永遠の欠落


※古森家の養女として育った佐久早の実娘が佐久早の家で母の遺品のコップ割って怒られる



 心の内に抱えた空虚を手放すつもりは毛頭ない。佐久早はその虚ろを愛していた。悲しみの癒えることを、痛みのやわらぐことを、拒絶するのはそのためだ。それらは喪ったもののかたちを明瞭に思い出させてくれる。風穴を埋め合わせようとするものを徹底的に排除した。
 彼に巣食う空白とは、亡くした妻のかたちそのものだった。
 その深淵を覗くとき、まるで今まさに両の腕に抱き留めているかのように、佐久早の五感は最愛の人の気配を呼び起こすことができた。鼻腔に満ちる髪の匂いや身じろぎの加減、吐息のかそけさ、仄かに灯る体温の甘さに至るまで。彼女を構成していたものはなにひとつ失われることはない。忘れるはずがないのだ、心臓の底で静かに口を開く暗闇から目を離さずにいる限り。
 忘れていいはずがない。
 
「……痛っ、」

 リィン、鼓膜が余韻に揺れている。鋭く硬質な音に貫かれて、まだ脳がうまく働かない。砕け散るガラス器の断末魔は大袈裟で呆気なかった。それは頭の奥で長らく欠けていたピースが嵌まる感触と結び付く。
 佐久早が駆けつけたとき、声の主は台所で血を流していた。
 割れて足元に散らばるグラスは彼女の愛用していたもののひとつだ。遺品は取り落とされ、摂理のままにかたちを変えたのだろう。破片の一部に鮮血が付着している。人体をそれなりに深く切り裂いた痕跡だった。頭蓋の中で湯が煮える感覚、眩暈にも似た透明なゆらぎに委せたまま佐久早の思考は情報を整理する。常と比べれば信じ難いほどの鈍重さでもって、しかし冷徹に。先刻声を上げたのは、娘だ。佐久早と生き写しの相貌が、自らの不注意の顛末を怯えたように見下ろしている。
「……おとうさん」
 彼女の声だ、と反射的に思って。直後、狂おしいほどの憎悪と怒りに腹の底をかき混ぜられた佐久早は、縫い付けられたように立ち尽くしたままゆっくりと娘に視線を遣った。一体自分はどのような顔をしているのか。佐久早には己の表情は知れない。呆然としていた黒髪の少女の、引き攣って小さく鳴る喉だけが、彼に用意された鏡であった。
 こんな、彼女と似ても似つかぬ子供に。
 佐久早は無意識のうちに握っていた拳をますますきつく握り締め、せめて舌を打ち鳴らす。ただでさえ慎重で思慮深い佐久早がそのてのひらを商売道具としていた頃ならば有り得なかっただろう、やり場のない感情は彼の皮膚深くに爪を食い込ませて震え、次には少女を傷付けかねない。佐久早が押し込めようとしている衝撃はそれほどまでに強大な威力でもって彼を打ちのめしていた。
 彼女の面影を見出すのははじめてのことだったのだ。それは彼女の血を分けた娘の容貌が、たしかに彼女から受け継いだはずの形質を殆ど顕さなかったこととはまったく無関係に。
 彼女は何にも似ていなかった。花も星も、光や大気も、冷たく澄んだ水すらも、彼女の美しさには及ぶべくもない。ただの一度として、佐久早が彼女を何かに喩えたことはなかった。あらゆるものは彼女の代替には成り得ず、埋め合わせるものなどあってはならない。無論、彼女の血を引く娘でさえも。この世から彼女が失われれば、その欠落は永遠であるはずだった。なにものにも侵されず、佐久早の内に残り続けるその空虚だけが彼女のかたちを証す。塞がるはずのなかったその穴を、今、ひとつパズルのピースが均す感覚があった。嵌って、しまったのか。
 佐久早は一度は娘に遣った視線を引き剥がし、そっと己の深淵を視た。記憶は重ねた時間の分だけ降り積り、彼女の在った空白の地層は既に佐久早の人生の奥深くに埋もれている。しかし手繰るのは容易であった、佐久早は彼女に死なれた瞬間から殆どの時を、その虚ろを見つめて過ごしていたのだから。ただ一瞬、手を、目を、離してしまったところで、すぐさま見失う道理はない。
 果たして、空白は今もそこにあった。佐久早は五感に反芻させ、蘇らせる。あのグラスで、夜眠りにつく前に水を飲むのが彼女の習慣だった。そうだ、彼女の喉を滑り落ちる、あの柑橘の苦味を帯びた冷たい水。彼女に勧められて以来、冷蔵庫には今も欠かさずレモン水が作られてある。
 割れたグラスはいらない。佐久早は安堵と共に思った。物質としての遺品がひとつ失われようと、佐久早のうつくしい人は変わらず瞼の裏にいる、水をひとくち嚥下する毎にますます清くなるような、完成された仕草もそのままに。ベッドに入る前、一日の終わりに台所で突っ立って水を飲む、それは二人の愛すべき儀式だった。グラスは朝になったら洗う。決まり事も、それを提示した彼女が共に立たなくなっても変わらずに。だって、洗い物を放置して寝るのは、と佐久早がスポンジをこっそり手に取ると、彼女が目敏く眦を上げる。頭の後ろにも目がついているのだろうか、一瞬前まで全く別の方向を見ていたはずなのに。グラスは朝洗えばいい。スポンジの泡を流したり、シンクの水滴を拭いたり、そういった作業は儀式と切り離されるべきだと彼女は考えていた。振り返った彼女は隙あらば“楽”から逃げようとする恋人を呆れたように見つめ、そして態とらしく咎める調子でこのように名前を呼ぶのだ──……「……おとうさん」

 佐久早はいつの間にか鎖していた瞼をゆるやかに上げた。娘は傷に構うこともなく、ただ息を詰めて父親の動向を窺っている。痛みよりも恐怖が勝っているのだろう、未だ止まらぬ流血が生白い素足を縄痕のように這っているというのに。佐久早は無意識のうち、その血の筋を視線でなぞっていた。赤々とした血。彼女と佐久早の遺伝子を半分ずつ分け与えられて作られたそれはやはり忌むべきものだった。佐久早の人生最大の失態だ。彼女の生命と引き換えに血塗れて生まれてきた赤子に、剰え佐久早にとって永遠だったはずの彼女の一部さえ上書きされて。
 長い沈黙のうちに痛みを思い出したのだろうか。呼吸さえ潜めていた娘が、とうとう意を決したように口を開く。
「あの……ごめんなさい、これおかあさんの、」
「俺の妻だ」
 辿々しい謝罪を鋭く遮ると、娘は再び息を呑んだ。彼女は、佐久早の恋人だった。それ以外の言葉で形容されるのは堪え難い。佐久早に娘はいらなかったし、本当は彼女にも許すべきではなかった。
「これ以上、俺から奪うな」
 その血を視界から追い出さんと背を向けた。自分の名を呼ぶ彼女の声を思い起こそうと記憶を辿りながら。望めばいつだって耳の奥に満ちていたはずの愛の囁きが、父親を呼び求める頼りない声にすっかり塗り潰されている。






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