決して訪れぬ明日のエスキス
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 遂に届いたその葉書を手にした刹那、ほんの一瞬だけ胸を衝いた懐かしい感覚に、そういえば未だ名前をつけていなかった。

 薄く開いた唇からやっと息を吐き、浅く呼吸を取り戻した侑は、ダイレクトメールの山に紛れていたただひとつとくべつな紙きれを眺める。今どき入籍報告なんて葉書で送るものなのか。仕事絡みだったら兎も角、音沙汰絶えたわけでもない双子の兄弟の元にまで。
 当て付けならばどうしてくれよう。今は遠き春の日に、おまえより幸せになると宣った片割れへの。そのくせあの柔いてのひらを掴み損ね、二度と彼女の温もりを知ることのない、永久にバレーボールのためだけに円い侑の指先を、或いは哀れんでいるのだとしたら。
 自嘲の笑みさえ浮かべながら、侑は力なくソファに沈み込んだ。まさか。まるっきり八つ当たりじみた被害妄想だ。何も、悪辣な意図などあるはずがない。分かっている、なのに何か居た堪れず、撫でつけた前髪を掻き回しては、ざらつく悪態を噛み潰す。

 ただ、いつかの“明日”がきただけなのだ。侑はこの日がくることを、とっくの昔に知っていた。あの、かつて名付けることをしなかった、久しく埃をかぶらせていた情動だって、まさしく今日この時のために用意されていたものなのだから。

 心だとか呼ばれる器官が仮に存在するとして。まだそこに息衝いているはずの感情を、侑は気紛れに手繰ろうとした。便宜的にでも何か、呼び名を与えようと思ったのだ。名残りの雪にも近しいそれは、まさぐるうち瞬く間に溶け消えて。そうだ、あの春も。こんな不確かなものに掻き乱されていたのだと、思い出された苦々しさが、感傷の手ざわりを塗り潰していく。
 掴むこと叶わぬ胸懐の代わりとばかり、侑は手元に握り締めている大判の写真に視線を戻した。もはやあの突き上げるような衝撃が心臓を揺らすことこそなかったが、それでも静かな感慨は湧く。なにしろ、その矩形に切り取られた幸福は、かつて治が語ったまま。身を寄せ合って微笑みながら、侑の脳裏に呪いのように焼き付いたあの日の“明日”を、そっくり具現しているのだった。




「俺、あいつと結婚すんねん」


 治が未来のことなど口にするようになったのは、あれは忘れもしない高校二年の終わる春。

 桜の開花が例年よりもだいぶん早かったように記憶している。底冷えの夜の心細さを思い出せなくなるほどに、陽光に温められた風の手触りが、どの年にも増して滑らかであった。卒業式を終えた午後にも、空は柔らかにくすみつつ晴れ渡り。すっかり満開を迎えた桜花が、去りゆく人の往く花道をその名の通りに彩っていた。
 アランや北らの代を見送り、学年の一つ繰り上がったその春を、侑が何某かの始まりの機と捉えることはついぞなかった。受け取った新たなユニフォームにただ一人だけキャプテンマークを引き継いだ寂寞の初春の底に、侑は多くのものを置き去りにしたのだから。

 その厭わしくも麗しい季節を眼裏に灯そうというとき、未だ鮮やかに蘇る情景がある。

 開き過ぎた花弁が零れ、薄くれないの風が吹き巻く帰路だ。半歩だけ前を歩く治は、先立つ人を送り出すために整えた、きちんと全てのボタンを留めた制服を着崩さぬまま。侑の無言を補完するが如く、珍しくやや饒舌でいる。とは言え、それらは殆どが、ひとつ区切りに乗じた確認作業のようでもあった。決意表明、或いは未来などという、とろりと透き通る蜂蜜に似た不定形を型に流し込む工程がそれか。前を向いたまま語る治は、春風に煽られる片割れのブレザーの不機嫌なはためきに気付きもしない。

 幼馴染の女とのことを治が言うのは、この時で何度目だったろう。キャプテンマークを掲げぬユニフォームを最後に、一年と待たずバレーボールを辞めることを宣言した日から始まった、お決まりの“これから”の話としては。
「俺はあいつと生きるけど、侑、お前どうする」
 彼女を話題に出すときの、近頃のやんわりとした言い様だって、十分、侑を不快にさせてきた。ただ、この日に比べれば、それらは幼馴染との変わりゆく関係を仄めかすに留まる、生やさしい雑談に過ぎなかったのだ。いつの間に、熱病とまで育て上げたのか。振り返りもしない背中を睨めつけては、眉間に深く苛立ちを刻んでいく。

 なにが、どうする、だ。身を引けと言われているようなものだった。

 バレーボールに期限を切ったあの日以来、自分にだけ見えている光景を片割れに明かすとき、治はいつも確信めいた物言いをした。言葉は、鎖だ。治は無数に転がる可能性の中から、不確定であるべき明日の中から、それをたしかな、不可避のものとして分節しようとしていたのかもしれない。
 はたして言霊は、みごと侑を呪っていたらしい。押し付けがましく共有される治の未来とやらの心象。そこでは“飯に関わる”治の隣に、当然のように女が佇んでいる。愛を囁かれる幸福に、微笑を浮かべてこそいたものの。それはずっと侑の隣にもいたはずの彼女と同じ顔をしていた。
 侑は噤んだ唇を、更に歯を立てて噛み締める。未来、などと。治の口から聞きたくはなかった。だってずっと、無数に連なる現在だけを生きてきたはずだ。過去を振り捨てて、ただこの刹那を走り抜けていくことが即ち明日に向かうことと、侑は今なお信じているのに。
 現在を重ね続けた延長線上にある、通り過ぎるべき未来とやらに、侑は彼女の満ち足りた微笑みを想像することができなかった。なにせ侑の両腕は、彼女をやわく抱き留める仕方を未だ知らない。

 沈黙は、どちらの未来が善いものであるか、などという殊勝な逡巡に因るものでさえなく。侑は深く息を吐いた。わからないのだ、彼女を壊さず繋ぎ止める力加減も、今更手放す方法も。言葉を堰き止める名もなき感情の渦を、だからただ、痛みと処理して呑み込んだ。

 窮屈にボタンを留めた上着の中に当然のように収まって、目の前の治はずっと遠くを見詰めている。そんな片割れとの間に横たわる埋め難き断絶を憎んでか。それとも彼女を今更慈しもうとも思えない、研ぎ澄まされた己の在り方を保たんとするがための意固地か。胸を掻き毟りたくなるような衝動に委せ、侑は吐き捨てる。
「俺は要らん。勝手にお前のもんにしとけ」

 見慣れた街に遍く花を撒きながら、温い追風が吹き過ぎていく。治はやはり振り返らなかった。


(決して訪れぬ明日のエスキス1/2)


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