撫でる手




 いつだって温度のない革手袋の感触。私の前髪をくしゃりと掴んで、或いはぽんと軽く叩いて。それで撫でたという認識なのだろう。そして「じゃあな」と一言呟く。足音さえなく部屋に立ち入り、いつも寝たふりをしている子供に何を語りかけるでもないくせに、沈黙の時間の末の別れの挨拶だけは律儀だ。その左手が退いた後、額には温もり一つ残らない。まるっきり作業じみた無機質な接触。
「……また来るぜぇ」
「二度と来ないで!」
 話し声は玄関の方から。ヒステリックに何事か捲し立てた末尾に硬質な音が鋭く重なり、次いで疎らに床を打つ。母の投げた皿は標的を逸れ、閉ざされた扉で砕けたのだろう。膝をついて泣き崩れる彼女も散らばる破片の一つみたいだ。いつも壊れる。あの長髪の男が顔を見せるたび優しい母は粉々になった。泣いて、聞き取れないほど酷い金切り声で喚いて、狂ってしまったかのように。
 母と男との間に横たわるものが何かは分からない、尋ねてみたこともない。恐慌の波が過ぎ去るまでずっと毛布を被って息を詰めているだけだ。恐ろしかった。だって、いつか薄目に窺ったあの男の容貌は。……悍ましいことだ。母を追い詰める凶相の面影がずっと、今も、彼女と一つ屋根の下にあるなんて。

 ベッドの下に刃物を忍ばせたのは、常に唐突な彼の来訪が決まって“子供の寝付いた”夜であるから。申し訳程度に私の顔を覗き込みつつ、奴の関心が母にしかないことを知っている。

 あの男を殺そう。
 静かな朝だった、何のことはない幾度も繰り返された日常の一コマだ。居間で通帳を眺める母の疲れた横顔を見て、ふとそれを思い付いた。口座には母が毎日身を粉にして得る賃金の、その何ヶ月分という金額が定期的に振り込まれるらしい。これまでの累積にすれば恐らく数年は暮らすに支障ないほど。困窮する生活の中で、時折母はそれを見つめる。しかし、(あの人の稼ぎよ、血腥いお金だわ。あの子の人生には関わらせない)青褪めた顔が再び上を向くとき、決まって悲壮な決意を漲らせている。そして何事もなかったかのように通帳を仕舞い働きに出る、母は身を削る、我が子を育てるために。
 せめて母の好物をと包丁を手に取れば、冷たい銀の煌めきが天啓の如く瞳に刺さる。この刃、とよく似ている、あの銀色の長い髪。あの男さえ世から消えれば金は誰のものでもない。ただ残された金だ。経緯なんて関係なく母の手元にあるだけの金。肺の奥に引き攣れるような震えが起きて、口端から洩れた耳障りな呼気はどうやら自分の笑い声だ。素晴らしい名案に、我と我が身を掻き抱く。子供心に確かに願っていた。母を楽にしてあげたい。解放するのだ。あの男から、そして私を背負う負担から、少しでも母を、そのためなら私は。しかしこうも血が沸くのは使命感よりも根源的な、暴力の興奮に当てられてか。やるのだ。やってみせる、私が。あの男が何者であろうと。

 殺してやる。

 振り翳した包丁が例の黒い革手袋に食い込む。手袋越しのあの硬い、温度のない左手の──義手、だったのか。
「悪くねぇ」
 男は潜めた声で言った、居間で泣いている母に聞かせないためだろう。血の通った右掌が抜かりなく私の口を覆う。
「太刀筋が、って話じゃねぇぞぉ。剣技もクソもねぇ、素人のガキが鈍らぶん回しただけでンなもんあってたまるか。見込みがあるのはその殺意だ、剣に懸け、ただ闘争に惹かれる資質だ」
 長身を軽く屈め、流れる銀糸で帳を下ろす。男の左手が凄まじい力で刃を押し返したので、私の利き手は柄を放すこともできぬままベッドシーツに縫い留められた。否、おかしなことには、そもそも手放す気もなかったのだ。完全に抑えられているというのに、勝敗が決したことは明らかなのに、私の指は未だ開かず選んだ武器を──“剣”を握り込んでいる。まだ殺すつもりでいた。母のためではない。はっきりと自覚する。まして金なんて、この先の生活さえどうでもいいと思っている。
 まるで後先考えず、血の臭いにのみ反応し喰らいつく貪欲な鮫のように。
 眩しい、と不意の感覚に目を眇める。一筋きり射し込む月光が子供部屋の闇を希釈し、凡ゆるものの輪郭を不確かに濁らせるなか、手中の刃と鋼色の長髪だけが破砕した水晶の断面にも似て鋭利に、明瞭に光を照り返していた。網膜を貫き、痛みとして脳まで突き刺さるような光だ。こんなに輝くものがあるのか。自由の利く左手で、顔の横に垂れ落ちてくる長い髪の筋を手繰った。冷たく滑らかな手触りがやはり刃を思わせる。剣。丁度このくらい手に馴染む、私だけの剣が欲しい。そして。そしていつか──……そのために全てを懸けられる。
「……う゛お゛ぉい、どう考えてもオレの血だなぁ」
 口にした望みはくぐもって、ついぞ音にならなかったけれど。押さえ付ける掌を伝ってどうやら過たず届いたらしい。苦笑を繕ったつもりのようだが、その顔に浮かぶ凶悪な相ときたら。口の端を大袈裟なほど吊り上げて、如何にも残忍で、まるで鏡を見ているみたいだ。
「またあいつには泣かれちまうが……いや、バレなきゃ問題ねぇか? そもそも現在進行形で手遅れみてぇなとこあるからなぁ」
 ぼやきつつもどこか浮かれた色を隠し切れず、男はそわそわと扉を振り向いた。此処からは見えないけれど、壁の向こうで母は今も泣いている。……お労しい母様。恐らくこの男と出会ってからずっと、この先も、永遠にこの身勝手な男のために涙を流す運命なのだ。口先だけで悪びれつつ、男は壊した女など慮ることもない。血塗れた金を平気で投げ寄越し、その一切がこの貧しくも清廉な家のために使われていないことなど気が付いてさえいないのだろう。そしてきっと一人で死ぬ。妻子を顧みることもなく、何処かで勝手に死んでしまう。
 だから殺す、誰よりも先に。剣をとって、学び、超えて。この手で殺して、いずれその業の一切を奪い取ってやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる!
 子の吐く呪詛を掌で受け止めて、奴は父親の顔などしない。けれどしなやかな指先で額を、初めて、本当に撫でた。


(7/7)


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