欠けて完璧


※佐久早が失敗したり古森が間違えたりする回



 家を買う。やや山がちで不便ではあるが、都市部から離れた閑静な土地だ。3LDKの一戸建、理想としていた新築ではない。しかし、白色系の板材で纏められた内装は全体を明るく見せ、よく手入れされた白木の柱など寧ろ味があるように思う。上部から陽射しを取り込む室内の開放的な様、反面堅牢な印象の外観も気に入った。色味のない石目調の外壁といえばややもすると古めかしく薄汚れた雰囲気に流れがちだが、建物上部にアクセント的に設けられた深い色合いの塗装壁の妙か、重厚ながらもモダンな佇まいに落ち着いている。
 ここ、いいね。口元を綻ばせた妻に同意する形で心を決めた。内覧してきた幾つかの物件の中にはより利便性に優るものもあったが、やはり此処が良いのだろう、彼女が言うのなら。
 カウンターキッチンの向こう側から顔を覗かせた彼女が、広々としたダイニングを見渡しては未来を語る。あまりにも明瞭に、まるで聖女が予言を謳うかの如く。カーテンの柄、ソファの配置、テレビを置くべき角度。一歩、また一歩、佐久早へと歩み寄る彼女のつま先の触れたところから色彩が湧き出てくる。折角の広い庭だ、ガーデニングなんか始めてみようか。咲いた花を活けるとしたら、玄関のニッチにはあの花瓶がいい。むかし喧嘩したとき、聖臣がご機嫌取りに花なんか買っちゃったから慌てて用意した……傑作だったよね、確かワカトシクンの差金だっけ?よりによって、聖臣と同じくらい女心とか分からなさそう。でも、いい友達に恵まれてる。元也くんとかさ、色々落ち着いたら家族で遊びに来てもらおうよ。ほら、あの辺りに大きめのテーブル置いて――……。不意に、星座を結ぶが如く空間をなぞっていた指先が彼女自身の腹をそっと撫で下ろしたので、佐久早の視線もそこに留まる。まだ膨らみを感じさせぬ薄い腹を、恐らく彼女は無意識のうちに。
 この陽だまりの家には、近く三人家族が棲むことになるだろう。彼女が語るような生活を営む、そのうちの一人が自分であることも、そして彼女の他にもう一人が加わることも、文面として理解はできても、どうにも上手く想像がつかない。子供を設ける、そんな未来を示したのも、やはり彼女だったから。不明瞭な事象というものは、本来神経質な佐久早にとっては忌避すべきものである。けれど今、不思議と不安はなかった。
 最後にもう一回り、と先導する彼女について階段を上がり、開け放された扉から一室を覗く。バルコニーへ出入りする掃き出し窓の他に出窓を有する二面採光の居室は、その取り込んだ豊かな光でライトベージュの床材をやわらかく暖めていた。およそ6帖程度のがらんどう。佐久早にとってなんら感慨を齎すものでないその空間――“子供部屋”を見つめる彼女の横顔が、あまりに幸福の確信に満ちていて。不安など、付け入る隙もない。言葉もなく触れてきた体温を静かに受け入れたとき、不確定な未来に臨みながらも心は凪いでいた。同じものを幻視することは未だ叶わないが、己の行き先をその手に委ねることに微かな抵抗さえ覚えない。きっと、そのときがくればわかる。物理的に、実現さえしてしまえば同じものが見えるのだから。信用というのも違う気がする。彼女はとっくに彼の一部だった。彼女が言うのなら、善いのだろう。妻の視線を追い、ただ虚ろにしか見えない部屋を、そこに満ちるありふれた自然光を、無感情に眺めては頷く。


 潔癖のきらいのある従兄弟が選んだ新居について、古森は然程意外には思わなかった。レストランの個室で頭を突き合わせ、せがんでは幾つかの写真を見せてもらいながら、へえ、中古とはいえちゃんとリフォームしてくれてんだ。綺麗でいいじゃん。広いし。隣接してる家もないんだろ?ご近所付き合いとか希薄そうで、聖臣には悪くない環境じゃね。といった感じで。
それにあの明るい家、奥さんにはぴったりだ。チームの飲み会なんかではなかなか頼めない甘いカクテルを掻き混ぜながら、古森は同じくグラスの中で氷を転がしている佐久早を微笑ましく見遣る。彼の飲み物は古森の目にはただの烏龍茶としか映らないが、何かしら拘りがあるのだろう、なかなか口を付けずにいる。この我が強くやや偏執的なところもある男が、きっと家を選ぶにあたっては彼女の意見を一番に重視したのだろう。嫁さんが何言うたってどうせ臣くんて新築しか住めんやん、というのは佐久早の性質について理解の浅い宮侑辺りが勝手に抱いている、まあよくある誤解なのだ。ついでに、彼が飲食店の一切を憎悪しており、死んでも立ち入ることがないというのも宮侑の誤解だった。現に古森とはこのように連れ立って店に入ることもある。プライベートの時間を宮侑との交流に割く気がないだけで。そう。確かに佐久早は慎重且つ、一度始めたことについては一切妥協のない完璧主義者ではあったが、適切に清掃・修繕された店舗や住宅にまで拒絶反応を示すほど極端な衛生観念の持ち主ではない。無論いわゆる“他人の手垢がついている”のを歓迎することはありえないが、その他の条件や金銭面の考慮もあろう。彼が実際に内覧して問題ないと判断したのであればきっと問題ないのだ、どうせこちらが心配するまでもなく、それはもう隅々まで確認しているのだろうし。
 しかしながら、現在アリーナ近隣に居を構える彼を通勤には些か不便な僻地へと至らせた理由というのは古森を大いに驚かせた。子供ができたという。
「で、子育てには相応の環境が要るらしいから……」
「いや、ちょいちょい。初耳なんだけど」
「は?お前こそ二人目考えてるんだろ、今の家だと狭すぎるんじゃねえの」
「そうだけど、そこじゃねえって。何、子供?とりあえずおめでとうだけど、家より先にそっちだろ」
「ああ……」
 そんなことか、とでも言いたげに肩を竦める様に古森は頭を抱えた。戸建を買うつもりであることはかなり前から聞いていたが、その理由として今の今まで、佐久早の口から子どもだなんて匂わされたことすらない。聞けば予定日も迫っているようだが、この分ではチームメイトはおろか他の親族、果てはこの男の両親でさえ知らされていない可能性がある。家族が増えるってめちゃめちゃ大ごとだと俺は思うんだけどな。あれ、俺の感覚がおかしいだけ?こいつって結構な人でなしじゃない?手元のカクテルはとっくに混ざり切っていたが、呷ることも忘れてマドラーを回し続ける。つーか前は子ども要らないとか言ってたじゃん。基本一度言い出したら絶対のくせに、どんな心境の変化だよ。
 たった一単語で混乱の坩堝に突き落とされた従兄弟を、佐久早は暫くは不可解なものを見る目で眺めていた。子供こどもと騒いでいるが、佐久早にとっては単に妻の説得を受けて望みを叶えた形だ。言われるまでもなく生命、人生を預かることの意味は理解しているし、責任感は持っている。中途半端をするつもりはなく、引越しだってそのための準備だった。自分には思い描けなくても、妻の望む未来というのは善いものに違いないから。そこに自分の感情は不要で、ただ夫だとか父だとか、そういう役割があればよくて、しかし。ふと浮かんだ疑問は、やがて消え入るような声で溢れた。
「……こども、」
「え?」
「はじめて子供が生まれた時、お前どう思った」
 古森は勢いよく顔を上げた。幽かな戸惑いに揺れる瞳とかち合う。その深黒は昔から変わらず、光をも含めた一切の干渉を拒絶するが如く、月のない夜の湖が如く。しかしその最も浅い部分だけが、微かな風に乱されたように。あまりのことに古森は絶句する。長く時間を共有してきた同い年の従兄弟が、このように他人の提示する答えを欲するところを初めて見た。
 俺だって――古森はどうにか言葉を選ぼうと、かつて目の前の男と同じ立場に立っていた頃のことを回想し、そして目元を和らげた。いや、流石に聖臣ほどではないか。古森家の長女は早いもので既に二歳の誕生日を迎えようとしていた。その生命を授かったときの、雲を踏むような浮ついた気持ちには覚えがある。人でなしの従兄弟ほどでないにしたって、自分も実際我が子と対面するまでは不安に思うこともあった。父親としての実感というか、自覚というか。そういうのが自分に芽生えるのかって。どころか、生まれた子供を視界に入れた時点でさえまだ手応えを得ていなかった気がする。けれど。
「何か思ったっていうか、腕に抱いた瞬間にわかったよ。この子は俺の子で、俺はこの子の父親だって」
「抽象的すぎる」
「えー?なんだろ、この子がこれから何をしても、どんな子に育ったとしても、無条件に愛しいと思うって確信みたいな?」
「……よく分からない」
「まあまあ、実際生まれたら分かるって」
 釈然としない面持ちで黙り込む佐久早を古森は笑い飛ばした。このときはまだ、誕生のよろこびしか知らなかったために。幸福に由来する楽観的な言動が、この完璧主義の男を苛む呪いに転じるなどとは思い至るはずもなく。


 無条件に愛しいとは感じなかった。
 娘を我が子と思えないという男が無感動に呟く言い回しには覚えがあった。当て擦りのつもりなどないのだろう。佐久早の性格をよく知る古森には、それがただ事実なのだと分かる。血縁は、かつて古森が語ったような無償の愛を担保しない。潔癖的な完璧主義者のこの男は、始め損ねたのだ。彼の妻が生きていれば、或いは何か変わっただろうか。初めて愛したその女性といるとき、彼はまるで人が変わったようであったから。
 佐久早が彼女に、心のどれだけ多くの部分を明け渡していたのか。言葉にされるまでもなく、宿泊を許された佐久早の新居に見える、妻子のかたちをした空白が古森の胸を締め付けた。足を踏み入れた彼の居城は“家族”が住む為に完成されていた。間違いなく彼でなく彼の妻が選んだ多くのものに彩られて。
 佐久早は彼女のために夫たろうとし、彼女の望むまま子を成した。結果愛した妻を失い、父親にはなり損なった。遺された娘にまだ名前すら与えていない。彼女の命と引き換えに生まれたその子を、彼女の命そのものとして愛することもできずに手放そうとしている。
 佐久早の家には、子供を迎え入れるための準備が既に整っている。しかし、父親ならざるその男はその一切を使う気がないという。古森にはなんとなく、この家の未来が見える気がした。埃ひとつない新居は今すでに時を止めており、使われることのないベビーグッズともども、この先も現状を保ち続けるのだ。二階の一番手前にある、あの子供部屋も。彼女が整えたままに。
 時間の止まったこの家に、母を欠いて育ちゆく娘の入る余地はない。
「あの子は、うちの子にするよ」
 既に妻の同意は得ていた。二歳の長女の妹として、これから生まれる第二子の姉として、古森家の次女として迎え入れる。自分が誰かを憐れんでいるのか、それともたった一度だけ自分を頼ったこの完璧主義者への答えを誤った罪滅ぼしなのか。もはや分からなかったがたったひとつ、古森は佐久早の抱かなかったその娘を無条件に愛することができる。その確信があった。古森は佐久早に、自身の次女に与える名を告げた。父にならないその男は、どうでもいい、と呟いた。






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