子の上に膝立ちをして身を乗り出すマルコに、サッチが船大工にマルコの椅子を頼もう、と手をひとつ打って即座に部下らしい男を呼び止めてそれを伝えた。
 
「流石に子供用の本は持っていませんから私が書きました。先ず文字を覚えて、単語にいきましょう。来週寄港したときに教本になるものを探さないといけませんね」

 丸い眼鏡をかけた柔らかい口調の男は、クロコダイルの補佐役のような立場で(この海賊団に、厳密に副官や副船長などという役職はないのだと彼は言った)自分はイーレイだと名乗った。優しそうな風貌だが、その腕や胸はサッチほどに逞しい。時間があるときは、彼がマルコに文字を教えてくれると云った。誰に聞いても良いが、隊長たち以外は文字が読めない人間も多くいるからとイーレイはちらとクロコダイルを見て、それからマルコに向かい、数枚の紙を糸で綴じた物を差し出した。一番上には、赤いリンゴが手書きで描かれていて、その下には物の名前が書いてあるのだと教えてくれた。

「これはマルコにあげよう。それからクロコダイル隊長、サッチ隊長、識字力も重要ですが、上陸に差し当たって必要な事があります」

 イーレイの言葉に、二人が(主にサッチが)そうだなぁと腕を組んで頷いた。単語帳をちいさな両手で掴んだまま、マルコは色づいていた頬に不安を覗かせて隣のクロコダイルを見上げた。

「……お前がおれ達の家族だとわかれば、利用される可能性がある」

 葉巻を咥えたまま器用に喋るクロコダイルがマルコを見下ろす。利用、という不穏な響きを遮るようにサッチが「またお前は不安を煽ることを!」と腕を広げて抗議の意を表した。

「マルコ、陸に上がると、危険な事が今いる海の上とはちょっくら種類が違ってくる。知ってんな?」

 無意識に握り締めていた単語帳に皺がはいり、マルコは慌ててそれをテーブルの上に置いた。マルコに優しくあった世界は、ここに来るまでに一度だって存在しなかった。サッチは、でも大丈夫だ、と胸を叩いて笑った。

「おれらは強ぇからな、お前を守ってやれる。それにお前には絶対の武器があるからな」

 サッチがおどけた様子で羽ばたいて見せて、いざとなったら飛んで港まで逃げろと云った。マルコに飛行訓練についての異論は勿論ない。

「まぁ今回は領地じゃぁないが治安のいい島だ。危険は少ないだろうが、用心に越したことはねぇ。怖けりゃ、降りずに船にいてもいいぞ」

 サッチのくれた選択肢に、マルコはふるりと首を振った。

「……一緒に、行きたいよい。一人は、怖い」

 こどもらしい丸みの少ない小さな手が、テーブルの上でぎゅっと握り締められる。白ひげも、気のいい船員たちも、優しい大人はたくさんいる。けれどもマルコの強張った心を解かせるものは、未だ僅かだ。サッチはいつものように少しだけ微笑んで、そうか、と言った。その言い方は、マルコをとても安定させる響きを持っている。

「初めての上陸だからな、オヤジに代わってマルコの父親役はクロコだ。お前はでけぇんだからマルコ置いてくんじゃねぇぞ。日用品も買わないとな。こいつそういう所、すげぇ雑だからあとで買い物リスト作ってやるよ。靴も合ってねぇみたいだしな、冬島用のブーツも要るし」

 サッチの指摘に、マルコは始めて靴の中の違和感の正体に気がついた。イーレイが膝立ちで背もたれの隙間からはみ出したマルコの汚れた靴をぽこりと脱がすと、赤く擦れた指先が顔を出した。昨日まで気にもならなかったそれは、マルコが自分の体にようやく意識を向け始めた事を指している。

「んー、ちょっと不恰好になってもいいか、マルコ」

 靴を受け取ったサッチが、首をひねってナイフを取り出した。そうしていきなりペラりとした薄い革靴の先端を切りとってしまった。紐を少しきつめに締めろといわれるままにマルコはもう一度靴を履いた。不格好がどういうものかマルコにはよくわからない。けれど、指先はもう痛くなかった。

「痛くないか」
「うん」

 椅子の上でぷらりと揺らした足は軽く快適で、マルコは僅かに頬の筋肉を緩めてもう一度「痛くない」とサッチに繰り返した。イーレイは、合点がいったと云った様子でクロコダイルにめくばせをして「教師」の顔になる。

「マルコ、何かしてもらったときは”ありがとう”だよ。知らないかい?」

 もちろん、その言葉をマルコは言葉として知っていた。けれども今までその言葉は、強要されるものであって、自主的に口に上るようなものではなかった。サッチは、礼なんていらねぇ、不恰好にしたから差し引きゼロだ。とまた笑った。それはクロコダイルに対して感じる不思議なむず痒さと似ていて、マルコはとんと椅子から床に降り立った。靴はピタリと足の甲にフィットしていて、不快感などひとつもない。

「……ありがとう、サッチ」

 マルコが見上げてそう言うと、サッチは今までにないくらい嬉しそうに笑ってくれて、ありがとうと云う言葉が、サッチが笑ってくれたほんの一瞬で、マルコにとってとても嬉しいものになった。

 
 夕食の時間まで、とイーレイが食堂に残ってマルコに文字を教えてくれた。一度クロコダイルの部屋まで戻り、マルコのものだと言われた紙とペンをとってきて、書いてある文字が読めなくなるまで真っ黒に紙を埋め尽くした。イーレイは、ノートじゃ足りないなと云って、あとで古いニュースクーや、書き損じの紙をくれると約束してくれた。食堂に人が溢れる頃にはマルコの手は真っ黒になっていて、戻ってきたサッチが「頑張ったな」と手を濡れた布で拭いてくれたので、マルコはありがとうと云った。
 文字を覚えることはとても嬉しいことだけれども、食べ物にありつくということはもっと大事だった。サッチが紙の束を汚れないようにテーブルの端に積み上げて、マルコ用だと新しい椅子を置いてくれた。高さの調節できるマルコの体に合った幅の椅子は、よく見ると背凭れには鳥の模様が彫られていて、色塗りが間に合わなかったから、今晩中に船大工が塗ってくれる手筈だとサッチが教えてくれた。
 程なくしてクロコダイルも姿を見せて、マルコはサッチとクロコダイルに挟まれる形で真新しい椅子に腰掛けた。その途端に昼間言われたことを思い出し、配膳の始まったテーブルの上を見ながら不安に襲われる。小汚い奴は気に入らないとクロコダイルは云った。マルコにとって空腹は恐怖
だ。けれども、クロコダイルに不快に思われるのは嫌だった。
 騒がしい食堂は、クロコダイルとサッチがいる場所だけ空間が開けて静かで、次々と運ばれてくる食べ物の匂いにマルコは唾を飲み込む。未だ脂の弾けている鶏肉にサッチがナイフを入れて切り取り、まずクロコダイルの皿の上にたっぷりとした肉を乗せた。クロコダイルの左手は武器の形状をした金属だ。彼が食事をする姿をマルコは初めて見る。
 サッチが鶏肉を切り分けている間にクロコダイルは右手でナイフとフォークを同時に掴み、左の鉤爪で皿の端を押さえて薬指の付け根でフォークを支え、親指と人差指でナイフを動かして肉の塊をあっと言う間に切り分けた。

「器用だろこいつ。マルコは最初はこれからだ」

 サッチが既に小さく切ってくれた肉を皿に載せ、マルコの手の大きさに合ったフォークを握らせた。既に食べ始めているクロコダイルをちらと見て、マルコはゆっくりと慎重に鶏肉の一片を口に運んだ。肉汁をこぼすこと無く食べられて、サッチは「上手い」と褒めてくれた。零したらこれで拭いていいとナフキンをマルコの膝の上に乗せ、スープを注ぎ終えたサッチも食べ始める。湯気を立てる鶏肉には甘くて茶色いソースが掛かっていて、ゆっくり噛むことで皮と身の境目も分かった。口いっぱいに詰め込んで味わう余裕もなかった時には、わからない食感だった。
「うん、今日のソースうめぇ」
 サッチが目を輝かせてコックに親指と人差指で円を作って合図していて、ようやくマルコはこれが「美味しい」と分かった。時折顎までソースが垂れて、それをきちんとナフキンで拭く。一つ向こうのテーブルでは昼間のように男達が騒々しく食事をしているのが見え、彼らのテーブルにはたくさん食べこぼしやソースが散っていて、この席とは何かが違って見えた。クロコダイルはとても静かに食べる。サッチだって零さず上手に食べているが、その違いを表す言葉がマルコにはわからなかった。
 パンをちぎること、バターを使うこと。スープを飲むにはスプーンを使うこと、熱いときは火傷しないように冷ますこと。(火傷だってマルコは直ぐに治ってしまうけど、熱いのは痛いと同じなのでマルコは慎重にスープ皿に触ってみた。やっぱりサッチはなんだか嬉しそうだった)サラダのドレッシングは少しだけ服に散らしてしまったが、サッチが濡らした布で拭いてくれて、拭き方も教えてくれた。

「マルコ、もう少し食べられるか?」

 いつもより時間をかけてゆっくり食べたおかげで、お腹はまだ苦しくない。頷いたマルコを見て、サッチがちょっと待ってな、と調理場に向かい、カウンターテーブルから何かを受け取ってきた。三つのカップを持ったサッチからは、マルコが今まで嗅いだこともないような強烈に甘い匂いがして、目の前に置かれたカップからマルコは目を離せなかった。熱いから絶対すぐに口にいれちゃだめだぞ、とサッチが差し出したのは小さなティースプーンで、マルコは目の前の柔らかそうで黄色くて、多分とても甘いものを食い入るように見つめた。残る二つにサッチはラム酒を垂らし、クロコダイルの前にも差し出す。
「お前には酒は早いからな。ちょっとだけ掬って、冷ましてからな」
 念押しして、サッチはとろりとしたものと酒をくるりと掻き混ぜた。マルコが掬い上げたスプーンからは湯気が立ち上っていて、早く口に入れたい衝動を押さえてマルコはふう、と息をふきかけた。何度かそうして、ようやく舌にのせた黄色いクリームは、それこそ鳥肌が立ちそうなほどに美味しかった。ほっとかすたーどくりーむ。マルコはしっかりとその名前を覚えた。夢中で食べ、マルコのカップはあっと言う間に空になった。口の周りはべったりと汚れていたが、サッチは美味かったか?と聞きながら拭いてくれて、咎めなどしない。マルコは目を輝かせて「美味しかった」と答え、サッチが最初に指で丸をつくって合図していたコックが作ってくれたと聞いて、皿を下げに来たその若いコックにマルコはありがとう、とお礼を言った。コックは嬉しそうにして、材料の卵は航海が長くなると手に入りにくいので、上陸期間が終わったら、もっと色々なお菓子を作ってくれると約束してくれた。
 ふわりと隣で空気がゆらぎ、クロコダイルがカップを置いて出て行った。中身は半分以上残っていたが、サッチは「クロコが甘いもんこんなに食ってら」と回収したカップを見て感嘆の声をあげた。
 黄色いクリームはマルコが食べたものと同じだが、きついアルコールの匂いがしてマルコはきゅっと首を竦めた。サッチはちょっとだけ意地悪そうに、「おとなの味を食べてみるか?」とほんの少しだけそのクリームを掬ってみせた。アルコールの匂いは好きではなかったけれども、クロコダイルの使っていた大きなスプーンから垂れる甘いカスタードに引き寄せられるようにして舐めてみた。舌の上で刺激と苦味が広り、甘いのに苦くて、マルコは表現しがたい味にぎゅっと目を瞑って飲み込んだ。

「ははは、やっぱだめか」
「お酒、おいしくないよい」
「あと十年もしたらお前もこっちが好きになるんだがな、多分」

 サッチは通りすがった船員に残ったカップを渡し、マルコの柔らかい髪を優しく撫でた。サッチに触られるのはやはり嬉しくて、マルコはもう一度ありがとうと言いたい気持ちだった。
 十年先も、ここにいたかった。





2011/03/04
 

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