花摘み人の食卓
5. Hush a bye baby, in a field of flowers.
5. Hush a bye baby, in a field of flowers.
●Hush a bye baby, in a field of flowers.
ずっしりと、お腹の重みで薄く目を開く。まったり心地の良い午睡の終わりは、蕩けるような手触りを伴ってやってくる。
「んー……重いよ、チュチュ……」
ふわふわ、それとごく軽い静電気みたいなぱちぱちを織り交ぜて、寝ぼけ眼で探る温もりは、ピカの毛並みよりも更にやわらかい。まばたきを繰り返すうち徐々に明瞭になっていく黄色く丸みを帯びた輪郭は、まさしく愛嬌のかたまりのよう。
新しいともだちのチュチュは可愛らしいメスのピカチュウだ。耳元に飾った花がトレードマークで、その女の子らしさときたらボクなんか到底敵わない。出会ったのはほんの最近のことだ。怪我を手当てしてあげたのがきっかけで、近頃は森に入るたび、元気に走れるまでになった彼女がじゃれついてくる。ああ、いい加減にモンスターボールを買いに行かなくてはなあ。きっとボクと暮らすことを望んでくれている、てのひらを翳さなくたって伝わるくらい、彼女はボクに好意的だ。
釣りをしながらチュチュを待っているうちに眠ってしまっていたらしい。晩冬の空気はひんやりと冷たくも、ひなたのあたたかさは寧ろ夏などよりずっとお昼寝に適している。家を出たのは朝だったけれど、もうすっかり陽の位置が高い。そろそろお昼だ。それがわかってチュチュもボクを起こしたのだろう。釣竿を担ぎ、ピクニック・バスケットを片手に立ち上がると、チュチュはくるくると嬉しそうに走り回る。
「今日はどこでごはんにしようか」
先導するチュチュの弾む足取りを追いながら、のんびりと森を歩く。トキワの広大な自然の中で生まれ育ったチュチュは、そのうちの一部でしかない人間の町に暮らしていては知り得ない穴場もたくさん知っていた。彼女は特に草花に詳しく、四季折々、最も花が咲き誇る野を熟知しているらしい。彼女の案内で巡るトキワは常に新たな発見に溢れ、ボクを感動させた。晴れた日は彼女のお気に入りの場所で一緒にごはんを食べる、それが最近のボクの楽しみだ。
辿り着いたその場所は一面が白く染まっており、ボクは束の間、それを名残の雪と見紛っていた。
「スノードロップか……こんなに集まって咲く場所があったんだね」
知らなかったなあ、と感嘆するボクを見上げて、森の案内人はいたくご満悦だ。
ボクは取り出したスケッチブックをぱらぱらと捲り、随分前にスケッチした、道端でぽつりと俯いていた花の絵を探し出す。同じスノードロップ、春の使者とも呼ばれるその花は、ひとつひとつは小さく可憐だ。見比べた目の前の景色、疎らに生えた背の高い樹々の足元を縫って、清楚な白の絨毯が視界の果てまでずうっと続いている。それは見事な群生だった。知らなかった、ともう一度呟く。満開の花々は、スケッチブックに描きとられた寂しげな印象とは随分異なり、品良くも力強く根を張っていた。
ボクは花園の縁に近付き、そっと腰を下ろした。バスケットを開き、サンドウィッチを取り出す。食パンの耳を落とし、やわらかな部分だけを使うというのは、なんだかとても贅沢だ。挟んだ具材は、ひとつめはクランベリーで作ったジャム。先日、森で摘んできた。ふたつめは自信作の目玉焼きとハム。サンドウィッチふたつ、それきりの昼食だ。けれど、余すところなく尊い、ボクのための昼食。
いただきます、と合わせた手が死の冷たさを知っていることは、裏を返せばこの手がいま温かくあることの証明として。誰かに分け与えられるだけの温もりを保ち続けていることは誇らしくもある。
各々のごはんを食べ終えたみんなと一緒に、開けっ放しのバスケットに入れてあるパンの耳を囲む。切り落とした後の耳をおやつに食べる、二度楽しめるというよろこびもサンドウィッチのもつ贅沢のひとつだ。
けれど、おませなチュチュは、もっといいことがあるよとばかりにボクの裾を引いて花の中に引き込む。せがまれるまま屈み込んだボクは、雪色の鈴のように光を透かす花の、そのひとひらずつを眺めた。チュチュもまた吟味するように、花の匂いを嗅いでいる。やがて彼女の選んだひと茎、そのしっとりとした花柄に手を添え、ボクはその内に巡る水を想った。血潮をもつボクらと同じく、静かに脈打っている。
チュチュの耳元には、いつでも一輪、花が飾ってある。彼女に望まれるまま、それを摘むのはもっぱらボクの仕事だ。彼女は森に咲く花を愛しており、常に身につけていたいのだという。誰かに贈る花を摘むことにも、必要なだけのベリーを採ることにも、今や抵抗がなかった。これはボクの鈍感ではない。それらのいのちが、遠い星の光ように、霞んでいるわけでもない。ただ、チュチュが、ボクが望むのなら、森もそれを望んでいる。どうしてだろう、今ボクはそんなふうにわかるのだ。いのちの不可逆を知るように。ワタルの深淵とつながったときのように。
森を満たす静かな陰と、優しい光、ボクはその中で生きている。許されながら、許しながら、生きていく。ボクはワタルとぶつかり、彼を通して自分を見つめ、そして漸くそれを知ったのだ。
ぷつり、軽い音を立てて、力を込めた丁度その箇所からきれいに花軸を離れた花は、美しいまま呼吸を続けた。花冠をなくしたみどりの茎が、軽くなったと微笑って揺れる。陰惨な殺害はなく、それはただ恩寵のひとつのかたちだ。奪ったのではなく、与えられた。漸く気付いたボクなんかより、ずっと早くに知っていたのだろう、くすぐったそうに目を細めて花を受け入れるチュチュは、感謝と愛を歌い慣れている。
いずれワタルも、ここに帰ってきたらいい。素直な気持ちで、ボクはそれを願う。竜を駆る彼がここに降り立つとき、森の葉は親しく語りかけ、赦しの風が彼を包むはずだ。どこにいたってボクは、それで彼の訪れを知る。彼の好物はいったいなんだろうか、ボクにもつくれるものだといいな。ふたりで囲むためのテーブルを簡単に片付けて、ボクは彼を出迎えるため、常盤の森へと駆けていく。
そのときがきたら、あなたに花をあげようと思うんだ。
(了)
(花摘み人の食卓6/6)