あいのゆめ


※妻への情で判断力の鈍った佐久早が彼女の願望に耳を傾けてしまう回



 お前がいればそれでいい、と繰り返し言い聞かせてきた。世界はふたりだけで完成されている。それが究極のかたちで、それ以上の広がりは必要ないのだと。言い聞かせる、というときの、その切先が彼女へ突きつけられていたのか、或いはそれが叶っていると確信したい自分自身へと翳されていたのか、今となっては定かでない。けれど確かに、それは呪いであったのだ。
「お前さえいればいい。他にはだれもいらない」
 佐久早がそう口走るとき、女は頷くことも、殊更に咎め立てることもしなかった。彼女の心情は、己が胸へと引き寄せた瞬間の、淋しげな、幽かに微笑うような息遣いによってのみ表出する。都合の良い解釈だろうか、けれども佐久早はそれを同意と見做していた。彼女にも、自分だけがいればいい。真理であった、誰が何と言おうとも。二人の世界は二人で完結している。まるっきり十全に。過不足なく。
 だから、完全であったはずのある一夜に、彼女が意を決したように望みを口にした時、予期せぬ言葉は佐久早の心の奥深くまでを一息に刺し貫いた。
「子どもがほしいの」
佐久早の心は無防備であった。彼女がそんなことを考えているなんて、想像だにしなかったから。

 彼女は不足している。この今を完全でないと感じている。佐久早はそれをなんとか、一旦でも事実として咀嚼しようと試みたが、どうにも上手く呑み込めない。声さえ失って立ち尽くす男に、すぐには無理でも一緒に考えてほしい、と女は告げた。
 子ども。異物ではないか。それは佐久早の理想の中に存在しないものであった。他者だ。この世界にはたった二つの椅子しか存在しない。そのビジョンを彼女も共有していたはずなのに、どうして突然?
 心臓が冷えていく。循環が止まっているかのように新たな血流を感じない。そのくせ胸奥で脈は煩く、破裂の不安さえ伴う勢いでつめたい鮮血を噴き出し続けていた。父親になることが想像できない、お前が母親になることも。お前がいればそれでいい。一対の男女である必要さえなく、ただ俺はお前がいることで血の通った人間になり、それが人生というひとつの問いの正答であると直感している。
 細い肩に手を触れて抱き寄せた。いつものように。布越しに女の頬を心臓に寄せ、凍えるそこに体温を欲する。「聖臣は変わったね」彼女は微笑う、淋しげに。「頑ななのは元々だけど、怖がりになったよ。いつか砕けてしまわないか心配なんだ」佐久早のかたい癖毛を梳く指は、少しの哀れみを帯びて。
 曰く彼女と出逢う前、佐久早はひとりの完成した人間であったという。他人の温度に縋る弱さなど、他者の存在で埋め合わせなければならない空白など持ち合わせてはいなかったと。そうだろうか。佐久早は思う、自分は何も変わっていない。今だって、他者はいらない。彼女が既に他者でなく、自らの一部であるだけだ。彼女は言う。佐久早が彼女を得て人間になったというのなら、尚のこと他者が必要である。家族が必要なのだと。
「赤ちゃんが生まれる前からお父さんだった人なんていないよ。私だって、まだお母さんじゃない。これからなっていくんだよ」
 ふたりで。甘やかな言葉尻に眩暈がした。彼女の物言いは時折、佐久早の価値観に罅を入れる。なぜだか分からない。彼女が言うのなら委ねれば善いのだと、盲目的に信じてしまうような、判断を鈍らせる危ういまでの魅力があった。けれどその結果の悉くは、これまで彼に害を為したことがない。さながら思いもしない幸運へ導く、天啓のようなものであった。
「……引っ越すぞ」
 ややあって、佐久早は答えを出す。流石に驚いたようで、彼女も目を丸くする。
「ええ、聖臣、練習場遠くならない?」
「いい。手狭になるだろ。……子育てには、相応の環境が要ると思う」
 なんとかそれだけ絞り出して、息を吐く。動悸は漸くおさまりつつある。
 妊娠とか出産とかについて、正直に言えばあまり考えたことがない。兄姉や従兄弟の古森には子があったが、漠然と自分の人生とは結び付かない気がしていた。そのために、子というものについて想いを馳せたとき、脳裡を過ったのは甥姪の顔でも、一般的な乳幼児の姿でさえなく。動物だった。たぶん、学校教育などの過程で否応なしに目にした、家畜の出産の映像とかそういうもの。
 命の誕生など、必ずしも美しいものとは限らない。祝福すべきものであると、彼が後天的に、教育によって得た道徳は説くけれど。その概念を最愛の人に重ねるとき、鉄臭い血と、獣の腐臭がどこからか漂い、それが彼女にこびりつくような、言い表せない不快感のようなものが込み上げる。
 それでも、愛は彼に夢を見させた。
 彼女が未来の話をしている。佐久早には想像も及ばない、今以上の光に満ちた人生であるという。理解ができなかった。自分は彼女がいればそれでいい。けれど彼女の望みを叶え、彼女が自分といるこのときに再び満たされてくれるのなら。その腹を破り産まれてくる血塗れた赤子をこの手で抱き留めてやれる気さえした。






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