金曜日の夜は華やかだ。みんなどこか浮き足立っていて、楽しそうで。花金という言葉を考えた人は天才なんじゃないかとさえ思う。かく云う私もこんな雰囲気は嫌いじゃなかった。
今日は金曜日。18時を過ぎるとオフィス内では帰る支度を始める人がちらほら出てきて、私もキリが良いところでパソコンの電源をシャットダウンし、軽く背伸びをしてから退社する準備を始める。残業も無いし、久しぶりに飲みにでも行こうかなぁ。思い立った私はトークアプリを開き、この後付き合ってくれそうな友達に声をかけてみる。
けれど、こんな時に限って誰も捕まらないというのはまあよくある話なわけで。それからまた何人か誘ってみたけど結果は全滅だった。……うーん、困った。でもこのまま真っ直ぐマンションに帰るのはやっぱり何だか勿体ない。
「あ……そうだ」
前に同僚と飲みに行った帰り、ちょっと気になる焼き鳥屋を見つけたことを思い出して信号待ちをしながらそのお店の口コミを調べてみる。すると"カウンター席有り""お一人様大歓迎!"という文字が並んでいて私の心は大きく前進した。こうなったら行かないという選択肢はない。急いで電車に飛び乗った私は、最寄り駅に到着するまでひたすらスマホでお店のメニューを調べ漁った。えーとなになに、鶏皮に砂肝、手羽先はまず外せないでしょ……お、この特製つくねっていうのもすっごく美味しそう。焼き鳥屋というだけあって串の種類は申し分なく、サイドメニューもなかなか充実していて気持ちは高揚していくばかりだ。
駅に到着してから歩くこと十数分。路地を何回か間違いながらも無事にお目当ての店に到着した私は、ホッとする一方で何ともいえない緊張感に包まれていた。今更ながら、金曜日に一人で飲みに来る女って客観的に見てどうなんだろう。出来ることならばそこいらを歩いている人達にまとめてアンケートを取ってリアルな世間の声というものを聞かせてもらいたい。そして、もしもの話だけど万が一マイナスなイメージが過半数を超えた暁には──
「……あのー、入らないんですか?」
「へっ!?……すみません、入ります」
いつの間にか背後にいたOL風の三人組に声を掛けられ、一瞬で我に返った。ここまで来たんだ、もう腹を括るしかない。小さく深呼吸をし思い切って店の中へと一歩足を進めてみる。
「いらっしゃいませ!何名様ですか?」
「ええと、一人なんですけど……」
「かしこまりました!ご新規様一名入りまーす!」
いらっしゃいませー、とあらゆる場所から復唱が聞こえ、その先に見えたのは10席ほど用意されたカウンターだった。おひとり様が私以外にも何人かいて、ホッと肩を撫で下ろす。店員さんに席まで案内してもらい、予め頭の中で決めていたメニューと生ビールを注文した私は静かにその時を待った。
「すいません、注文よろしいですか!」
突然、右隣から声が響いて思わず椅子からズッコケそうになる。……な、なんて威勢の良い人なんだろう。椅子を一つ隔てて隣に座っている男性は、慣れた様子で店員さんに次々とオーダーしていく。
「鳥精肉が三本、梅つくね、レバー、ねぎまがそれぞれ一本ずつに……あとモツ鍋も一人前で!」
「あーすいません、今日モツ鍋やってないんですよね〜」
「むう、そうか……では代わりに塩ちゃんこ鍋を貰おう!」
「鷄ちゃんこですね。ありがとうございますー」
鷄ちゃんこ鍋かー…いいなぁ美味しそう。そんな事を考えていると、お待たせしましたーという声と共に注文していた品が続々とやって来て私は目を輝かせた。よく冷えたビールを口に流し込むと一週間の疲れが瞬時に吹っ飛んでいく。はあ、やっぱり今日は飲みに来て正解だった。
「いらっしゃいませー何名様ですか?」
ちらりと周りを見渡すと、私が来た時にはまだ半分ほど空いていたテーブル席も残すはただ一つのみとなっていた。店内はますます賑やかになっていく。
たまにスマホを弄りながら目の前にあるつくね串をつまんでいると、後ろから「あのー、すみません」と申し訳無さそうな声が投げかけられた。
「お客様、大変申し訳ないんですけど席を一つ詰めてもらっても宜しいでしょうか?」
この混み様だ、気付けば空いているのは私の両隣を含めたカウンター席のみとなっていた。二つ返事で了承した私は、店員さんに手伝ってもらいながらジョッキグラスと料理の皿を一つ右側へと移動させる。そうだ、一応隣に座っている人にも声を掛けておこう。
「すいません、お隣失礼します」
「うん?ああ、どうぞどうぞ!」
ぶつからないように細心の注意を払いながら腰掛けると、「……苗字さん?」と急に名前を呼ばれて反射的に顔を上げる。こういった場合、たとえ自分が相手を覚えていなくともそれとなく話を合わせるのがビジネスマナーだと思うけど、居酒屋で、しかもこんなに至近距離でそこそこ長い時間を共有するであろう人にそれをしてしまうと後々苦しくなるというのは目に見えていた。脳内に保存されている男性という男性の顔を必死に掻き集める。
数秒見つめ合ったところで、一つの名前が頭にストンと舞い落ちてきた。
「……煉獄さん?」
行き着いたのは半年ほど前の記憶だった。男性の顔がパァッと明るくなる。
「いかにも!久しぶりだな、苗字さん」
「そうですね、結婚式の時以来ですもんね」
結婚式というのは半年前に開かれた親友の結婚式のことだった。人生初の友人代表スピーチたるものを経験しては緊張の汗を流し、両親への手紙では感動の涙を大量に流し、それはもう見るに耐えないであろう風貌になっていた私に待ち受けていたのがブーケトスだった。綺麗な放物線を描いて落下してくるブーケを運良く受け取ったのは私の隣に立っていた人で、その人物こそ今また隣にいる煉獄さんだったのだ。
「わあ、おめでとうございます!」
「ははは、嬉しいといえば嬉しいが残念ながら俺には似合わん!だからどうぞ!」
すると徐にブーケを差し向けられ、その意味を即座に理解出来なかった私はブーケと男性の顔を交互に見つめてみる。
「……えええっ?!いやいや、せっかく受け取ったんですから貰っておいた方が身の為ですよ!」
「いいからいいから!……うん、やっぱり苗字さんの方がよく似合っている」
「え、あ……ありがとうございます」
もし小説やドラマの世界だったら、このワンシーンはなかなかの見せ場だったと思う。が、現実では誰かがブーケを手にした瞬間が最大の盛り上がりの場であって、その後のことなんて当事者以外大した気にも留めないのだ。パラパラと席に戻り始める人たちを他所に、私は一人嬉しいような恥ずかしいような、むず痒い気持ちに包まれていた。
「おーい、煉獄ー」
「!ああ、今行く!……それでは苗字さん、また」
……あの人、煉獄さんっていうんだ。また、とは言ったものの、その後煉獄さんと話したりする機会は無いまま式は終わり、更に半年という月日が彼の記憶を少しずつ曖昧なものに変えていった。
「苗字さんはよく来るのか?この店」
「いえ、初めてなんです。煉獄さんは?」
「俺も数える程度だな。そうだ、せっかく再会したんだし乾杯でもしよう!」
二人でジョッキを傾け、「乾杯!」と声を合わせる。元々結構飲んでいたので私が持っていたジョッキはすぐに空になってしまった。
「次は何を飲む?」
「私ですか?またビールにしようと思ってました」
「ははは、見かけによらずなかなかいける口なんだな」
は、恥ずかしい…!ここは可愛らしくフルーツ系のサワーやなんちゃらミルクにしておくべきだったか……。もじもじしながら俯く私を気にする様子もなく、煉獄さんはメニューをパラパラと捲りだす。
「この店はモツ鍋が旨いと評判なんだが、残念ながら今日はやっていないらしい」
「あらら、それは残念ですね」
「苗字さんは何か頼みたいもの無いか?」
「うーん……あ!もしお嫌いじゃなければ一緒にピザ食べませんか?一人だと食べ切れなさそうで」
「ああ、無論嫌いではない!それも頼むとしよう」
そんな感じであれよこれよと注文をしていたらテーブルの上が皿でびっしりと埋め尽くされていく。それと連動するように会話にも花が咲いていた。
煉獄さんは高校の先生で、受け持っている教科は歴史だということ。自宅はここから割と近いということ。好物はさつまいもの味噌汁だということ。趣味はジョギングと映画鑑賞だということ。それから、
「──結局、残業って言ってたのは全部嘘で、実際は浮気相手と会ってたんですよ!?ほんっとありえないですよね」
いつしか話題は私が去年別れた最低最悪の元彼へと変わっていた。普段は心の奥底に封印しているのに「ところで苗字さん、一人で飲みに来たりして恋人は何か言ったりしないのか」という一言がきっかけでいとも簡単に呪符が外れてしまうんだからお酒の力ってこわい。
「うむ、確かにありえんな!」
「あ、やっぱりそう思います?二年も付き合っていたのにひどい話ですよー全く」
「しかしながら、古の言葉で人と人との縁には必ず何か理由があってこそというものがある。たとえ今はマイナスに思えるような縁でも、きっといつか苗字さんが生きていく上でプラスに変わる日が来るはずだ」
「……なるほど。お恥ずかしい話、今までそんな風に考えたことなかったかもしれません」
「とはいえ、だ。苗字さんほど魅力的な女性は早々いないというのに、恐らくその恋人も今頃別れてしまったことを後悔しているに違いない!」
「あはは、魅力的だなんてそんな」
「……俺はずっと思っていたぞ。苗字さんのこと、素敵な女性だって」
「……え?」
ゆっくりと吐き出された言葉に、思わず目を見開いた。
「初めて会った時から、ずっとだ」
あれだけ騒がしいと思っていた周りの声も、店内のBGMも、今だけは遠く、別次元にあるかのように感じる。ど、どうしよう、何でもいいから話さないと……!
「すいませーん!そろそろラストオーダーの時間なんですけど何かご注文はありますか?」
「む、俺は結構だ!」
「わっ、私も大丈夫です……!」
気付けば時計は0時を廻ろうとしている。未だにトクントクンと音を立てる心臓を抑えながら、私はジョッキの中身を飲み干した。終電のこともあるし、今日はここでお開きのようだ。
しかし。最大の事件はお会計の時に起こってしまう。
「もう、本っ当にすみません……!」
店を出てから私の身体はそれはもう綺麗な直角を成していた。お会計の時に財布を会社に忘れてきたことに気付くなんて恥晒しもいいとこだ。
「ははは、気にしない気にしない!」
「いや、そこはちょっとは気にしてほしいところなんですけど…」
「苗字さんとうまい酒が飲めたんだ、これ以上のことはない!」
「は、はあ……」
ああもう、最後の最後でこんな失態を犯すとは。金曜日だからってやたらと浮かれていた自分を殴ってやりたい気分だ。げんなりする私の肩に、煉獄さんの大きな手が触れる。
「ではこういうのはどうだろうか」
「……え?」
「次に会った時に返してもらう、それで全く問題ない!」
そう言ってカラッとした笑顔を向けられたらこちらも何も言えなくなってしまう。……ん?次ってことは、もしかして……。
「じゃあ!今度こそ一緒にモツ鍋を食べませんか?来週また、このお店で」
「うむ、名案だな!」
煉獄さんとは話したいことがまだまだあるし、知りたいことだってたくさんある。だから、来週また会った時に聞くんだ。美味しいと評判のモツ鍋を二人でつつきながら。
金曜日の夜は華やかだ。みんなどこか浮き足立っていて、楽しそうで。そんな雰囲気を肌で感じながら、私はとあるお店の前で足を止めて鞄の中身をチェックする。…よし、今日は財布もあるし、大丈夫。自動ドアをすり抜けるとそこには既に見慣れた姿があった。
「おっ苗字さんこっちだ!」
駆け出したい気持ちをグッと堪えて、私はカウンター席へと足を進める。焦らなくても時間はたっぷりあるんだ。
今夜はまだまだ始まったばかり。
今夜のつづきで会いましょう
(2020/04/22)
素敵な企画に参加させていただきました。ずを様ありがとうございました!