無意味な

あなたはあの時、一体何を考えていたのか。

 虚がどんどん私を浸食している。一昨日、昨日、今日、僅かな進みだが、しかし確実に私を蝕んでいる。そのスピードは緩まない。後退も停滞もなく、進行を続けている。私はそっと息を止め、瞳を閉じる。真っ暗な闇の中で、自分が淡い緑色に縁取られぼうっと浮かび上がるのを感じた。かなしい、かなしい。“その娘”は確かにそういって、泣いていた。私はどうすればよかったのだろう。私にはもう何も見えないと云うのに。

 冬が近づく11月、まだ秋の空気が街を覆ている。なぜこんなにも切ないのか。冷たい風が私を撫ぜるたび、私のこころはひりひりと痛んだ。秋は苦手。曇天模様の空は一番堪える。私の内側にあるそれがちぎれそうに焼けるのだ。あなたは一体私に何を見ているのだろうか。私はもう何も感じないと云うのに。

口にする事は簡単なことだ。その力に満ちた瞳はわたしに「諦めるな」、とそう確かに口にしていた。しかしもう私の瞳に映る世界は色あせている。何に対しても無力だ。「私はもうとっくの昔に一度この世界に絶望しているんだよ。」そう口にしたときのあの人の表情。私は救われているのだろうか。ふわふわ浮遊する私を引き止めようと必死になる人間が居る事は、幸せなことなのだろうか。


人間は縛られている。それはいつからか。浮遊する魂に器を獲た瞬間からか。いや、もっと前だ。母の胎内にへその緒で、文字通りに、言葉通りに繋がった瞬間からか。あるいは、魂の瞬間からか。人間はこの世界にやってきたときから色々なものに縛られていく。やって来た、ということを最初に認識するのは他人だ。胎児の頃の記憶なんか、私にはない。三島由紀夫は持っていたようだが、そもそもそのような人間のほうが希有なのだ。大多数の者は私と同じだろう。人間の思考、感情を、魂にあると考えるか、それとも肉体であると考えるのか、そこでも意見は分かれるだろう。だが、もし後者だとするのであれば、宿った瞬間は浮遊する小さな細胞でしかない。そこに全ての臓器のベースとなる細胞が孕んでいたとしても、初めにあるのはたかが一つのちいさなちいさな細胞だ。その細胞に意識はあるのか、思考する力はあるのか。もしないというのであれば、やはり最初にその人を認識するのは”他者”なのだ。母か、医者か。たいていこのどちらかが最初に私を見つける。…いや、違うな。やはり胎内に宿った瞬間から人は既に縛られている。それはその女の子という縛り。へその緒、付けられる名前、環境、文化、学校、会社、社会、友達、恋人、家族。ああ、意識すればなんと多くの物に縛られている事か。その曲魂は自由だと云う。その通りだと思う。ただし事実と事態は異なる。その言葉をもって私の思考に文句をつける事ができるのは、それを本当に実践できている人物だけだ。多くの物は知っている。肉体と魂は異なる。どちらが自由か、そのイメージは後者の方が多いはずだ。肉体は器だ。その器には多くの縛りと繋がりががんじがらめになって着いている。魂は自由というのなら、たしかに全てを捨てて生きることもできるだろう。しかしこの縛りがそれを簡単には許さない。そしてこの縛りは時に自らの感情による空虚な幻想であることもある。こうなるといよいよ人間とはいかに縛られた生き物なのだろう。

 空を見やると、その青くみずみずしいそらが急に重く、圧迫感のあるものに思われた。重み、おもり、そうこの縛りは、人を、この世界に、いかなる理由があるのかないのか、ともかく一つの命として生まれでて来てしまったのなら、と留めようとする重しの様でもある。私はきっといまとても剣呑としたあるいは、やはりぼうっと空虚な眼をしているのだろう。空が重い、器が重い。重くて重くて、私はもう希望する事すらも、その為の力すらも失くしてしまった。枯れている。生きることにはものすごい力が必要だ。わたしはその事に気がついてしまった。気がついた時にはもう遅い。そこから再び、たとえばあの人の様に、さらにエンジンをかけ、己の理想か、あるいは己か、他人の為に走り始める人が居たとして、それでもやはり一瞬でもわたしがいま味わい続けているこの味を知っている。運命。言葉は呪だ。その言葉を跳ね返し自らの力で生を築いて生ける人間でない限り、言葉は時に恐ろしい縛りをかける。

 淡い桜のような色になっていく空。もうじき更に青が色を増し、この色も消えていく。そうしてやがて、ほら夜が訪れる。風がまたを通りすぎていった。私は世界に嫉妬している。日々喜びと悲しみ、享楽と狂乱に一喜一憂人間をよそに、それでも空は青く、そのままぽかんとそこにある。この世界が崩れない限り、いつまでもいつまでもきっとそうしているのだろう。命はあるのだろうか。太陽に、月に、星に、空に、海に、風に、光に、闇に。人とは無関係に、ただそこにぽかんと在る。涙が出る程美しくありつづける世界。この世界にあると云うことは結局彼らも何かに縛られているのだろう。嫉妬、…やはり気のせいか。それでも私は何かを思わずにはいられない。

 白銀に、あるいはまろく輝く月が、真っ黒なこの星の宇宙のなかで輝いている。私はまだ若い。だがもうすでに時の恐ろしさには気がついている。人は寂しがり屋だ。私と同い年の子、あるいは年齢等関係ないのかもしれない、とにかく恋愛についてよく話している。それはそういうことなのだろうか。悪くすればもっと寒い想いをすることになるかもしれない、それでもいい、一瞬の暖で構わない。幽かにともる灯り。それはもしかすると虚構の産物でもかまわない。とにかく一人じゃない、他人よりすこし違う、一人を求める。そばに居てほしい、生まれた瞬間からやつしているこの冷たい孤独を暖めて。そうやって多くの人間は恋愛を追うのか。私にはこれも分らない世界だった。そもそもなぜ恋と愛が共にあるのだろうか。愛は恋とはい著しく異なる。愛と比べれば恋など、幼稚で、柔い、脆すぎる。お手軽なもの。愛はもっと確かで、恋と比べればシビアだとも云えるかもしれない。愛は此方の想いに託されている。それにつきるのだ。報い等をもとめるものではない、相手に期待するものではない。自らのうちに宿し、他者という作用を経て成立し、維持していくものだ。私はこれを夢に注いだ。だからいまこんなにもかなしい、ただただかなしい。

 諸君、わらいたければわらうがいい。私は至って真面目だ。いかに幼稚であろうと、無い物ねだりの負け惜しみ、バカと言われようと、ただいまのべてきたことが私の想いに値する。その私を嗤うなら嗤えばいい。

 死ねば楽になれる。この考えは死に対して失礼だ。それは幻想だ、勝手なイメージだ。死んだ先にどのような世界がひろがるのか。もしかすれば今よりもっと酷い状態になるのかもしれない。その可能性だってあるはずなのだ。その言葉はそれを無視しすぎている。だがしかし、私も思わなくない。この間手にした包丁、高層ビルへわざわざのぼり、その屋上から覗き見た足下の景色。あとひとつ、あとひとつあれば、その恐怖を克服できる気がする。しかし、結局、やはり駄目なのだ。私は彼と約束をしている。自らの要求し実行したリタイアの先になにがあるのか、それを私は知っている。だから私は死ねないのだ。

 「諦めるな」、あの人の瞳が口にしている。うん、わかるよ。でも、どうしたらいいかもわからない。この重みにおされなあなあと、まるで流されるように生きることは、私には死の瞬間より辛い。私はやはり幼いころに抱いた夢、これを遂行できない生でなければ嫌なのだ。

「だったら、やるしかないじゃん。」

 枯れた私の頬にはいつだって、水の代わりにこの言葉がすべって、また落ちていくのだ。

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