Quello che i poeti chiamano amore.




※厨二 暴力 捏造 冗長 うろ覚え


 平凡を慈しむのは誰のためでもない。けれどその概念について考えるとき、決まって脳裡を過る人物がいた。並盛中学校の女子生徒だ。彼女は制服に身を包んでいる。大抵、気の抜けた顔をしている。特別なものなんてひとつも持っていない、そんな気負わない横顔。雲雀の視点でなぞられる過去ゆえに、紐付いて甦る情景はその殆どが遠景として。廊下で友人との歓談に興じていたり、弁当箱の中身について露骨に一喜一憂したり。誰と相対するときも、彼女はいつも“普通”であった。血腥い世界からは隔絶された、まさに校歌を体現するかのように平々凡々な。あの年、雲雀と同時期に並盛中学校に進学した生徒たちに限ったって、彼女のように甘いものを好む女子は他に何人だっていた。
 それでも強いて特筆するならば。人の名前を呼ぶ声色が、春の野山で見かけた鳥を指すくらいのやわらかさだった。ひばりくん。記憶の水底から引き揚げるとき、地べたにへたり込んだ彼女は、呆けた表情で雲雀を見上げる。多分、その日から。彼女はもう十年も、中学生の少女のまま、雲雀の心に棲んでいた。


 月下。街灯も碌に機能していない廃倉庫街を、突如として赤い閃光が切り裂く。背後からの奇襲はしかし、標的本人を捉えること叶わず。その立っていた地面を抉り取り、厚く砂塵を巻き上げるに留まった。
 無駄なく身を翻した雲雀は、すっかり瓦礫へ変じた足場に危なげもなく着地する。空中で反転し、革靴の先から軽やかに接地する様は、ありふれた日常の一幕が如く。実際、どこぞの刺客による襲撃など生活上の取るに足らない些事のひとつだ。今回だって、ただ一点を除けば。
 感傷に浸るでもなく身構えつつ、雲雀はほんの少しだけ過去の陽だまりを振り返る。優れた動体視力は振り向きざま、爆煙に覆い隠される前の刹那を以て正しく敵を視認していた。攻撃手段よりも人物そのものに目を引かれたのは或いは“彼女”だったからか。鋭くハイヒールを鳴らしながら砂煙を歩み出る女、妖艶な笑みで彩られたその貌にかつての面影は殆ど残されてはいなかったけれど。
「――やあ、見ない間に変わったね」
「らしくもない第一声。雲雀恭弥でさえその反応なら、これまで聞き流してきた甘言もあながち世辞とは言えないか」
 舗装路に態とらしく踵を踏み鳴らし、襲撃者は足を止めた。雲雀からは数メートルをおいた辺り――あからさまに戦闘を想定した距離感だ。およそ十年越しの再会。変わったな、と改めて評す。どんな背景にも素朴に馴染んだニュートラルな少女はもはやいない。雲雀の前に立ちはだかるのは、不敵に唇を歪める妙齢の女。肢体を包むスーツの白が月光を苛烈に照り返し、そのシルエットを埃臭い倉庫群に場違いに浮かび上がらせていた。きつく絞ったウエストラインに右手を添え、指輪の光る左手でミディアムヘアを耳にかける。
「でも会話を続けるつもりなら、綺麗になった、なんて間違っても言わないで? 旧知の男から投げかけられる陳腐な口説き文句には辟易してる」
「安心しなよ、君は汚れた。わざわざ指摘されたいのかい、“ミルフィオーレのボンゴレ狩り”」
「ふ、流石。あなたは変わらないね」
 くすくすと扇情的に笑う女に対し、雲雀は眉を顰める。芝居がかった仕草で、物言いで、敵対者であることを殊更にひけらかす態度が鼻についた。元より奇襲で片をつけるつもりもなかったのだろう。妙な話だ、こと戦闘において雲雀はボンゴレ最強と謳われる守護者である。手練れを前にわざわざ身を曝すとは、余程腕に覚えがあるか、他に目的でもあるのか。単に浅慮である、という可能性は除外した。彼女は平凡であったが愚かではない。その評価は必ずしも色眼鏡とは言い難く、現に雲雀は、初撃でコンクリート舗装を粉砕せしめた彼女の手の内を見極めきれていなかった。匣兵器による一撃であったことには間違いないが――洞察を巡らす視線はしぜん、女の左手に吸い寄せられる。薬指に煌めく重厚な銀色は幸福の象徴などではあり得まい。
「難しい顔。折角の再会だっていうのに……ああ、もしかして呼び方に困ってる? 安心して、姓は変わってない。この指輪はね、」
 言いながら、女は実に官能的な所作で鎖骨の前に左手を掲げる。白魚を思わせる繊細な手の、青く血管の透ける甲を雲雀の側へ。メインストーンを見せつけつつ、人差し指からなめらかに折り込んでいく。まるで挑発のジェスチャーだが、表情は寧ろ陶然として。彼女は睫毛を伏せ、軽く握ったその拳を覗き込むように唇を寄せた。指輪に口付けたのだ。やがて離れゆく紅唇を追うように、揺らめきながら炎が立つ。
「この通り。これは私が誰の手にも落ちない強者の特権を得た証左。勿論“あの御方”への愛の証でもあって、それこそが十指のうちでこの指を選んだ理由であるのは間違いないのだけれど」
 恍惚と蕩けた瞳の潤みに、舐めるような反射が踊っている。悪趣味なルージュを写し取った禍々しい赤。嵐の炎だ、純度も出力も申し分ない。女の仰々しいパフォーマンスに口を挟むこともなく、雲雀は冷徹に分析する。揺れ踊る嵐の激情は、少なくとも平和ボケした草食動物が一朝一夕で灯せる類いのものではなかった。旧知の人間を利用したはったりの線も潰えたらしい。溜め息ひとつ、雲雀はスーツの懐をまさぐる。女の瞳が喜色に輝いた。
「やっと武器を出す気になったんだ。炎を見てから判断するなんてお優しいこと。案外、女子供との殺し合いには躊躇するタイプだったりして」
「うるさいよ。リングの無駄遣いはしたくないだけだ」
「何にしても、使うに足ると認めていただけたなら光栄だね」
「さあ、それはどうかな」
 女もまた、上着の胸元に差し入れた手に匣を掴んだ。軽口の応酬の合間にも、二人は互いから目を逸らさない。肌を焦がす特有の高揚感。張り詰めた戦場の空気の中、相手の動向に睨みを利かせる。仕掛ける寸前の一挙手一投足を読み合って。決して近接の間合いでないのに、衣擦れや呼気すら感じ取れるようだった。ふと女の脚に力が篭り、足元の砂利片が微かに鳴く。――来る。雲雀の確信を他所に、彼女はぴたりと動きを止めた。

 ――緑たなびく並盛のー……

 この上なく牧歌的な旋律。だが女が目を見開き、明確に身を強張らせたのを雲雀は見逃さなかった。満面に張り付けていた余裕が揺らぎ、ずっと大袈裟に愉快がっていた口元が初めて引き攣る。が、「……ああ、電話? 耳障りな着信音だこと」それも一瞬、女は胸元に構えた匣兵器へ勢い込んで指輪を押し込む。散った火花がきらきらと、女の仮面の笑顔を照らした。
「気になるなら出てもいいよ、こっちの手は止めないけどっ」
「待たせるさ。君を咬み殺すのにそれほど時間はかからなそうだから」
「減らず口! これを見てもまだ言える?」
 給炎孔の円周を舐めていた漏火がふっと収束し、直後、殆ど炸裂と言ってよい爆風を伴って開匣する。彼女にとっては忌々しいらしい暢気な歌を掻き消す轟音と、夜気を退ける鮮烈な光源。明るさたるや業火の地獄。煌々と照りつける灼赤色が、女の純白の装いも、雲雀の髪やスーツの漆黒さえ染め変えて。解放された匣兵器は宙に渦壁を成し、巨大な火焔の竜巻の如く女の周囲を取り巻いた。
 燃え盛る炎の畝りは初め、紅蓮の龍にも見紛った。不定形の身体を幻想的に波打たせながら、中空にとぐろを巻いて主人を守護する。しかし暫く目を凝らせば。やがて個々に火を宿す幻獣の鱗が、総て独立した一個体であることに気が付く。
「ワオ、小魚かい。群れる弱者の象徴だね」
「私にお似合いだって? はっ。十年前ならそうかもね、だからこそ――」
 女が雲雀を指すと同時に、発光する巨躯の一部が小群を成して射出される。
「こうして無慈悲に使い潰せる。“並”を是とした三年間は、私の汚点だ」
 飛び退って躱す雲雀の足元に赤い閃弾が弾けて散った。続けざま着地を狙って撃ち込まれる、自壊も厭わぬ無数の魚群。破砕されゆくコンクリートが歪な礫を撒き散らし、粒子の大きな粉塵は煙幕となってたちどころに視覚を奪う。息もつかせぬ連撃はしかし、突如上がったロマーニコの火勢に振り払われて絶え果てる。霧散していく残火の中心、トンファーを構える雲雀の手元で紫炎を帯びた指輪が砕けた。
「リングの無駄遣い……なるほど、そういうことね」
 目を丸くした女が、瞬きののち残忍な笑みを深める。指揮者気取りで諸手を上げた女の周りにロッソ・スカルラットの颶風が鎌首をもたげてさざめき立つ。
「知れてよかった。自信になるよ。あなたもしているということは、使い捨てるってまさしく強者の振る舞いなんだね……!」
 女の操る匣兵器―― 嵐鰯 (サルデ・テンペスタ)はイノチェンティの試作品で、主題は大群。分解の性質をもつ小魚が炎圧に応じて無尽に生成され、注意の行き届く限りは一尾毎の緻密な操作をも可能とする、まさしく使用者の資質に依存する兵器である。女は、さる人物から与えられたこの匣を実に見事に使い熟してみせた。
 女は魚群を二重、三重に展開。敵の視界を遮りつつ、間合いに入れられぬよう巧妙に操っている。その勢力は凄まじく、渦に巻き込まれた倉庫の外壁、波型スレートがマスキングテープか何かのように容易に剥がれ、遂には宙でひしゃげるほど。同時に、雲雀が地を蹴れば、その先を狙って遊撃を出す。牽制でありつつ、一回一回が致死の威力を秘めた一群だ。
 幾千万とも知れぬ小魚に火を灯し、その一尾ずつにまで気を巡らすのは流石に困難を極めるものの。精度を半ば捨て去り、恵まれた性能を圧倒的な物量へと振った分解の炎は、盾として雲雀を近寄らせず、矛として着実に彼を消耗させているはずだ。現に、攻めあぐねているのか、敵は強引に押しては来ない。優勢。あの雲雀恭弥を相手に。女は陶酔に目を細め、熱に浮かされた口調で零す。
「……ねえ、雲雀くん。あなたは孤高の強者として、ずっとこの街を、学校を、守っていたね。その一部である私のことさえも」
 瞳は、過去を。烈しく煌めきながら舞い落ちる深紅の火の粉に重ねて見ていた。
「けれど、与えてはくれなかった。自衛のための爪や牙……当然だろう、あなたはただ飼い殺すんだ。平和、平穏、平均、平凡――並盛という退屈な箱庭、日常というつまらない茶番劇を」
 語尾は震えつつ、語気は強まる。呼応して勢力を増す嵐の炎、あらゆる属性の中で最も“炎”と性質が近いそれに破壊の願いを託しながら。
「あの御方は違う……白蘭様は、くださった! 私の望むもの! 独善的な庇護などでなく、平凡極まる弱者たちが、自分の足で立つ力! 加害者になるための! 己を正義と叫ぶための!」
 女の両腕が天を抱くかのように目一杯に広げられる。荒れ狂う波の如く唸りを上げ、燃えるストロンチウムにも似た旋風が四方より押し寄せた。回避に走る雲雀は転がって身を躱すさなか、体勢の変化を利用してトンファーを回し、起き上がりざまにも油断なく追撃を叩き落とす。しかし。雲雀は忌々しげに舌を打ち鳴らした。持ち前の勘と技術で直撃こそ防いでいるものの、この物量差だ。手足や頬、余波の掠めた至るところで肉が裂け、血を噴き出していく。
 負傷は雲雀の体力を奪い、同時にその闘争心をいっそう研ぎ澄ます。戦場を縦横無尽に駆け回りつつ、煮える血と凍てつくまなざしを以て、彼は戦況を淡々と分析していた。対照的に、渦の中心で悠然と構える女は。獲物を一方的に追い回す嗜虐の興奮にうっとりと唇を舐め、媒介となる指輪から更なる猛火を溢れさせる。
「ふ、ふふ。あはははは! もう私は“草食動物”じゃない。あとはあなたを廃してそこに立つだけだ、雲雀恭弥……!」
 残虐な哄笑が波音と共鳴し、その狂った熱が大気を炙り震わせていく。生命ごと燃やし尽さんばかりの異常な出力。実際、絞り出されるのは全力を超えた、全生命力と言えよう。炎を受けて無尽蔵に魚を湧き出す匣ムーブメントはもはや女の制御を外れ、無差別に周囲を損壊し始めていた。牙剥く小魚影は暴れのたうち、許容を超えた炎圧に自ら焼け死ぬものさえある。捌けども尽きぬ数の暴虐を紙一重でいなしつつ、雲雀は尚も冷静に戦局を見極める。周辺の被害の程度。地を捲り、空を掻き、文字通り“荒らし”尽す非道の群体は、もはや小手先の体術だけで躱しきるのは不可能だと認めざるを得ない。かつての同級生との小競り合いでは済まないというわけだ。
 つまりは、殺し合い。手心なしの。
 口の端を愉しげに吊り上げ、目だけは冷酷に“敵”を見据える。既に雲雀の中に過去はなく、情もなく。ただこの一時、血の煮え立つほどの生の悦びと、目の前の敵を無感動に排除する獣じみた闘争本能のみが滾っていた。ステップでも踏むかのように整然と身を返す雲雀の鼻先で、唸る紅色の暴竜が牙なき顎を凶悪に打開く。
「……ひたすらに物量で押す。なるほど強者の戦い方だね」
 ふと足を止めた雲雀は武器さえ下ろし、大口を開けて迫りくる魚群の炎波に身を曝す。女は歓喜に湧き立った。呑んだ。――獲った。
「同時に愚者のやり方だ。相応の力を備えていない弱者が選択すべきではない」
「な、っ!?」
 勝ち誇った狂喜の笑みは、しかし三秒と保たず瓦解する。瞠った目を灼いたのは、皇帝紫の鋭利な閃光。驚嘆に揺れる視線の先、魚群を散らした紫炎の爆心地はそこに佇む男に違いない。けれど、ありえない。女は震える声で呟く。あれだけの規模の攻撃、死ぬ気の炎で強化しているとは言え、トンファーたった二本の手数で打ち破れるはずがないのだ。狼狽え彷徨う女の目線は、一拍遅れてそれを捉えた。そういえばどうしてか、彼を襲わせたはずの魚群が明らかに数を減らしている。だが考えるいとまは与えられず。「さて、逃がさないよ」顔を上げた捕食者の無機質な瞳が、竦む女をまともに射抜いた。
「並盛の風紀を汚すのならば、たとえ君でも――咬み殺す」
 雲雀が力強く大地を蹴るのと、焦った女が魚群を展開するのはほぼ同時だった。匣から射出される際の最高速度をそのままぶつける、が、獣の理性は怯みもせず。紫炎を纏ったトンファーで紅い炎幕にメスを入れる。――おかしい、また。弾幕があまりにも薄い。咄嗟に顔面を庇った腕が軋み、女の濁った悲鳴が響く。
「肉弾戦は想定していなかった? 粋がって吠えていたわりに、随分と腰が引けている」
「ぐ……くそ、魚群――」
「この期に及んで魚を泳がすのに手一杯。草食動物のくせに逃げ足まで遅いなんて救えないな」
「っぁが!」
 本体に届いてしまえば後はシンプル。雲雀が選んだ攻撃手段は一切の容赦なく、トンファーによる殴打であった。殴り上げ、両足ともが浮いたと思えば返す槌で叩き落とす。出鱈目な乱打に見えて、死ぬ気の炎の推進力を乗せた打撃は分解炎の防御をも貫通、相手の骨を容易に砕いた。上腕、脛、顎の骨、肋骨、肩、鼻。雲雀はその手応えを無慈悲に数える。主からの供給が枯渇し、透き徹りかけたスカーレットの灯が幾千、今際の明滅と共に舞い落ちる中。ポールポラ・インペリアーレの麗しき炎舞は傍目には求愛に舞い踊る不死鳥の如く蠱惑的でさえあった。やがて腹への一打が臓腑を傷付けたのか、鮮血に濡れた女の口がごぼりと赤黒い重血を吐く。凶器が退いた一瞬、バランスを失った女の上体がぐらりと傾いた。
「ぎ、っう、ああああああ!!」
 地に足をつけて頽れるさなか、女が断末魔ともつかぬ咆哮と共に渾身の炎を解き放つ。主人の生命の波動を受け、風前で尚死に損なった灯魚たちが末期の気炎に再起した。この月夜を今一度、目も眩むような地獄の真紅に塗り替えながら。横殴りに吹き付ける全身全霊の嵐に、雲雀は瞬時に武器を構える。が、周囲を抉る破壊力を見るや迎撃体勢を解き、素早く後方へと地面を蹴った。……よかった。瀕死の女は薄く目を開け、血で塞がった気道から溺水じみた荒息を吐く。倒せないまでも、数分は稼げるはず。その隙に……撤退。死の方が幾分マシとも思える苦痛から目を逸らし、殆ど原型を留めていない廃倉庫の、剥き出しの鉄骨をつたってからがら立ち上がる。全身に走る激痛に呻き、よろめきながら。女は震える脚に鞭打ち、覚束ぬ一歩を踏み出した。
「……逃げ、なきゃ……も、いちど………びゃくら、」
「逃がすわけないだろ。さっきも言ったはずだけど、聞こえてなかったの?」
 祈るように紡がれる彼女の神の名、その語末を刈り取るが如く。鼻先の鉄柱を蹴り壊す勢いで、黒い革靴が吐息を踏み躙った。
「へぇ、一匹たりとも護衛に残さず僕への攻撃に徹したんだ」
 高潔なようで愚かな選択だね、と言葉の合間に斬って捨てる。彼を追尾するはずの紅の炎は、既に一尾の影すら生き残ってはいなかった。ありえない。眼前を突く闇色のスラックスを呆然と眺めながら、全てを失った丸腰の女は今度こそ糸が切れたように崩れ落ちた。見下ろす雲雀の顔には昏く影がかかり、その表情は読み取れない。彼はただ小さく吐き捨てる。
「……大人しく、臆病に、ただ守られていればよかったものを」
 なにもかも、ひとつも意味がわからない。ひどい眩暈に苛まれる視界をゆっくり滑らせていくと、夥しい数の魚たちが、冗談のように巨大なハリネズミに磔にされた情景が飛び込んでくる。悪夢だろうか。これは、だって、こんな。一本一本が人の脚ほどもある棘の隙間、苦悶に藻掻く一尾に焦点が合った丁度そのとき。吸われ尽くしたその灯火が、女の視界でふっと消えた。ありえない、ありえない。そんなことあっていいはずがない。女は痛みも忘れて放心する。だって炎は、この匣は、文字通り死ぬ気で欲して得た力。あの御方から賜った、燻る願望を見出してくれたあの御方に報いる唯一の――……。
「白蘭様……」
 ……まだ鳴くか。震える指を胸元で組み、弱々しく指輪を摩るばかりの女を、雲雀は冷めた目で見下ろす。うるさいからもうトドメを刺してしまおう。虫の息の女を目掛けトンファーを振り上げたその時、ポケットの内側で携帯電話が震え出した。血塗れた惨状と対極にある健やかな校歌が、夜の静寂に染み込んでいく。そういえば着信を保留していたのだった。当初の目算より随分時間がかかったな、と思う。いつぞやと同じくぼんやり自分を見上げているこの女が、平々凡々な毛皮の下に、想定以上の炎を宿していたためだ。
「ねえ、君をそうまで駆り立てたものは何?」
 構えは解かず、気まぐれに訊ねる。女はもう殆ど意識もないと見え、恐らくは一種の反射として、掠れた吐息で以て応えた。「羨望、」水面で餌を待つ魚の口が、はくはくと虚ろな声を溢す。
「覚えていないと思うけど、助けてもらったことがあるの」
 覚えてないよ、と雲雀は睫毛を伏せる。実際、ただの一度として、誰かを助けた覚えなどない。けれど、目の前の女――雲雀の中で時を止めていた少女が、彼と同じ日のことを思い返しているのは明らかだ。

 雲雀恭弥が並盛中学校に入学した頃、そこには何年も変わらずにある一定の秩序が存在した。凡人の域を出ない優等生が生徒会長を務め、大半の生徒に顔も覚えられぬまま生徒たちの代表を名乗る。自主自律を掲げつつ、全てがなんとなく教師や保護者に決められて。その枠内で守られた子どもと、属せずにいる不良が蔓延る。ぬるま湯のようなその秩序を、雲雀は瞬く間に塗り替えた。並中の代表はと問えば全生徒が雲雀を思い浮かべるほど圧倒的に。それは為したというよりは、自然に成ったものと言えよう。雲雀恭弥とは力そのもので、あるがままに秩序であった。自身の心のままに生き、その道に立ちはだかるものがあれば疑いもなく踏み躙る。彼の立つ場所が彼の領地となるゆえに、並盛中学校が彼のものとなることは、彼が願う以前に成就する単なる結果でしかなかった。
 自ずからなるその支配が指向性をもったのはいつのことだったか。少なくとも、視界に入った目障りな群れを気紛れに蹴散らしたあの時よりはずっと以前に違いない。地に伏した愚者たちの向こう側、囲まれていたらしい女子生徒と不意に視線が交わったとき。腰を抜かして彼を見上げる彼女の瞳の中で、雲雀は風紀の腕章を携えていた。雲雀が既に、誰に言われるでもなく、校歌に謳われる平凡を愛していた証拠だった。「ひばりくん、」そして呆然と彼の名を呟いたその声が、ただ同級生の名を呼ぶ響きがあまりに飾り気なく、フラットで。雲雀は思わず応えてしまう。「……君は驚くほど平凡だね」
 助けた覚えなどない。血の沸き立つ最大の快楽、彼自身たる暴力とは無縁の平凡を、彼女のために愛おしむのでもない。しかし愛すべきその概念に、雲雀は無意識に彼女を組み込んでいた。あの日からずっと。

「あの日からずっと。そこに在るだけで秩序となる、あなたの純粋で圧倒的な暴力に憧れていた」
「……ふぅん。実に草食動物らしい凡庸な答えだ」
 凡庸。呪詛でも吐かれたように悲痛に歪む顔を目掛け、馴染んだ武器を振り下ろす。
「力に焦がれて悪へと踏み外す心の弱ささえ、君はどこまでも平凡だね」
 意識を手放す寸前、彼女が最後に呼んだのはやはり雲雀の名ではなく。気を失ってあどけなく弛んだ表情だけがかつての面影を取り戻し、何とはなしに惜しいと思った。
 雲雀はその場に跪き、力なく横たわる女の手をとる。女がやたらに拘っていた左手の薬指。想いを力に変換する指輪を抜き取ってしまえば、その指はひたすら細く頼りない。雲雀が徒に握り締めるだけで、基節骨に罅入る感触があった。――特別なんて、君にはいらない。そっと呟いて踵を返した。普段ならば回収する敵のリングも、手中で弄ぶうちに壊れてしまう。放り捨てられて小さく鳴いた鉄屑の残響が消えたのち、去り行く男の靴音と、彼を呼び出す平凡の讃歌だけが夜の帳の内に残った。


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