花摘み人の食卓
3. Everyone couldn't put eggs together again.




●Everyone couldn't put eggs together again.


 眼球を薄く覆っていた涙の膜が、目を見開いた衝撃で頬へと流れた。温い水の這い跡を即座に塗り替えるのは、いつまでも肌に纏わりついている、底冷えのする夜の名残。
 寝起きの眼をいくら擦ったところで夢の残滓を拭い去ることは叶わない。過去と現在が地続きであるのと同様に、悪夢と現実の境界線もまた、曖昧にぼやけたまま。もぞもぞとベッドを這い出ては、裸足で歩くフローリングの冷たさにさえ、凍りつくようなあの島の空気を思い起こす、こんな夜明けが一生付き纏うのだろうか。
 台所の手前で壁をまさぐり、電気のスイッチを切り替える。ぱちんと小気味よい音から数秒、蛍光灯が憂鬱そうに瞬きながら目を覚ました。鋭い光が降り注ぐと、空間を満遍なく満たしていた薄闇は鍋や調味料瓶の陰に追いやられ、たちまちのうちに濃度を増す。住処を奪われて憎しみを研ぎ澄ます獣にも似て。ボクはぼーっと立ち尽くしたまま、頭上で明滅する潔癖な光を見上げていた。

 スオウ島上空での闘いは、数ヶ月を経ても未だ鮮明だ。中でも、ジムバッジから発生したエネルギーのかたまりを吹き飛ばす、そのためにぶつけた電撃がワタルを呑み込んだあの瞬間。光に侵食され消えていく輪郭を最後まで睨み据えていた、だからそのかたちが陰となって、火傷のように眼裏から消えない。
 ぶつかり合って弾けた巨大なエネルギーは荒れた土に花を咲かせた。破壊の力は飛び散るさなか、与える力に変わっていったという。それがやさしさや思い遣りによって成された奇跡であり、ボクの本質がそういったものだったからこそ起こり得たのだと言う人もいた。何にしてもその現象にトキワの力が関わっていることには疑いがない。けれど、とボクの頭は、何度だって同じ問いに巡りつく。あの刹那、ワタルを包んだあの光は、はたして既に変質していただろうか。ボクはワタルに、自分のもつものと限りなく近い願いを抱き、その実現のため決定的に相容れぬ手段を用いた男に、破壊の力を破壊の力のまま、ぶつけることができてしまったのではないだろうか。自問は繰り返すうちに自己暗示と化し、自分の思想を守るために利己的に他者を退けた経験として心臓に刻まれ、今も血を流させる。肉と包丁との間に生じる斥力を制する時も、建てつけの悪い扉を動かそうとする筋肉の僅かな力みにさえ、敏感に反応して。

 夜ごとの浅い眠りの中、何度も何度も光を見た。光に熔かされる影を見た。

 まだてのひらが覚えている、あのカイリューの、ひたむきにワタルを慕う想い。傷付いたポケモンたちの英雄となるかもしれなかったワタルは、彼ほどの痛みを知らずただ生かされてきたボクに、チキン・ソテーのように呑み込まれてしまったのだ。なお救い難いことに、あの出来事はボクの養分ともならず、意味付けされぬまま、未だ胃袋の底で消化を待って眠っている。実のところ、ワタルの生死さえ問題でないように今のボクには思えていた。ただ、ボクのはじめての殺害がボクを生かすための肉もサラダも齎さず、ただボクの我を徹すためだけに成されたのではないかという、その疑念がボクの内にあることそれ自体が、十分な衝撃として、ボクに瘡蓋を作らせずにいる。もしもあの瞬間、人とポケモンを守るために、バッジのエネルギーのみならずワタルとワタルのポケモンたちまでも消し飛ばすことをボクが無意識下で望んでいたのだとしたら。それはワタルの理想のうちで最も許し難かった部分を、ボクもまた保持していたということにほかならないのだから。
 いずれにせよボクの本質はやさしさなどではありえない。

 朝ごはんには目玉焼きをつくろう。とっくに動揺を止めた蛍光灯から視線を剥がし、ボクは冷蔵庫の中でしめやかに息を潜める無精卵の群れからひとつを選び取った。命になりそこなったこれらは、ボクのためにしぬこともなければ、誰かにころされることもない。だというのに、脆く空虚を湛えた硬質な殻は、生きて死を待ついきものたちのやわらかな皮膚よりずっと臆病に見えた。そんな脆弱な卵をボクは容赦なく調理台の角に打ち付ける。一回、二回。いざ割り開くとき、加減を誤った親指が殻を貫き、フライパンに落下した黄身は無様にひしゃげてしまった。この期に及んで、やさしく卵を割る方法にさえ無頓着なボクだ。生憎と慣れたもので、感傷に浸る間も無くすぐさま思考は切り替わる。この後何をすべきか。ボクは白身に溺れた殻の破片を手早く除去し、そのまま菜箸で全体を攪拌する。
 朝食は簡単だ。黄身を潰してしまったって、かき混ぜてしまえばもう分からない。ポップアップトースターからトーストが飛び出す頃には、すっかりケチャップで飾り付けられたスクランブル・エッグが、簡素な皿を春の花のように彩っていることだろう。

 ボクは今でも、ワタルのしようとしたことを許せない。人とポケモンは共存できると信じた自分の判断は間違ってはいないと思っている。それなのにボクの思想のために噛み砕かれた彼のことを今更とも思わず、こうも延々と考え続けているなんて、誰かに打ち明けてみれば栓のないことだと笑い飛ばしてもらえるかな。チキン・ソテーの生前を想うのとどちらがより不毛なのか、議論してみてもいい。
 結局のところ、ボクは生まれてこれまで、ただ鈍感だったのだ。実際にこの手で触れるまで、自分に知らないことがあることさえ知らなかった。
 愚鈍、それはある意味においてやさしさと最も離れたところにある性質といえるだろう。例えるならば、そうだ、この黄金色の蜜の、気怠く微睡むような在り方に尽きる。ボクはたったいま棚から取り出したガラス瓶をまじまじと光に透かしてみた。瓶を満たす粘性の液体は、低く傾いた方を目指して惰性のように這いずっていく。その姿はまさしく、生かされていることにさえ気付かないままの。木製スプーンを差し入れられ、絡め取られ、引き裂かれたって、なんともない顔をして、やはり重力に従って垂れ落ちていくばかり。緩慢に流されて咎められることもない、その眠れる蜂蜜がボクだった。
 今でこそボクは、トーストに塗られる蜂蜜と、瓶に残された方の差について、少しばかり考えもする。しかし、蜂蜜はそんなことに思い当たらない。蜂蜜は痛みという概念を知らないからだ。誰も傷付けないし、傷付かない、それが己の在り方だと盲信している。瓶の中の空気の割合が徐々に増えていくことにだって気付きもしない。そして、それに気が付いたところで、そう簡単には抜け出せないのが、この粘度の高い夢なのである。
 そうだ、色々と考えを巡らせたつもりになってはいるけれど、ボクは自分が、ワタルに生きていてほしいと思っているのかどうか、それさえはっきりとはわからないのだ。

 依然としてワタルの遺体は見つかっていない。いつか、ワタルの最後についてぽつりとこぼした時、ブルーさんがボクを諭した。ワタルが生きているという確証がないのと同じく、彼の命が絶たれたという決定的な証拠もまた、どこにもありはしないのだと。その通りだ。それでもボクがワタルをころした、その事実が揺らぐことはなかった。どころか、この世に確かなことなど、それきりであるかのようにさえ思われた。
 ワタルの生命が絶たれていようがいまいが、あの瞬間、自分の信念を刃として振り翳し、弱さゆえの暴力を御しきれぬまま、たしかに不可逆的に、ボクはワタルから「奪った」のだ。
 それが死だ。ボクは自分の手で、無意識且つ主体的に、ワタルを殺そうとし、そしてあの電撃を放った。そう、無意識だ。記憶がない。だからその殺意というのがボクの思い違いであるという可能性も捨てきれない。けれども既知となったその感触がずっと消えずにある。そればかりが頭を支配して、うつろな食卓を見下ろす視界は、かつて鏡写しの男と睨み合ったあの高さから。
 突然、かたかたと、テーブルの上のモンスターボールがふるえた。はやおきでせっかちなドドすけが、ボールの中から心配そうにこちらを見ている。そうだ、そろそろ出かける準備をしなくてはね。ブルーさんに呼び出されているんだ。今日伝えられることが、良い知らせなのか悪い知らせなのか、それを聞いたボクに何を齎すのか、それはまだわからないけれど。
 答えながらも、のろのろと、トーストを齧るペースは変わらない。こんがりと色付いた表面に、歯を突き立て、喰い千切る、その繰り返しはコマ送りのように。噛みしめるたび染み出す蜂蜜が甘く舌を焼く。口直しに待ち受けるのは華やかな彩りの、しかし二度と殻には戻れない恨みがましげなスクランブル・エッグ。
 食卓に射す朝日はすっかり見慣れた冷たい色をしている。



(花摘み人の食卓4/6)


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