過ちと聖女


※ナンセンスな悪夢に魘される佐久早



 窓のない無菌室にも似た空間で、佐久早は絵画を眺めていた。主題はおそらく聖母子像。絵画の中に佇む薔薇色の頬の乙女は、その如何にも幸福な少女の貌に何処か達観した穏やかな伏し目を併せ持ち、まさしく神の母に相応しい神秘性を備えている。変わったところと言えば、聖母自身の描写よりもその腕の中身だろう。抱かれた御子の全身は、爪先から頭まですっぽりとシルクのスワドルに覆われている。これでは聖母子というよりも単にこの女性の肖像だ。けれども佐久早にとって、それは然程大きな問題でない。どうでも良いのだ、持ち物など。彼を殆ど棒立ちで釘付けにしているのは、紛れもなくその女性に尽きるのだから。
 暫く見つめていると、不思議に靄がかった頭の裡に、なぜこれほどまでに目を惹くのかと疑問が湧く。幾ら他に目立つものがないにしても、ひとつのものからこれほど目を離せないことがあるだろうか。そしてその答えはすぐに分かる、採光窓をもたない部屋に、唯一の光源としてその絵はあるのだ。女の膚は、身のうちに湛えた神性を透かすかの如く、慎ましく発光していた。佐久早は聖母をじっと観察する。そのうちにふと、面影に覚えがある、と気が付く。すると、何故今まで見落としていたのだろう。やがてそれが自らの妻であると思い至る。
 思わず呟いた彼女の名、その音の波は阻まれることもなく額縁をすり抜け、奥の空間へと吸い込まれていく。佐久早は目を瞬いた。額縁の向こう側には奥行きがあり、絵だと思っていたそれは、実のところ隣接する部屋だったのだ。
 額縁という境界を隔てながらも、地続きの世界に彼女は在った。聖女は現実に肉付けされて尚、その輝く肌も、豊かな黒髪も、抱えた絹布がたおやかに織りなす清潔な皺に至るまで、超現実的な理想そのままに顕れている。佐久早の愛した唯ひとりの女性として。
 やがて彼女は顔を上げ、このように囁く。
「来て、聖臣。この子を抱いて」
 あなたはお父さんになるの。
 佐久早には、子などないはずだ。望んでもいない。不可解なはずの彼女の言葉は、しかし既に用意されてある真実として佐久早の鼓膜から浸透した。「今はわからなくてもね、」声音は宗教を語るときに似た、過ぎるほど甘やかな陶酔を帯びて。
「成っていくのよ、あなたと私で」
 どこかで同じ言葉を聞いた気がした。しかしそのような些細な引っ掛かりはすぐさま溶けて消えてしまう。彼女の声が響くたび、脳の奥が痺れるような、心地良い熱に浮かされるのだ。言われるままに額縁を越え、歩み寄った佐久早は静かに手を伸ばす。彼女が大切に抱えている、その絹布の中身に興味が湧いた。光を織り込んだなめらかなシルク。息を吹くように微笑う、彼女が喉の奥でころがす歌は祝福だ。この世全ての幸福の源、それがいま自らの腕の中にあるという。彼女の微笑は安らいでいた。己の感情を他者に委ねぬ佐久早でさえ、つられて口許を弛めてしまうほどに。
 間違いなく、彼女は佐久早の幸福の全てだった。だから彼女が欲した、彼女の幸福たるそれはきっと善いものに違いないと、佐久早は彼にしては有り得ざるほど短絡的に確信してしまう。
 惹き寄せられるままに聖母の抱くスワドル、御子の顔にかかる布をそっと持ち上げる。はたして、そこには血塗れた肉塊があった。
 あまりのことに言葉を失い、凝視する視線を逸らすことができない。見間違いであると思いたかった、確かに知識として理解していたはずの、赤子の形をしているそれ。
 醜い。
 佐久早は取り繕う言葉すら見つけ出せずに立ち尽くす。やわらかな絹地に不似合いな、悍しく蠢く肉塊。生まれたての赤黒い皮膚は粘液にふやけ、目鼻の位置さえはっきりしない。これが、こんな不気味が、あのうつくしいひとの。ばらばらと、殴り付けるような不規則な響きが驟雨にも似て床を打つ。布が取り払われ空気に触れた箇所から、血液が溢れ、滴り始めたのだ。純白の石床に見る間に広がりゆく血溜まり。これが彼女と自分の、交わった結果。
 厳密に言えば、いのちの生々しさそのものを穢らわしいと感じたわけではない。
 心臓が脈打つペースで、とぷりとぷりと血を湧き出す。尚も愛おしげにそれを抱く彼女の純白のドレスが赤黒く染め変えられていくことを許せなかった。
 今すぐ手を離せ。佐久早は掠れた喉で、せめてそれだけでも絞り出すべきだった。はやく言わねば。彼女に先手を打たれてしまう、あの夜のように。佐久早がこの展開を夢の中の出来事であると察するのは大体このタイミングだった。何故ならとびきりの悪夢の結末は、彼の最大の過ちは、眠っている間ですら頭にこびりついて消えない。焦燥に支配されて声を詰まらせる彼を嘲るでもなく、聖女の微笑はゆるりと優しい。
「きっと大丈夫。私だって考えていなかったもの、聖臣と一緒になるまでは」
 デジャヴなどではなく、それは確かに、かつて彼女が口にした願いだ。佐久早の記憶にある忌まわしい過去そのものだ。今でも彼を苛む、呪われた願いごと。佐久早は激しく後悔した。耳を塞ごうにも、もう間に合わない。全てが手遅れだ。
「お願い、こどもがほしいの」
 夢はいつもそこで途絶える。




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