×されたかった。




 キリスト教徒(クリスティアーナ)だった母の身体は敬虔むなしく燃やされたという。あの御方の掌の炎で、それも絶命する前に。“最後の審判”で還るべき肉体を灰にされ、復活を否定され、神の御許へ招かれることなく。永久に地上から消えたのだ。そんな悲劇を聞かされたときも胸にさしたる感慨はなかった。それは自分がまだほんの幼い頃の出来事で、そもそも記憶に母はいない。父も、いない、と言って良いのだろうか。少なくとも思い返せるだけの過去の中には見当たらない。母の夫としての貌も、我が父としての振る舞いもまた。
 独立暗殺部隊ヴァリアーの首領、絶対君主たる我らが覇王。母を殺めたザンザス様の遺伝子がこの身の半分を形成しているだなんて実際眉唾物の噂話だ。そう、当事者にとってさえ。

 仕事道具の刃物を戯れに弄んでは、磨き上げたその鏡面にちらつく子どもと見つめ合う。柔和な印象の面差しに獅子たる要素は見出せず。持って生まれた肌は白く、癖毛の髪も色素が薄い。滑らかなまるい額、下がりがちの細い眉、穏やかと言えば聞こえはいいが間抜けな羊さながらだ。馴染んだ武器はちゃちな短剣。射撃は向いていなかったし、どれほどの怒りに震えても、かたく結んだこの拳から火が噴くことなど終ぞなかった。恐らくはこの先も。溜め息、は噛み殺す。鼻からそっと息をついて、胸の内を空っぽにした。感慨はない、思うところなど何もない、一人の女の死と等しく。凡ゆる事象はそれに似て空虚だ。ふと短剣を虚空に翳す。上空へ軽く放った得物が、狙った通りに刃を下に。銀の一閃となって降るのを、敢えて躱さず左頬に掠める。顔面の輪郭を涙の微温さで伝い落ちる血、血、血だなんて!ああこれが一体なんだというのだろう。
 目に見えるものなど何一つ受け継いではいない。あの御方が言及したこともない。確証などない。凡庸な一暗殺者に過ぎぬ自分がそれでもザンザス様の血を引くなどと噂される理由はたった一つ。床に落ちた刃が反射する相貌。この顔に生き写しという女──母が、母であるためだ。

 この城に暮らしながら唯一暗殺者でなかった女性。誰の種とも知れぬ赤子を産み落としたのはその人だ。顔をしげしげ眺めては、年々似てくるとみんな言う。けれど、容貌だけだ。ボスが連れてきた女について誰も詳しく知らなかった。手厚くしろとも命じられなかったので、殆どいないものかの如く扱ったとか。そんな調子だから、子どもの父親は必然的にザンザス様としか考えられない。消去法の憶測だった。ボスがなんら特別に扱わぬ子どもと同じく、部隊にとって彼女はその程度の価値だ。信教に属したのではなんてうろ覚えのように語ったのさえ、業界人にしては珍しく他者への関心厚いルッスーリア様くらいのもの。情報を擦り合わすこともできやしない、けれども何を求めてか。いつしか聖書を捲るのは夜分の習慣となっていた。
 汝は汗を流して糧を得、終に土へと還る、土から取られた身であるゆえに。塵たる汝は、塵へ帰すべきである。──『創世記』にて、神の御言葉(ロゴス)は土葬を言祝ぐ。
 ザンザス様は母を愛してなどいなかったろう。書物を抱えたベッドの中で、ときどきそんなふうに唱えた。あの御方が愛だなんて。寧ろ、憎んでいたに違いない。我らがボスの真紅の瞳はこの世の全てを睥睨する。だから身体を燃やしたのだ。死の床に伏す彼女にまだかろうじて意識が残るうちに。わざわざ信仰を蹂躙し、絶望を味わわせようとした。でなければ、おかしい。
 眠りに落ちる直前、閉じた目蓋の裏側に炎を見るのも日課だった。ザンザス様の灯すそれは導きの篝などではない。万象を焼き尽くす怒りの業火、しかし何より目映く輝くゆえに、蛾を呼び寄せては灼熱に散らす。ヴァリアーもそういう組織だ。死に急ぐ如く惹かれて集まり、あの御方の足元に屍を積む。どれほど忠義を尽くそうが、ザンザス様は例外などお作りにならない。誰の死も顧みない。悼まない。特別などない。無意識に頬を擦り付けて、枕に血が染み込んでいく。さっき切った頬、碌に保護もしていないから。別に珍しいことじゃない。怪我なんてよくあることだし、手当を怠るのなんてざらだし、殺し屋はシーツの模様を自らの血痕で描いたって良い。血。そう血だ。開いた傷口から滲み出す、母と、父の交わった証。父に犯された母の結実。愛であるはずがない。仮にこの血が、あの御方に連なるとして。母は虫螻で、他より少し目障りで、きっとだからこそ子どもは生まれた。愛され、祝福されるためでなく。その似姿を死後も尚留め虐げ甚振ることを目的として。そうに違いない。そうであってくれ。そうでなければ。でなければ自分は。


§


 忘れようとしている、或いは既に忘れているはずなのに、毎晩のように夢に見る。頬に傷をつくったときのこと。あの夜だ。ただ一度だけ、ザンザス様に呼ばれたのは。

 なんのことはない、普通の夜だ。普通すぎて、夢とも現実ともつかないほどに。終えた任務の報告で執務室に立ち寄った。戦闘を伴ったが大したことはなかったので、かすり傷の処置もシャワーも後でまとめて済ますつもりだ。ところで用事が後に控えていると、どうしたって諸々手早く済ませたくなる。そうして目の前のことがおざなりになりがちであるということを、アドレナリンに酔うと忘れてしまう。重厚な扉をそっと開いて、失態に気付き青褪める。室内には灯りがついていなかった。ノックをしたとき返事があった気がしたけれど、気のせいだったのかもしれない。ボスは仮眠をとっていた。机に脚を上げて、腕を組んで、いつもの姿勢で。妨げては殺される。だが立ち入ってしまった以上、報告を怠ることも許されない。せめてデスクに書類だけでも。
 後ろ手に戸を閉めれば空間は完全な闇に満たされた。しかし気配が、眠れる静謐のうちにも薄れることのない強大な威圧感が、歩むべき方向を教えている。猛獣の牙に触れぬよう足音を忍ばせて躙り寄った。木っ端とはいえ、言葉より先に暗殺術を叩き込まれて育った身だ。絨毯に羽毛を降らすほどの音さえ立てない自信があった。広大なウォールナットの天板の、ほんの片隅に報告書を乗せる瞬間も。けれどボスは、呼び止めた。初めて聞く、部下に対するのでない声色で。
 息を呑む。それはたった数音の、人名と推察された。知らない名前だった。勿論この身の通称でなく、伝え聞いている母の名とも違う。けれどもきっと、彼はその愛称で彼女を呼んでいたのだ。それが分かってしまうくらい、闇から差し延べられた手は。写し身の髪を、肌をなぞる指先は。
 俄かに灯された光が闇に慣れ切った目を灼いた。炎、未満の赫きは、しかし確かな熱と風を伴う。頬に添えられた眩しい掌、そこから湧き出す静かな熱波が髪をなぶって靡かせる。“母”の髪、そして、あの御方の目元にかかる長い前髪を。
「誰だ」
 伏し目の奥に宿る真紅の眼光、しかし問い糺す言葉は寝言だった。薄く目を開きながらも夢の中にいて、彼は“母”を問い詰めている。
「オレの許可もなく。誰が、おまえを……」
 現実であるはずがない。彼にとって、これは夢でなくてはならないのだから。
 炙られて、左頬の擦り傷が存在感を増した。忘れていたが任務中に銃弾が掠めたのだ。なんてことなかった顔の傷。その傷口に火傷を上書きされているというのに、声を上げることもできず立ち竦む。痛みなど、ああ今は、それどころではない。
 ザンザス様はお怒りだった。その銃口の向く先は、“母”についた傷でも、みすみす傷を付けられた“母”でも、その原因たる何かでさえない。凡百蔓延る現し世の事象など些事だ。身に受けたほんの軽い火傷を撫ぜて、その痛みでなんとか正気を保とうとした。理解してしまえば、きっと絶望するだろう。瞳を鎖ざし、再び寝息を立て始めた王獣から逃れるように、足早に部屋を去る。予感があった、想像してはならない。“父”が、母の身体を燃やした理由など。


§


「しししっ、まーた顔に怪我してやんの」
 一生ザコだな、とベルフェゴール様が嘲る。祖国と共にデリカシーをも捨ててきたらしく、こうも言う。「やっぱおまえがボスの子どもとかゴシップでもありえねーわ。殺していい?」
「やめなよ、ベル」ナイフで傷をつつく彼を、マーモン様が嗜める。「ボスに聞かれたらどうするんだい。根も葉もない噂でご機嫌損ねて、とばっちりなんて僕は嫌だよ。一銭にもならない無益な心労じゃないか」
「しかし、昨日は非番だったはずだ。鍛錬の心掛けは良いとして、任務でもないのに傷を負うなど未熟にも程が」「ルッスーリアが戻ったら孔雀で治させろぉ」「おいスクアーロ、貴様オレの話を遮るな!」直属の上司として説教をくれようとしていたレヴィ隊長が横槍に憤激するが、スクアーロ様は物ともしない。切れ長の眼の鋼の虹彩は、“女”の顔を彩る余分だけを冷たく見据えている。「原因はどうあれとにかくそのツラ、絶対ボスに見せるんじゃねぇぞ」
 あの夜に賜った火傷も、翌朝気付いたルッスーリア様がすぐに綺麗に治してしまった。幹部の方々は、彼らですら、損なってはならぬと信じているのだ。母の貌を。とうに消し炭にされたとは言え最期までザンザス様の持ち物であった女、その似姿を。実のところ、このような傷はなんでもないというのに。あの御方は有象無象の顔など見ない。傷付こうが爛れようが、意にも介さないはずだ。あの夜もそうであった。けれどもそれを声に出して指摘しては……それを自分が知っているということは、認めてしまうことに等しい。
 何も知らないふりをして、分かった顔で頷いてみせる。「気を付けます。“母”を損なうことのないよう」何度目とも知れぬ宣言を、上官たちは聞き流す。誰も笑いもしなかった。真実を知っていれば、実に笑える戯れ事だというのに。口元に浮かぶ冷笑を隠して、談話室に背を向けた。
 損なうことなどできようはずもない。わざわざ灰にし、復活を否定し、御許への道を阻んだというのに。あの女は二度と現れない、蘇らない。彼女の信じた神にさえ、彼はその存在を譲らなかったのだ。永久に地上から消して、彼だけのものにした。女のかたちのその空白を誰にも奪わせはしない。いや、──何を考えているんだ?そんなものが“真実”などと。憶測だ。くだらない。あの夜のこと、あれが本当に起こったのかさえ実のところ定かではない。ただの悪夢だ。凡ゆる事象は空虚だ。考えてはならない。ボスが、ザンザス様が、母を燃やした理由など。
 だって、それではまるで、愛していたかのようではないか。
 どっ、と骨に響く重たい音。拳に滲む鈍い熱──炎ならざる単純な痛み。廊下の大窓に映る姿を、視界にちらついたそれを反射的に殴りつけたのだった。炎を宿さぬ拳で。殴る。何度も。割れない。血に塗れたいのに。“父上”の血、あの瞳と同じ、炎の赤が見たいのに。素手ではガラス一枚割れない脆弱な身体を心底嫌悪した。弱者だ、母もそうであった。ザンザス様は母を愛してなどいなかったろう。いや寧ろ、憎んでいたに違いない。その血に連なる子さえ愛さぬあの御方が、なにひとつ例外なく愛さないはずなのに、子どもとよく似た容姿の女を、まさか愛することができていたのだとしたら。あのひとが愛を持ち得るなら。それができるのなら。ああ一体、血がなんだというのだ。しかし、血しかない。私にはそれしか。膝から崩れ、我と我が身を掻き抱く。あの御方に生涯、死んでも、きっと燃やして頂けぬ無価値な身体を。何故母だけが?あのひとと血も繋がっていないくせに!床を掻き毟る爪に、力が足りなくて、まだ剥がれない。血が出ない。愛であったはずがない。だって、だとしたら。血も、涙さえ絞り出せず、獣じみて無為に呻く。もし、あのひとが我々と同じく心をもつのなら。それならば、自分は。自分も。


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