息吹く闇色


※古森家の養女として育った佐久早の実娘がなんやかんやあって佐久早ん家で夏休みを過ごす第0話



 私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
 一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、…(中略)…首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。
──太宰治『人間失格』


 写真立てに収めたままの家族写真を伏せて引き出しに仕舞ったのはもうずっと以前のことであったが、今にして思えば、つまるところ私はとっくに自分の正体に察しをつけていたのかもしれない。そんなことを確信めいて回想できるほどに、はじめて言葉にされたはずの真実はいとも容易く胃の腑の底へと滑り落ちた。
 私は──姉妹の中で私だけは、この古森家の実娘ではない。
 十五になったばかりの養女にそれを告げる父の面持ちは沈痛であったが、私は至って平静でいた。凪いだ心に父の重々しい謝罪の声と、“身勝手な頼み事”が沈んで溶けた。

 妹と共有の自室に戻り、長らく開かずにいた学習机の引き出しから、幼い時分に工作した例の歪な紙粘土細工を引っ張り出す。縁に埋め込まれている形のよい貝殻、色とりどりの硝子片、星のかたちに似た珊瑚……懐かしい装飾は小学校低学年の頃、家族旅行で訪れた沖縄の浜辺で拾い集めたものだ。少女時代の宝物が、ひとつ砦を形成せんとばかりに寄り集められ、なにより一等煌めくものであった旅行写真を取り囲んでいる。ある時からひどく悍しいものに思われて、視界に入らぬよう封じ込めた一葉であった。
 ああ、やはり。
 知らず止まっていた呼吸を吹き返すと同時に、吐息ともぼやきともつかぬ何かが零れ落ちる。かつて本能が嗅ぎ取った違和感に遂に名前を与えられ、今再び目見えたその光景に絶望するでもなく、私はただ、ただ納得をした。
 種明かしをされてみれば、どうして目を背けていられると夢見てしまったのかも分からない。今より数年前の写真においても、やはり私だけが決定的に“違って”いる。
 昔から古森家の家族写真の中央を陣取るのは、大抵三姉妹の次女たる私であった。それは恐らく単にバランスの問題であり、この写真もまた例に漏れず。晴れやかな夏空の下、些か柔軟性に欠く表情筋を不器用にゆがめた黒髪の少女が、一様に明るい栗毛の遺伝子を顕した家族の中心に場違いにも据えられている。太陽の表面を汚す醜悪な黒点の如く。ひとり毛色の違う私がそれでも長らくその異様さに無自覚であれたのは、ひとえに私を屈託なく家族として受け入れてくれた古森家の両親の厚情の賜物に違いない。違和感を覚えて尚、それでも今日まで自分が古森家の次女であると疑わずにいられたことも。出生の秘密を知った今、そのことが痛烈に身に沁みた。
 写真の中、いくつになっても笑顔の下手くそな、普段俯きがちな娘に顔を上げさせているのは、その肩に置かれた大きく温かな掌に他ならないのだ。並び立つ娘らの一歩後ろで人懐こい笑みを浮かべる“父”はかつての男子バレーボール日本代表チームの守護神。コート後方でいつも味方を鼓舞してきた、守備の要に相応しい朗らかな頼もしさで以て、家族を背中から包み込んでいる。生来やや卑屈のきらいのあった私にさえ、この共同体こそが自分の居場所であると揺るぎなく錯覚させるほどに。私たち家族の自慢の父。その隣に寄り添い立つに相応しい、気立よく明朗な母の内面は、すらりと背筋の伸びた美しい立ち姿に表れている。優しく誉高い両親に背を預けて、画面の中央に寄り集まる三姉妹はこの頃まだ不安や疑念などとは無縁の世界に生きていた。右手側には父に生き写しの、二歳違いの快活な姉。左手側には柔和なまるい眉をした、万人から愛されるべき微笑を湛えた年子の妹。四人の揃いの色素の薄い髪が、真夏の海辺の太陽光線をきらきらと透かしている。多忙だった父と過ごした数少ない旅行の思い出、この写真は私の宝物だった。やがて成長した私が、この完璧な家族に混入した私という存在の不気味に気が付くまでは。
 色眼鏡さえ外してみれば、ただの一瞥であったとしても、この写真の放つ違和感に気付かぬ人はないだろう。たった一人紛れ込んだ癖毛の黒髪、父にも母にも似つかぬ生白い肌をした長身の娘は、守り包まれるように真ん中に押し込められることで辛うじてこの幸福な画のバランスを崩さずに済んでいる。それでももちろん陰鬱な闇色の髪は、光をも呑み込む深い瞳は、そして不恰好に引き攣ったかたい口元は、このひだまりのような家庭にあってまるっきり異物に違いなかった。異物。その表すところは潜性の遺伝子によって齎された表面的な差異でさえなく、私の正体とは、血肉からなにからまったく他所からもってこられた、完全な不純物なのであった。
 臓物の隙間にじわりと滲み広がる実感に、全身を侵され作り替えられていく心地がする。
 古森家の一員として不適格な己の姿を確と目に焼き付けてから、私は再び写真を伏せた。“身勝手な頼み事”などと前置きつつ、父は私に選択権を残してくれていたのだ。だから自分の願望を振り切るためにはもう父の──古森元也の娘として甘える権利はないのだと、私は私に言い聞かせる必要があった。

「……“彼の人”のところに行ったら、佐久早なまえって名乗った方がいいのかな」
 出立の朝、なんの気なしに口走った言葉は恨言じみて聞こえやしなかっただろうか。運転席に座る彼の目元にぐ、と力が込もるのを見た。私の視線に気付いているのだろうか、すぐさま口元に笑みを浮かべ、横顔は前方を見据えたまま。娘を安心させるための声の、恐らく敢えて軽やかな調子。
「なまえちゃんは、古森なまえだろー」
 古森なまえ。そうであると信じたかった。だから写真を伏せたのだ。私の沈黙をどのように捉えたのか、彼は再び口を開く。
「……身勝手なお願い、聞いてくれてありがとうな」
「うん」
「なまえってさ、俺とママとで話し合って決めた名前なんだ。だから、なまえちゃんは俺たちの娘だよ。どこに行ったって」
「……うん」
 窓の外の見慣れた景色がどろどろと蕩け、遥か後方へ流されていく。私の見知らぬ故郷を目指して、遠縁の“父”はハンドルを切る。トンネルに入り、ガラスに反射した自分の相貌は、父の試合の録画で何度も目にした、かつて父のチームメイトであった“遠縁”の男に恐ろしいほどよく似ていた。

 私に名前を与えなかった父親と過ごす季節が始まる。






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