花摘み人の食卓
4. My fair ×××.




●My fair ×××.


 ダイニングの大きな窓から差し込む光がレースカーテン越しにも過ぎるくらいに眩しい午後のことだった。
「誰も、ボクをひとごろしとは呼ばないんですよね」
 その頃ボクの右手はまだギブスで固定されており、テーブルに並ぶ芸術的な昼食の、そのミートソース・スパゲッティを作ってくれたのはブルーさんだった。
 利き腕を骨折していては不便だろうから。そう言っては何かと世話を焼きにくるブルーさん、恐ろしく察しのいいこの人が怪我の具合などよりも内面的な部分を心配してくれていることに、ボクは漸く気付き始めていた。ボクの心に癒え難い傷があることを。当人であるボクでさえつい最近まで省みなかったそれを、とっくに見透かされていたことに気が付いたがゆえの甘えだろうか。ブルーさんの饒舌に刺激されるように、ずっと喉奥につかえていた言葉がその日、思いがけずなめらかに滑り出たのだ。それは温度のない呟きだった。不満のようでもあり、疑問のようでもあり、それでいてもっと無垢な、事実の言語化に過ぎない。
「ボクはワタルをころしたのに」
 ボクは左手でフォークを扱い、パスタとソースを絡めていく。随分慣れたものだと思う。ブルーさんにミートソース・スパゲッティをリクエストしたのはこの時で四度目だ。そんな食べにくいものでいいの、とブルーさんは初め困惑していたが、寧ろ食べにくいものは一人だと難しいからとお願いすれば、腕によりをかけてくれた。
 色々と御託を並べはしたけど、単純にスパゲッティはボクの好物だった。けれど、はじめてブルーさんのそれを前にしたときには思わず歓声を上げたものだ。こんな素晴らしいミートソース・スパゲッティはお店でだって見たことがない。身を乗り出して覗き込んだ顔をふわりと包む、小麦の芳香をはらんだ湯気。アルデンテに茹で上がった麺は艶やかで、薄っすらと透けた周縁部が神秘的でさえある。渦を巻くように盛り付けられた、その一本一本均整のとれた麺の流れを崩すことなく、バランスよくかぶせられたソースのコントラスト。ごろごろとした挽肉の舌触りを想像するだけで胃袋が切ないくらいに収縮した。今まで喜んで食べてきたパスタのどれよりも、魅力的で完璧なミートソース・スパゲッティだった。
「これ……た、食べていいんですか?」
「アラ、食べなきゃどうするの」
「あ、そ、そうですよね……。もったいないくらいだけど……」
 まだ無自覚という目隠しに覆われていた食卓の、和やかなやりとりが懐かしい。いまやボクは、ブルーさんに頼らなくても、利き手と反対の手で器用にスパゲッティを巻くことができる。それでも相変わらずブルーさんの作るミートソース・スパゲッティはボクの最上のよろこびだった。ワタルにも好物があっただろうか。ふと過ぎる、もしもワタルが死んでしまったのなら、それはボクが永遠にこのミートソース・スパゲッティを奪われることと同義なのだ。仮に生きていたとして、一度ボクにころされた彼がそれ以前と全く変わらずに好物を味わう様を、ボクは想像できなかった。
 ひとごろし、と。ややあって、ブルーさんは復唱した。彼女の舌先で転がされると、その響きはボクの内にあるものと少し異なって聞こえる。そこで何か、期待のような戦慄きが自分の内側に芽吹くのを感じた。しかし、「違うわね。イエロー、あなたはひとごろしなんかじゃないわ」それは彼女の否定によってすぐさま霧散した。
「言っていたじゃない、みんなを守る……あなたの願いはやさしかった。あなたは正しいことをしたの。少なくともアタシはそう信じてる」
 それに、と、ブルーさんは努めて明るい声で畳み掛ける。きっと、全て、用意されていた答えだ。声の調子や、テンポ、タイミング。その調律を恐らくブルーさんはあらかじめ計算していた。この時を予期して、ボクを掬い上げるために。
「あの後、ワタルが死んでしまったとも限らないわ。証拠がないもの! あの男、きっとどこかでしぶとく生き延びて……」
「ったとえそうだとしても!」
 とうとうボクは声を荒げた。自分でわかっていた、これじゃあ、駄々をこねる子どもと変わらない。
 ワタルの生死についての哲学は、ボクだけのものだった。誰の理解の及ぶものでもない、それは、ワタルとボクとの関係性と同じ。当事者の手にのみ残る深淵の感触であることは、頭では分かっている。それなのに、どうしても収まらない、心臓に刻まれた傷の疼き。花を手折ったことのないボクのそれは、茎をずたずたに引きちぎってしまうような稚拙さで表出する。
 勢いよく皿に叩きつけられたフォークの鋭い悲鳴や、驚きに見開かれるブルーさんの青い瞳、ボールの中で不安げに揺れるなかまたちの目が、ますますボクを追い込んだ。
「……それでもやっぱり、ボクがワタルをころしてしまったことに変わりはないんです」
 そうまでしても尚、誰もボクを責めようとはしなかった。

 折れた腕が完治し、表向きには闘いの傷痕など見とめられなくなってからも、ブルーさんは相変わらず色々と理由をつけて会いにきてくれた。ただ、今日は少しばかり事情が違う。それは彼女がボクを呼び出す際に指定した待ち合わせ場所から分かることだ。
 それはトキワの森の一角にあった。人間の通行のために整備された道を外れ、時折やせいポケモンを探すトレーナーが徘徊する獣道から更に分け入って辿り着く森の深部。特有の静謐を湛えながらも、風の日に葉々の隙間からちらつく陽射しのあたたかな、少しだけ拓けた土地だ。ミートソース・スパゲッティを囲んだあの昼食の後日、ボクはこの場所を見つけ出し、それを作ることにした。
「いいんじゃないかしら」この場所に案内した最初のとき、ブルーさんはそよ風と戯れるようにそっと目を細めた。端正な横顔は変わらずやさしく、海より深い瞳は木漏れ日の染み込んだ暖色の土を映していた。「あなたが決めたのなら、アタシは、それがなによりいいと思う」後々になって。彼女はもしかしたら、ボクが彼の後を追いたがっていると、そう考えていたのではないかとボクは推測した。そうだとしたら、それはまったく的外れということもないかもしれない。その時はそんな風にも思った。
 ボクが陽だまりに植えたもの。野の花よりは頑丈で、ボクが触れても壊れない。それでいてボクが見舞わなければ、いずれは朽ちる程度に脆い。それは、大振りの枯れ枝を括り合わせて作った粗末な十字架を土に突き立て、その根元を川辺で見つけた竜の鱗を思わせる平たい石がいくつか身を寄せ合うようにして支えているだけの、ごく簡素な作りをしていた。簡単に飛ばされたりはしないよう、せめて建てるときは力持ちのゴロすけに手伝ってもらった。あんまり強い風が吹いたら、やっぱり危ないかもしれないけれど。
 供え物はない。ボクは花を摘めないから。勿論、地中に遺骨もなければ、名前を刻んだ箇所すらない。まるっきり空疎だ。孤独な食卓のように空っぽのそれを、それでもボクはその名で呼ぶ。
「ワタル、の──」
 既にその場所でボクを待っていたブルーさんが、呼びかけを受けて振り返る。
「何か、ワタルについて……分かったんですか」
 絞り出した声は、思いのほか震えていた。ブルーさんの口元が静かに笑みを湛えていたから、決定的な言葉を待たずとも、ボクは確信してしまったのだ。

 あのワタルが、この世界の何処かでまだ、生きているということを。

 そのとき森が騒めいて、一陣の風が吹き抜けた。竜の羽搏きのような突風。ああ、やっぱり、つくりが簡単すぎたのかなあ。それとも、これは森の意思だろうか。素朴な墓標を狙い澄ましたかのように巻き上げて、遠い空へと攫っていく。
 さらさらと、葉と葉の重なりの合間を縫って、光が零れ落ちてくる。光が、滲んでいく。
「イエロー」
 俯いて立ち尽くすボクの名前を、ブルーさんはそっと口ずさむように唇に乗せた。
「まっすぐ立ちなさい、背中がまるまっているわ。ほら、肩も。視線も。そんなんじゃ一生、帽子かぶったままね」
 ああ、このやさしい人は本当はこのために帽子をくれたのかもしれない。そう思わずにはいられないほど、鍔広の帽子は込み上げるものを隠すのに都合がよかったし、ブルーさんの声色はいたわりに満ちていた。
 慈しみ深いてのひらの温度を手袋で包み隠したまま、歩み寄ってきたブルーさんは慣れたようにボクに触れた。いったいどんな半生を送ってきたのだろう、ボクとふたつしか違わないこの人は、この齢にして、聖母が子どもをあやす仕方を知っているのだ。ボクが誰かに責められたいと願う反面、不甲斐なくも求めていたその通りのやさしさを、ブルーさんはそっくり見抜いて与えてくれていた。ボクがレッドさんでもグリーンさんでもなくブルーさんに打ち明けたのは、本能的にこうなることを知っていたからだろう。ボクが今日まで、自分の中に秘められていた願望すら曖昧なままに、それでも壊れず立っていられたのは、この人のお陰と言っていい。
「ワタルの所在までは分からない。けど、確かに生きているわ。……アタシ、おとうとがいるんだけどね、どうやら彼と接触しているようなの」
「そう、なんですね……」
 初めてボクは涙を流した。そして、本心から、安堵の息を吐いた。

「よかった」

 やっぱり、ボクがワタルをころした。あの電撃が、ボクの殺意でも破壊の力でもなく、ワタルの命を奪わなかったと知って尚、その認識が変わることはない。ただ、その実感は、ボクがボクの思想のために他者の思想を殺してしまえる人間だったというその衝撃を指すのであって、ワタルの生死すら実際には問題ではないのだと、そんな風に思っていた。けれど今、ワタルが生きていると分かって、こんなにも安らいでいるボクがいる。憑き物が落ちたかのように。たとえ、ワタルが未だ改心していなかったとして、今でも人を憎んでいるとして、それでもただ生きていることを、ボクは心から祝福できた。そしてそれは、鏡の反射のようにボクにまで降り注ぎ、あの瞬間、あの凶暴な光の記憶、ボクが彼をころしたことさえも、ずっとやわらかな光で包んでくれる気がした。
 赦しとは、きっと、仮初めの墓標を攫い、ボクの頬を撫でていった、あの風のことを言う。
「……ねえ、イエロー。いつかでいいわ。ワタルに会いたいと思う?」
 穏やかな問いかけに迷わず頷いた。そうだ、ボクは、ワタルとゆっくり話をしてみたかったんだなあ。
 生のすぐそばに常に死が付き随う、生きる限り犠牲の上に生かされる、思想をもてば思想とぶつかり、傷付く。傷付ける。そのことに変わりはなく、延々と終わりがなくとも。
 ボクも、生きていきたい。
 彼が生きていると知って、今はじめて生まれたように、ボクはそんなことを思った。
 察しのいいブルーさんのことだから、そんなボクの感情の機微なんて全部お見通しなのだろう。彼女は表情を緩めてボクの手を引いた。
「さ、帰りましょうか」
「はい!」
「あ、そうだ、今日ここに呼び出したのはね、晴れてワタルが生きてるってわかったから、あの辛気くさいお墓壊しちゃおうと思ったのよ! カメちゃんのハイドロポンプで盛大にね! そしたら風が全部もってっちゃったじゃない、折角こんな森の奥まで来たっていうのに……楽しみがなくなっちゃったわ!」
「あはは……」
 帰ったら、きっと、ブルーさんはミートソース・スパゲッティを作ってくれるつもりだろう。あの少しばかり手狭なテーブルを囲んで、ブルーさんと、もしかしたらレッドさんやグリーンさんも呼んで、ポケモンたちもみんなでお昼ごはんを食べるんだ。食卓に満ちる幸福な光をボクは空想する。思い浮かべた光景の中でみんなと一緒に笑うボクは、小さな椅子に収まって、きちんと脚を揃えていた。



(花摘み人の食卓5/6)


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