ひかりの子ども




※1章後


「そういえば、おじいちゃん。どうしてあの女に図鑑を渡したんだ」
 孫が自分に向けるにしては些か刺々しい物言いに面食らったオーキド・ユキナリが思わず著書を取り落として著者近影に見事な折り目を残してしまったのは、第九回ポケモンリーグ開催翌日のことだった。
 
 
 オーキドはその日、早くも変わり映えのしない日常に戻り、研究業務に勤しんでいた。
 年甲斐もなくリングに上がりバトルの高揚に浸った次の朝とあって、流石に老体に堪えていたが、ポケモン学会の権威ともなるとそうそう寝坊もしていられない。寧ろ大会参加のために空白となった一日の埋め合わせで、本日中に消化すべきタスクは単純に平素の倍である。普段から助手として研究所に出入りしているナナミのみならず、図鑑完成の旅から一時帰宅している弟のグリーンも雑事を買って出、今は明日研究所にやってくる客人に失礼のないようにと散らかった研究所内を手際よく片付けてくれているところだった。
 
 過去の研究を洗い直す祖父の背後で夥しい数の図書に向き合っている生真面目な少年。彼はどうやらドクターOを名乗るオーキドが臨んだ準決勝戦の一場面が気に食わなかったらしい。
 気まぐれな雑談を装った切り出しではあったが、恐らくはずっとタイミングを見計らっていたのだろう。我が孫ながら無粋なやつだ、とオーキドは内心少し呆れた。長らく行方知れずだった少女の悲願が明かされ、同じ故郷をもつライバル同士が最高の舞台で熱いバトルを繰り広げ、まるっきり大団円のうちに幕を閉じたリーグ本戦。あの一連の感動的な流れに水を差す言及をしようとは。
 しかしながら、些細な引っ掛かりをとことん突き詰めたがる気質は紛れもなく研究者の遺伝子であり、また、自らの正義と異なる行いはそれが誰によるものであろうと見極めなければ気が済まないという実直さがこの少年の美徳でもあるということは、オーキドも重々承知していた。
 それにしても、だ。
 
 ──「どうしてあの女に図鑑を渡した」、か……。
 
 近頃は善悪二元論というイデオロギーが、オーキドにもすっかり馴染み深いものとなっていた。世の中のあらゆる事象を善か悪かに二分するという、思想としての概要はただそれだけの単純なものだ。白が善ければ黒は邪悪。そこに灰色の概念はない。暴力自体を目的とした凶悪な暴力も、幼子がその日を凌ぐためのささやかな盗みも、そこでは全く同列に扱われる。
 現代において然程厳格に論議されることもないであろうこの二元論に、しかし、オーキドのまだ十一歳の孫息子は、やや過剰に心酔するきらいがあった。ドグマと言い換えても差し支えないだろう。無論、この聡明な少年の語彙には「情状酌量」という単語も、会話の文脈に望まれればすぐさま取り出せる程度に身近な名詞として認められている。だが、彼自身の態度がその意味内容を体現することは、滅多なことではあり得なかった。
 
 悪は悪であり、善は善である。
 それはその前後に顕れる如何なる事象によっても覆ることのない真実であり、逆に言えばグリーンにとって真実とは唯一それのみであった。そして彼は当然のように悪より善を重んずる倫理の基に自らを律している。言葉に対して好きも嫌いもないが、「情状酌量」などという熟語を充てて罪を見逃すよりは、「因果応報」の考えに則って罰を下す方がどうやらグリーンの肌に合っていた。
 白を見出せばそれを守り、黒と見なせば断罪する。
 汚れなき白を名に冠する土地に生まれ育ち、その恵まれた生を誇れるようにとストイックに努力してきたグリーンは、幼くして時に周囲の大人たちとさえ反発するほど頑なな善悪観念を身に着けていた。そして同時に、自らの行動規範にそぐわない者を自力で打ち破るほどの実力も兼ね備えていた彼は、その観念に対する信仰を相乗的に磨き上げていった。
 善きを扶け、悪しきを挫いた経験。己の判断に対する絶対的な自信。それは敬愛する祖父からポケモン図鑑を預かって旅を続ける間にも積み重なり、誰の目も届かないところでより苛烈に成長を遂げていた。
 それが時折、こうして目に見える形で示されるたび、オーキドはある種の感激や寂寥感、或いは遣る瀬無さに似た何かが縺れ合ったような表し難い情緒が胸中を吹き過ぎていくのを感じるのだった。
 グリーンは回答を待つ間も黙々と本を整理する。丁寧に埃を払われ、時にはグリーンがより良いと判断したように並び替えられ、この狭い書架の内でさえ、彼が一度でも触れた箇所には潔癖な秩序が与えられていた。乱雑を許せないのは性分だろう。しかし、少々危ういか。一分の隙も無く整然と埋められていく書棚を眺めつつ、オーキドは、少年が祖父の前で一度も呼んだことのない名を静かに音にする。

「ブルーを、許せないか」
 
 グリーンは動揺を表情に出さない。したがって、不意を討たれた衝撃は、より末端に表れた。飾り気のないスチールの板を組み合わせたばかりの簡素な造りの本棚の三段目。グリーンの指先が、次に触れようとしていた青い背表紙を咄嗟に避け、隣にあった幅広の白地を無意味になぞる。心の柔らかい部分に爪を立てられたように、まるで傷を隠した猫の仕草だ。
「……どんな理由があれ、盗みはいけない。そう言ったのはおじいちゃんだろう」
 問い返すより先に初めの問いに答えるべきだ。と、そんな風に、普段であれば真っ先に口答えしそうな場面である。迂闊にも素直に応じた彼は、質問の内容以上にその名の響きに動じたように見えた。
 
 いっぱいに見開いた瞳に、海の一番澄んだところを閉じ込めたような美しい光彩をもつ少女、ブルー。「あの女は、」やはりその名を避けたまま、グリーンが言葉を継ぐ。
「あの女は自分勝手な願望でゼニガメを連れ出しただけじゃない。レッドのトレーナーバッジを盗んだり、詐欺行為だってはたらいた。オレたちが知らないだけで、もっと多くの被害者がいるはずだぜ」
 無計画に手に取った本を収める位置を探しつつ、努めて冷静に数え立てられる罪科は、彼の中で幾度も反芻されたのだろう。被害者、という援軍の存在までも、少年はなめらかに提示してみせた。許す、許さないの問題ではなく、一度でも他者を害した彼女の在り方は悪だ。言い聞かせるように主張する、その裏で少年の胸中を荒らしている葛藤など当然見透かして、オーキドの声の調子は円い。
「生き延びるために、かつてはそれしか方法がなかったのかもしれん。だが、ブルーはもう盗みはせんよ。今のあの子にはそうできるだけの力と、誇りがある」
「不確かな未来について口約束を結んだところで過去の罪が消え去るわけじゃないだろう。仮に罪人がその先の人生を潔白に生きようが、それは土をかけられた者たちへの贖いには成り得ない」
「あの子から更生の機会まで奪うつもりか? ブルーはそもそもが不幸な事件に巻き込まれた被害者だ。マサラタウンの少女としての平穏な半生を奪われたあの子が、無事に生きて故郷に帰った。その結果を齎した過程を、この上さらに糾弾しろと言うか」
 被害者。
 そのオウム返しの形容に、グリーンが言葉を詰まらせる。かつて鳥ポケモンに連れ去られ、故郷の名だけを祈りに唱えながら我武者羅に生きてきた彼女が、今後普通の少女として生きるために何が必要か。それこそが初めの問いの答えであることくらい、この聡明な孫息子も理解している。それもまた、穏やかに目を細めるオーキドの知るところだった。
 
 グリーンには分かっている。彼女が、彼の愛するこの田舎町を同じように特別に想う少女であること。その骨の髄まで染みついた、不愉快なまでに賢しらな打算が、幼い少女の身で生き抜くために否応なく身に着けた大切な武器であろうこと。素性を知らなかったとはいえ、ロケット団との決戦では三位一体の攻撃を繰り出し、敵の切り札を共に打ち破った。その時に垣間見た実力と、ポケモンへの真摯さは本物だった。
 
 それでも、と。ほとんど無意識のうちに背表紙を引き、グリーンは一冊の書物を手に取った。経年の変色と埃の匂いの目立つ、黒い装丁の本だった。微かな迷いにぎこちなくなる右手で、先ほど空けてしまったばかりの目の前の隙間に差し入れる。本来空くはずではなかった青い背表紙の隣。周りに並び立つ本とは内容の関わりも薄い一冊は、その空白を埋めるにも、ほんの僅かに厚みが足りない。グリーンが作り上げようとする完璧な書架の一部として、その配置は正しくなかった。
 しかし、こうあるべきだ。そう信じてきたはずだった。
 グリーンは息を詰める。ざらつく言葉を奥歯で噛み、噛み締めて、噛み締めて、やっと息を吐く。
「それでも……おじいちゃんの大切な図鑑を託すに値するのかどうか、オレには分からない」
 彼女は黒だった、悪だった。この少年の中にある真実はそれだけだった。世界は二元論でしか語られないからだ。
 かつてヤマブキシティを覆うバリアの前で、独りロケット団に挑もうとする意固地な気持ちを溶かした毒気のない笑顔も。表彰台の上から彼の名を呼んだ、明るく弾む無邪気な声も。故郷への想いを語るその眦を光らせていた美しい涙も。疑いはしない。まして嫌悪するわけでもない。
 しかし、どうしても、白と言うことはできなかった。
 
 いつも傍らに寄り添っている、オーキド研究所で進化するはずだったカメックス。彼女に抱き着かれた数分後、慌てたように持ち物を確認するレッド。彼女の過去が顔を覗かせるたび、グリーンの全行動の指針であった、少年らしいシンプルで潔癖な善悪観念が酷く疼く。
 彼女の在り方を認めてしまえば、これまで生きてきた世界が瓦解する。信仰が、自我が、正義の天秤が破壊される。そんな言い知れぬ恐怖があったのだろう。同じ故郷と数奇な運命を持ち合わせた少女との出会いはそれほどまでに強く、早熟にもすっかり凝り固まってしまったグリーンの価値観を動揺させていた。
 
 その時、長らく机に噛り付いていたオーキドが不意に立ち上がったので、グリーンは咄嗟にその気配を目で追った。祖父は、声を震わせた孫に歩み寄るでもなく、ただ眩しい窓辺に立った。そこでは嵌め込まれたままの硝子を透った味気ない日差しが、きらきらと舞い惑う埃も、部屋を満たす静寂も、纏めて光に変えている。午前が午後に変わっていく時間の温度のない光だ。つい一瞬前までの思いつめた心持ちが少し毒気を抜かれ、グリーンはたった今生まれたような心地で祖父の背中を見つめた。
 
 オーキドは許せともそれでいいとも言わなかった。ただ、今、図鑑はあの黒いワンピースの女の手にあり、それは今後も変わらない。その事実だけが改めて、触れられるほど近くに示された気がした。
 
 オーキドは窓の向こうを見ているようだったが、薄暗い室内に目の慣れたグリーンには、それはただ長方形の白い光にしか見えなかった。それを高潔だと思いはしたが、寧ろ目を逸らした先にある、部屋の隅の濃い陰影が優しい。加えて、その陰の中で息を潜める、手つかずの書棚の群れ。グリーンの手が入っていないそれらは依然として統一なく、ある本は斜めに傾き、ある本は題の頭を床に向け、大きさの異なる本が互い違いに差し込まれ、古い段ボール箱がブックエンド代わりになっているものもある。不意に、それがなによりも正しく、都合のいいことのように思われた。
 
 グリーンが今よりずっと幼かった頃、オーキド研究所が宝箱だった時代がある。今だって、たとえば整然と並べられたモンスターボールの、その棚の静謐は神聖だ。けれど、美しいと感じられるものはそれくらいかもしれない。研究者という生き物は割合に整頓が不得手らしく、この研究所は几帳面なグリーンには信じがたいほどに物が溢れ、いつでも混沌としている。
 それでもかつて、棚に入りきらず床にまで積まれた本は世界の広さの象徴だった。段ボールからはみ出した書き込みだらけの古地図は無邪気な冒険心を擽った。グリーンには理解できない難解な言葉を書き連ねた一枚の紙さえ、オーキドは価値あるものとして、しかし些か杜撰に、机に貼り付けてとっていた。
 狭い室内を埋め尽くす情報の洪水。もう用を終え、捨てられるのを待つばかりのメモ書きも、覆されたかつての定説も。誰かに改竄された偽りの研究結果や、或いは世界中の何もかもから忘れられて埃を被っていただけのものもあったかもしれない。しかし、一度は選ばれ、集められてそこにあるという事実は純粋だった。
 偉大な研究者の居城のあまりの無秩序を眺めながら、己が手を入れるのであれば決してこのようになるまいとは思いつつ、その中に身を置くのは大らかな祖父の腕に抱かれるようで居心地がよかった。その時そこに二元論はなく、この混沌の内包するもの全てを区別なく守りたいと、単純にそんな決意があった。散らかった本の収まるべき場所など考えもしなかった。
 
 今目の前にある、青と黒の二冊を並べた本棚の、不完全な三段目。それでも一冊一冊は自立しており、研究所内の本棚の中では飛び抜けて整えられたものと言えた。傍目に見て違和感に気付くものなどないだろう。たった数時間この研究所に立ち寄るだけの客人どころか、研究員の目にさえ留まるまい。これでいい。この愛する研究所の書架の一部として相応しい形だと思った。
 光の届かないその箇所を暫く見つめた後、グリーンは祖父を振り返る。そういえば、と、こうした会話の機微において些か不器用すぎるこの少年は、またしても同じ切り出しで話の流れを変えようとした。「そろそろ昼だ。ナナミねえさんが呼びに来るんじゃないか」まだ強張ったままの語調で、声のトーンを少しだけ高くして。
 オーキドは軽く微笑んで、平静を装う孫息子に今度こそ歩み寄った。怪訝そうな顔で見上げてくる彼の、硬質に逆立った髪をそっと撫でつける。
 そして、その優しく老いた指は物言わぬまま、白と黒、二冊の本の位置を取り換えた。
 本棚の三段目から隙間がなくなる。青と白の並んだ本来の配置、完成された書架。呆けた様子で一連の動作を見守っていたグリーンの肩からやがて力が抜け、その口元に自嘲的な笑みが浮かんだ。
「……分からないんだ。あの女をなんと呼ぶべきなのか」
 目の覚めるような海色の背表紙、『ポケモンの進化』と箔を押されたその凹凸を確かめるように、少年の指が行き来する。

 あのおんな。ブルー。長い癖毛を背中に流した、吊り目がちの瞳をいつも油断なく光らせている少女。女と呼ぶには齢は幼く──しかし、相応しい強かさを備えた、女。グリーンがただそう呼ぶ。黒いワンピースの女。抜けるように白い肌をもつ女。あの、女。あの女は。
 
 ──あの女は悪なのか? それとも恥ずべき罪に塗れても、はじめに奪われ、生を望み、夢を夢見ただけの本質は汚れないのか。償えば、罪は跡形もなく濯がれ、善になるのか? それならばあらゆる悪には赦しが用意されてあり、だとしたら、悪を悪足らしめるもの、善を善と定義する物差しはどこにある? 無垢とは善か? 罪は、全てが悪なのか? ではあの鳥ポケモンは? 攫われた少女は何者だ? 罪とはいったい何だったか。オレがオレの物差しであの女の在り方を否定していること、或いはそれこそが忌むべき罪で、このオレの傲慢こそが人の道を外れた、悪なのか──……?

「グリーン」

 祖父に肩を叩かれる。その手の力強さ、温かさに、今更のように打ちのめされた。グリーンには慣れ親しんだ家族の温もり。図鑑を差し出したこの手に縋りつき、泣き崩れた少女を知っている。黒いワンピース。白すぎる肌。
「あの子は、ブルーじゃ」
 そして、少女の瞳は青い。本当はとっくに知っていた。それは黒でも白でもなく、美しい青色だった。
 
 ゆっくりと顔を上げた孫息子に微笑みかけ、オーキドは、図鑑を出しなさい、と促した。少年は素直に従った。少年の手の中にある夢の機械、あらゆるポケモンを記録できる図鑑。それは世界を広げるツールだ。
「あの子を認めるのがまだ怖いなら、おまえにひとつ魔法をあげよう。その名で互いを呼び合うとき、おまえもあの子も、そしてレッドも、お互いにとって他の何者でもない。善悪の彼岸にいるのだ」
 ただし、魔法はいつかは解ける。オーキドはそっと息を吐いて、子供たちが鎧を失う日を想った。もしもその時、今と変わらずグリーンの世界に色がなければ、きっとこの純粋な少年は今度こそ本当に埋もれ、潰されてしまうだろう。あの美しい少女の名を二度と呼べないまま。
 
 魔法はまやかしでしかない。本来であれば、歩くほどに広がっていく無限の世界の片隅で、自家撞着に溺れる時も、人はひとりだ。世界がそのようにあるのは、きっと人の成長が、緩やかな歩みの如く想定されているからだろう。子どもは、やさしい誰かの腕に守られながら、立ち止まって鞄を開き、抱えるものを選び、時に捨て去りつつも、歩き続けられるように育つ。母の声にあやされ、父の背中を追い、少しずつ、少しずつ。
 ただ、それでは、立ち止まる余裕もなくひたすらに走り続けてきたこの子どもたちがあまりに報われない。
 たとえば確固たる自己を確立すべく、世界を黒と白に閉ざした少年も。
 たとえばただ自分らしく生きるべく、あらゆる手段を厭わなかった少女も。
 運命の気まぐれとも言うべき巡り合わせで、僅かに「普通」から取り零されてしまっただけで。一歩ごとに緩やかに消化されていくべき矛盾を小さな両手に抱えたまま、その重みに押しつぶされる日まで、彼らは止まれないのだ。
 
 これはほんの少し、歩を緩めるだけの魔法だ。隣に二人、分身を伴い、ただ共に歩む速度を教える。オーキドには、グリーンの抱える葛藤も、ブルーの背負った運命も、掬い上げてやることはできない。自らかけた呪いは自ら解かねばならないからだ。けれど、確信があった。三人ならば、大丈夫だ。
 しっかりと図鑑を握り締めている小さな手を、オーキドは今一度、両手で強く包み込んだ。

「あの子はブルー。おまえの仲間だ。グリーン、ブルー、レッド。おまえたちは世界にたった三人の、マサラタウンの図鑑所有者≠ネのだよ」


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